見出し画像

リモートワークができる、という奇跡

いま、私は病児保育事業を行うNPO法人と採用支援を行う会社に所属しているけれど、どちらもほとんど在宅勤務で働いている。

子どもの学童で感染者が出て、なるべくの自粛協力を求められているのと、学校も分散登校で、家に帰ってからの家庭学習の時間もある。家庭学習を子ども一人がお留守番して、一人でやるとか、ほとんど無理だ。そんなにお利口さんじゃなくてもいい、と思っているし、親の手助けが必要な場面は、子どもは頼っていい、と思うから。

でも、私のように在宅勤務で副業もできて、家のこともほとんど外出せずにできる、なんて状況は、ほとんど奇跡に近い。

「共有フォルダ」が会社のサーバの中にしかない、オフィスにしか電話がない、そもそもノートPCを持ち出せない、スマホで連絡が取れない、そして家で仕事するなんて、という抵抗感や空気。オフィスワーカーだけでも、いろいろなハードルがあって、それを乗り越えなければならない。
そして、接客、工場勤務、医療、保育、福祉、その「場」にいないと絶対にできない仕事がある。

Googleドライブでファイルが共有できて、いろんなサービスがクラウド化していて、電話もPCで受けられる。ノートPCも軽くて持ち運びやすくなった。コミュニケーションのほとんどはチャットやzoom会議、稟議もハンコも、行政書類の提出も電子化が進んでいる。最近では、郵便を代わりに受け取ってPDF化してくれるサービスもある。オフィスワーカーが「会社に行かなくてもいい」ように技術が進んだのは、本当にここ10年くらいのことだと思う。

家事のほうを見てみると、食材や日用品の買い物も、ほとんどがネットでできるようになっている。以前はおむつやトイレットペーパーなどかさばるものを苦労して運んでいたけれど、全部宅配の人が玄関まで運んでくれる。重いペットボトルの水やお茶も、新鮮な食材も、面倒なときはデリバリーのお弁当も、以前に比べて格段に利用しやすくなったし、特にデリバリーは選択肢が広がった。

一方で、それを可能にしているほとんどの前提が、インターネットだ。ネットとPCやスマホがあれば完結できる仕事でなければ、リモートワークはできないし、そんな仕事ってほんの一握りでしかない、と思っている。

平日の朝、出社のために電車に乗る。沢山の人が緊急事態宣言の今でも乗っていて、座ることはできない。当たり前だと思う。いくら呼びかけをしても、生活のためには職場にいかないといけない。
大学の授業がオンライン化しても、オンラインでは手に入らない資料や文献や論文集が、大学の専門性の高い図書館にしかないことはたくさんある。

私はただ運がいい、だけで、比較的安全な場所に留まり続けることができる。リモートワークを円滑にするにはどうしたらいいか、という知見は私にもたくさんあるけれど、安易にみんなもっとリモートワークしよう、なんて言えない。それに、ずっと家にいるだけの生活を望んでいるわけでもない。

一部の人だけが恩恵を受けられる奇跡のような状況を、当たり前かのような所与のものとして、広く求めないでほしい。それでも私はそんな状況の恩恵を受けている。
その経験や知見は惜しみなく提供したいけれど、新しい技術はどんどん生まれても、人は急にはやり方を変えられないこともここ最近は痛感している。

Twitterやnote、ネットのコミュニティだけでとても共感し、深く話せる間柄になった人もいるし、必ずしも対面だけのコミュニケーションが全てではないけれど、それが必要な場面もたくさんある。いろんな背景をもった人が組織には集まっている、ということに自覚的でないと、つい先走ってしまいそうになる。自戒を込めて、今この状況で、わたしは何ができるだろうか、と改めて考えたい。

人との繋がり方も、働き方も、ずっと複雑になって、「場」のあり方も変化を求められている時代で、人と人とが安心して「触れる」ことが、どうしたら実現できるだろうか。


この記事が参加している募集

リモートワークの日常

読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。