デューン砂の惑星 PART2 感想
デューン砂の惑星 PART2が2024年3月15日に本邦にて公開されたため、一週間遅れで映画を視聴した。
その感想を今回の記事で書いていこうと思う。
1.映画感想
画の一つ一つが力を持っていた。
観ているだけでまるで自分が砂漠に迷い込んで、一緒に旅をしているようだった。
サンドワームに騎乗しながら砂丘を駆けるシーンは、砂を自分も浴びるような気分で見ていた。
特に一番カッコ良かったシーンは核兵器を皇帝の艦船に向けて発射するシーンである。核兵器の爆発、砂漠の風に揺られるポールのマントという核を遠慮なく使う気前の良さにドン引きして、風にたゆたうマントのカッコよさが共存することに驚いた。
ハルコンネン家の本拠地であるジェディプライムが格好良かった。
突然砂漠のオレンジ色から白黒の世界になるのだ。
白と黒だけの世界というのが格好良すぎる。
そこではみんな丸坊主であり、決闘に夢中になるから恐ろしい世界だ。
一番恐ろしいのは花火であり、花火が爆発する時火花が液状なのである。
どうなっているか原理が分からないし、花火の音が聞こえたと思ったら花の形ではなくて墨汁のような模様が広がっているのだ。
恐ろしさと格好良さが同居していた。
アラキスの空気を漂う香料が惑星に住まう人々の目を青く染めるのだが、ポールとレディ・ジェシカは命の水を飲むことによって目が青くなる。
ポールとレディ・ジェシカの目が青くなりカリスマ性を発揮することによって、より白人酋長感が出ていた。
ポールがカリスマ性を纏うと周囲は救世主と崇めたてるのだが、崇め方が怖くてポールの導きのままフレメンが突き進むのではないかという恐ろしさがあって、アンチ白人酋長になっていて良かった。
原作の第2部「砂漠の救世主」では、ポールはヒトラー以上の虐殺と死を銀河中にばらまくし、そのことに苦悩するし、チャニの出産と死について悩むので、かつて復讐と下克上を遂げた主人公が苦悩するという意味で反英雄の物語だ。
その要素がデューンPART2に含まれていてよかった。
2.世界情勢との関係
現在、イスラエルのネタニヤフ政権がパレスチナで虐殺行為を起こしている。この作品が作られた時期はガザ侵略よりも前の時期であろうけれども、意図してか意図せずしてかイスラエルの虐殺をなぞった物語になった。
まず、フレメンは国を失い迫害されているユダヤ人のようでも砂漠でイスラム教を信仰しているパレスチナの人々やムスリムのようでもある。
彼らは砂漠で独自の文化を営み救世主が現れることを待ちわびている。ユダヤ教で救世主が現れるのを待ち望んでいるかのようだ。
フレメンの間では夜にジンという悪魔や精霊が出て誘惑をする。そして彼らの伝承ではシャイタンが恐れられている。また、彼らは砂漠で独自の文化を作り上げており、文明の動力となる資源を保有していて大勢力から狙われるムスリムのようである。
ハルコンネン家の爆撃によりフレメンの居住地が襲撃を受けた後、フレメンの子どもたちは頭から血を流し服は煤だらけになりながらけが人や死亡した者は運ばれていく。
この光景は未来や異世界のものではなく、ガザの子どもたちが爆撃を浴びて死傷する現在の世界を切り取ったもののように感じた。
そんな虐げられたフレメンたちだったが、いざカリスマを戴いて帝国を脅かすようになると核を使って、他勢力を弾圧するようになる。
まるで迫害されていたユダヤ人たちがパレスチナに国を興して、核兵器を所有する疑惑を持たせながらガザの民を虐殺するようになったイスラエルを想起させる。
このようにムスリムのイメージとイスラエルのイメージをわざと一緒くたにすることによって、特有の民族ではなくて普遍的な人間の話にすることが出来ると思った。
イスラエルとパレスチナを混同することは、ターンエーガンダムやZガンダムでもやっていることだから、シリアスなSFは社会性と批評性を帯びるのか!
