働いていると本は読めないのか
なぜ働いていると本が読めなくなるのか、という本を電子書籍(スマホ)で読んだ。
私は、たぶん本を読んでいないと、とてもじゃないけれど働けない。
著者の考察によれば、読書は「ノイズ」を発生させるらしい。
そのノイズが効率化一辺倒で作られた仕事的な価値観と相容れないのだ。
なるほど、たしかにスマホゲームも親指1本でそれなりに遊べるよう省力化、効率化された遊びでノイズも無く、つるつるしている。
最近のSNSもサブスクの音楽も動画も全部、ノイズを少なくするようにできている。オススメが見やすい位置に表示され、その精度も上がっていて、自分の好みじゃない情報がなるべく入らないように配慮されている。
一方、読書はノイズが多い。
物語もエッセイも誰かの人生や生き方をいったん引き受ける形で自分の中に入ってくる。それは思ってもみなかったものかもしれないし、読み終えるまではここではない違う世界を頭の片隅に作っておかなければならない。
まどろっこしくて、ざらざらしてる。
でも、私はそのざらざら感が好きだから、本を読んでいる。
一日中、仕事のこと、家事のこと、育児のことだけ考えて生きることがしんどくて、たった5分でもいいからここではないどこかの暮らしを想像したい、そう思って本を読んでいる。
全然共感できないこともあるし、つまらないなと思うこともある。でも、そういう偶然性も楽しみの一つのはずだ。
本が好き、という人はまだまだいっぱいいるし、同じように偶然性を楽しんだり、効率性や生産性から離れた、ざらざらしたノイズを楽しんだり、しているんじゃないだろうか。
私にとって、本が読めなくなってしまうときは、よほど疲れている時かひどく気分が落ち込んでいる時か、忙しすぎる時で、いずれにせよ調子の良くない時だ。もちろん、働きすぎたら、調子は悪くなるし、本も読めなくなる。
情報や知識を仕入れるために、本を読む人もいるだろう。私にとって、それは仕事の感覚に近い。効率的にいい情報を手に入れたい、と思う。でも、読書にそれは求めていない。
だれかの日記を読むのが好きだ。そこには、自分の人生に役に立つことはひとつも書いていないけれど、自分とは違う人生を生きているその日々をなぞるのが楽しい。こないだもたくさんフリマで日記の本を買い込んだ。noteもみんなの日記が読めるから、続けている。
本を読むって、本さえあればすぐにできる、難しいことじゃないのに、どうしてこんなに難しくなっちゃったんだろう。それはノイズを排除しがちないまの社会の構造のせいなのかもしれないし、単純に忙しいだけなのかもしれない。働くも、本を読む、もバランスの問題なんだろうか。とすれば、現代はいろんなもののバランスを取るのがすごく難しい社会なのかもしれない。
これが正解、というものでもないし、著者の理路も面白かった。けれど、いろいろスッキリしないまま、ずっといろんなことを考えている。もっと軽やかに、もっと自由に、もっと無駄に、本を読んで語り合えたらいいな。