人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 感想
「過保護なアメリカ人」。
虐殺器官の主人公であるクラヴィス・シェパードの台詞であったような気がする。
「過保護な○○人」の○○には何が入っても意味は変わらないと思う。
○○に日本が入っても現代が入っても、である。
何故ならば人々は協同し連帯することで穏やかさを得る代わりに野生や身体性を失うからである。
どういうことかといえば本書では協同し連帯することを家畜化・内面化と呼び、文明の進展に模範的になることを無条件に良しとすることに批判的であるということである。
そんな内容が書かれている著作「人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造」のレビューをこの記事で書いていこうと思う。
1.自己家畜化と内面化
人間はどこまで家畜か、という本のタイトルであるが、家畜化の良し悪しを語る前に自己家畜化とは何か、内面化とは何かということを整理しなければなるまい。
1-1 自己家畜化
生物が家畜化を起こすと以下のようなことが起こると、本書で説明されているため引用する。
野生種から小型化する
彫りが深い顔から平たい顔になり、歯が小さく顎が細くなる
野生種と比較して性差が小さくなる
体重に対する脳が小さくなる
これらの変化は動物で実験して分かったことであるから人間で実験をするわけにはいかない。
では人間の自己家畜化に証拠となりうるものはないのであろうか。
答えは化石研究にある。
本書から抜き出してみる。
化石を比較した観点から人間が穏やかな形質を獲得していったことがいえる。
脳が小さくなったといったが愚かになったというわけではなくて、脳が小さくなった(家畜化した)ことによって、攻撃性ではなく穏やかさ・協調性を獲得した結果、社会を育んで文化を育てることができたのだ、ということがいえる。
だが、進化が先か文化が先かということではなくて、進化と文化の両輪によって家畜化が進んでいったと本書では説明されている。
続いて文化による家畜化(歴史的背景や思想)を整理する。
1-2 内面化
狩猟採集社会は現代は勿論、古代国家成立時よりも暴力的で死が日常にあった。
だが、チンパンジーのように暴力的であるということではなくて、平和的な解決方法はあった。
一族郎党で協力しあって、人間関係を維持しあい、争いごとは大勢で協力しあって解決した。
国家や法が出来上がると人々の暴力的な習慣からマナーを重んじた習慣へと変化を遂げる。
中世の騎士たちは当初は暴力的で殺人・破壊・略奪を嗜好していた。
コミュニケーションマナーやプロトコルが重要視されると人々はマナーを重要視するようになった。
内面化は親世代だけではなくて子世代にも引き継がれていった。
幼児はマナーをいち早く察知し模倣する傾向にあるため、子世代は親世代よりも容易にマナーを内面化した。
文化は子供の命を大切にするようになった。
日本においても海外においても子供の命は軽かったという。
子殺し、間引きは当たり前とされており、戦国時代にポルトガルから訪れた宣教師によると、塀や堀に子供の死体が打ち捨てられていたことに驚いたとの記録があると本書では記されている。
文化は健康にも影響を与えたとされている。
現代よりも前の時代は決闘などの命と名誉を賭けた文化があり、死亡率が高かったとされる。
科学によって生理学や統計学が生まれたことによって、血糖値、血圧、身長、体重が明らかになり、正常と異常とに分けられるようになった。
このことによって、病気の正体が分かり適切な診断・対応を出来るようになった。
2.人々は理性や感情を神聖視していないか
本書は人間の家畜化を進化的な観点と文化的な観点、子供たちの教育といったことを様々なエビデンスを付記しながら述べている。
本書では最近の子供たちの暴力やいじめは減少傾向にあるとのことらしい。神経発達症の理解により社会や学校生活に適応できない人々を発達障害と診断することにより、困っている人々をケアすることにつながる。
私は本書が様々なエビデンスで人々の暴力性やいじめが減少していることを好ましく思う。神経発達症は脳の構造ーーつまり物質的なものーーであるから、カウンセリングだけでなく投薬ーーつまりホルモンの分泌をかえることーーによって、社会でサバイブできるようにする。そういった意識が生まれることは好ましいと思う。根性論は土壇場では正しいと思うが、自身の特性を知って科学の力を借りるほうが生き延びやすいと思うからだ。