ガザCとかムーンレィスとか。
3.原作小説も読んでほしい
DUNEシリーズの原作は1965年に第1作「砂の惑星」が公開され、「砂漠の救世主」、「砂丘のこどもたち」、etc……と続いていった。
DUNEシリーズ自体はヒッピーたちから愛読書のように思われていた。
DUNEシリーズを読むとヒッピーの文化に親和的な部分がある。
原作は反体制的だし反英雄的な物語だ。
主人公は復讐と下克上とを遂げるのだが、帝位を得た後はヒトラー以上の虐殺を引き起こして苦悩し、フレメンの中にも自身を裏切った輩がいたり、チャニが出産の果てに死亡する未来を視て絶望する。
その姿は英雄的ではないし権力者となったために苦悩するから、体制に阿ってもいない。
ドラッグを服用することによって、未来を視たり肉体を変容させることもヒッピーのようであると思った。
メランジと命の水を摂取することにより未来を幻視するポールがニュータイプのように感じられた。
私はDUNEを読んだとき、ポールをシャア・アズナブルのように感じた。
シャアも阿漕なことをしているし、そもそもシャアもポールも滅亡した家を出自に持つ。
ニュータイプは当初アムロが歴戦の大人と渡り合うための言い訳に過ぎなかったのだが、Zガンダムから逆襲のシャアへと進むにつれてオカルト性を増していく。ニュータイプ研究所が運用されて、クェスがインドで修行していたように、作劇の言い訳からニューエイジじみたものへと変貌する。
ニューエイジ思想もヒッピー的であるから、DUNEからニュータイプを見出してしまった。
4.ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品として
私はヴィルヌーヴ作品は「メッセージ」と「ブレードランナー2049」と「DUNE」シリーズしか見ていない。
それなのに書けることがあるのか?
「メッセージ」も「ブレードランナー2049」も「DUNE」も自身の運命と血統、出自をめぐる物語であったように思える。
メッセージは異星人の言語を解明していくうちに未来が見えるようになった主人公が、未来に天寿を全うしない娘を産み育てる物語であったし、ブレードランナー2049は自身の血統や出自に希望を持っていた主人公が現実に打ちのめされるも、信じたい血統や出自によって行動することによって人生を肯定する物語だった。
血統と出自、運命といったテーマに沿って考えれば、メッセージが子供を産む選択をした親の物語であり、ブレードランナー2049が産まれてきた子供がどのように人生を生きるかという子の物語であるといえるのではないだろうか。
つまり、メッセージとブレードランナー2049は異なる作品であるから繋がりはないだろうけれども、両作品は親子のような関係といえるのではないだろうか。
血統、出自、運命について考えるとDUNEはメッセージやブレードランナー2049の子孫のような作品である。
未来が見える主人公は自身が引き起こす大量虐殺の運命を回避しようと苦心するし、「砂漠の救世主」ではチャニとの間に待望の皇子と皇女ができたものの、出産によってチャニが死亡するという未来を視て血統を残せても素直に喜べない。
また、本作の映画でも原作でも救世主として覚醒したポールは自身と母の出自を知るのだった。
メッセージやブレードランナー2049で肯定されていた血統や出自、運命が否定や苦悩の対象として描かれるようになった、つまりヴィルヌーヴ監督が闇落ちした作品を作ったということではないだろうか。
5.終わりに
DUNEの原作を読んだのは2023年である。
2021年にDUNE砂の惑星PART 1を見てから原作を買ったもののあまり読む機会はなかったが、書店に「砂漠の救世主」の新訳版が並んでいるのを見たら、砂漠の救世主を購入して既に持っていた砂の惑星を読んだ。
惑星の生態系描写はとても興奮したし、生態系や環境と文化が密接に絡んだ描写にも心が震えた。ポールが覚醒するにつれて逞しさも感じるが、政治的に老獪になって寂しさも感じる。そんなポールも苦悩している描写を読むと、晩年の豊臣秀吉や劉邦、孫権を想起せざるを得ないのが私の感想だ。
というわけでDUNE PART2を観たら、ぜひ原作を買って読んでほしい。
今なら「砂漠の救世主」、「砂丘の子どもたち」の新訳版が出版されているから、それも読んで王道では終わらない物語に打ちのめされてほしい。
ということでこの記事を読んだあなたは原作のDUNEを買いにAmazonや楽天で購入したくなる、なれよ、地球人!
ということで記事を読んでくださってありがとうございました。
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