だが、世間では未だ発達障害や精神疾患を「甘え」だの「気の持ちよう」という。
何故、障害を「甘え」、「気の持ちよう」というのだろうか。
答えは人間の心や感情、理性の神格化にあると思う。
この意見については私の主観と体験から話そうと思う。
私に精神疾患や自閉症スペクトラムが治ると言ったものは、職場の上司であった。
彼は人間の魂を信じていて幽霊などの存在も信じていた。
私が幽霊や魂は存在しないと言うと、途端に不機嫌になり私を論破しようとするほどに信じていた。
私が仕事の不向きと厳しさから精神疾患を患うと「甘え」や「気の持ちよう」といった根性論を持ち出した。
何故、彼は甘えや気の持ちようといった言葉を使ったのであろうか。
それは彼なりの励ましであっただろうが、魂や幽霊を信じる素朴な人間観にあると思う。
魂や幽霊を信じているということは、魂や幽霊などの精神的なものが人間を動かしているということではないだろうか。
だが、自由意志はあっても0.2秒間だけかもしれないといわれている。
上司は心と体の二元論ーーつまり、魂が人間を動かすと考えているのではないだろうか。
私は基本的に人間の感情や心に関しては以上のような認識である。
だが、上司は幽霊や魂を信じているから脳のホルモンや薬に頼らない価値観を有しているのではないだろうか。あくまでも精神疾患や発達障害はその人の魂が弱いからであって、魂を強くすればーーつまり、鍛えて甘えを減らしていけばーー病気にならない。したがって、甘えや気の持ちようと言うのではないだろうか。
この価値観はどのようにして生まれたのか。
近代主義(理性主義)と前近代的な迷信の悪魔合体ではないだろうかと私は思う。
このような価値観を醸成していった犯人は誰なのであろうか。
私は保守派は勿論のこと、リベラルも犯人であると考える。
保守派は進化心理学を悪用して人々には生来知能の差があるから差別は至極当然との見方を示している。
このような見方は「である」と「であるべき」を混同した誤謬であるし、批判されるべきだ。
一方、リベラルは人々には生来的な知能の差があるにも関わらず、それを無視して知能や収入の差は全て個人の努力不足であると自己責任論に陥っている。
このような見方は「であるべき」と「である」を混同しているからだ。
人は平等であるべきだから科学的に平等でないという結果は差別的な見方をしているからといった具合にである。
近代理性は神を殺したが、神の位置に人間の理性や自由意思が下克上しただけではないだろうか。前近代では神が支配していて、父・子・精霊の三位一体が唱えられたように、近現代では神の位置を人間の理性や自由意思が簒奪して自由意思及び理性・心・脳の三位一体が信仰されるようになったのではないだろうか。
理性及び自由意思教が支配的になった近現代では、精神疾患や発達障害は理性の足りない者は甘えであるといわれて、無理解が生じるのではないだろうか。
つまり、人間の自由意思や理性の神聖視が人には魂があるーー近代理性と前近代の迷信との悪魔合体ーーとの信仰を生んで発達障害や精神疾患への無理解につながるのではないかと私は思う。
3.やはり加速主義しかないのでは
人々はいつまで理性の神聖視や発達障害や精神疾患への無理解を続けるのだろうか。
私は人が人を産み、社会を営む限り不可能であると私は考える。
人が人を産み社会を営むことは即ち責任という価値観とつながる。
近代以前は秩序を乱す者を悪魔とみなして罰することで共同体を守っていたが、近現代は自由意思がある前提なので人の器質性や物質性を省みることなく人を罰するわけだ。
それこそ、障害があるのは甘え、気の持ちようにつながるわけだ。
それでは、そんな人間観を根底から突き崩したら人々の無理解は減るのではないだろうか。
自由意思が必要だというならば脳を改造して遺伝子を編集してふさわしい自由意思を持つ存在を創造する。
当然自然妊娠では胎児の生育をコントロールできないから人工子宮に全て置き換える。
人間を機械に接続したり意識のデータ化を行うことによって人間を不死の存在を創造する。
そのようにして神秘化された人間像を破壊することによってのみでしか、人間を改造して怪人にすることで我々は理性信仰と前近代との悪魔合体から解放されるのではないか。
私がそう思うのは悲観的だからかは分からない。
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