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基礎から分かるファイナンス法【番外編】~お金ってなんだろう?(前編)

「基礎から分かるファイナンス法」の【番外編】の記事です。まだ本編が終わってないのに番外編というのも変な話ですが、書きたくなったので書いてみることにします。あながち、本連載のテーマとも無関係ではないかなと思っています。

【連載目次】※予定
第1回 はじめに
第2回 コーポレート・ファイナンスの基礎知識(前編)
第3回 コーポレート・ファイナンスの基礎知識(後編)
第4回 買収ファイナンス(LBO)
第5回 証券化・流動化(前編)
第6回 証券化・流動化(後編)
第7回 プロジェクト・ファイナンス
第8回 ハイブリッド・ファイナンス
第9回 ベンチャーファイナンス/投資ファンド
第10回 商事信託ほか
第11回 まとめ(書籍紹介など)
番外編 「お金」ってなんだろう?【本稿】

1.はじめに:「お金って何なんだろう…?」

この連載では、各種ファイナンススキームにおける「転換の仕組み」に着目し、その根底にある考え方を解きほぐすことを主眼にしています。

ファイナンス、つまり金融取引は、突き詰めていけば「お金」をめぐる取引です。そうであるがゆえに、金融取引(特に決済サービスや送金サービス)のことを考えていると、ふと「お金って何なんだろう…?」という根本的な疑問にぶつかることがあります。

とりわけ、ここ数年は、仮想通貨(暗号資産)に関する取引や各種キャッシュレスサービスが急速に普及してきました。Libraを代表とするグローバルステーブルコインや中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関する議論も盛り上がっています。こうした流れを受け、学術的な意味だけでなく、実務的な意味でも、これまでにないくらい「お金とは何なのか」ということが問われる時代になっているように思います。

そのことを象徴するかのように、昨年、とても秀逸だなと思うCMを見かけました。

「ずいぶん奇妙なものを信じてません?ぼくたち。お金って何なんだろう…?」という小栗旬さんの台詞。「そうだよなあ…」としばらく考え込んでしまいました(実際にこんな絡み方してくる人いたらイヤですけど)。

金融取引の基礎をなす「お金」とはいったい何なのか。それはどのように発展してきたのか。法的にはどのように考えられてきたのか。その中で、仮想通貨(暗号遺産)やCBDCはどのように位置づけられるのか。

こうした疑問について、自分なりに考え方を整理してみたいと思います。特に結論があるわけではありませんし、初歩的なメモにすぎませんが、もし興味があればお読みいただければと思います。

【余談:「お金」に関する用語の多義性】
本稿がテーマとする「お金」には、「金銭」「通貨」「貨幣」「紙幣」「銀行券」など様々な呼び方(用語)があります。それぞれの意味する内容は文献や論者によって微妙に異なっており、私の知る限り、統一された用法はないように思われます(法律用語としても統一的な用法はありません(*1))。そこで、本稿では、概ね以下のような整理のもと、「金銭/貨幣」の意味で「お金」という言葉を用いることにします。といっても、これはあくまで議論の混乱を避けるための便宜的・暫定的なものにすぎませんので、あまり深く考えずに読み進めていただければと思います。

お金に関する用語の整理

2.お金とは何なのか?

伝統的な経済学の考え方では、お金とは、その機能に着目して、以下の3つを備えたものと定義されることが多いかと思います(*2)

【交換機能】
 財・サービスと交換でき、またその媒介となる機能
【価値尺度機能】
 交換される財・サービスの価値(交換比率)を表示する機能
【価値貯蔵機能】
 一定の価値を将来にわたって維持・保存する機能

ここで重要なのは、上記の機能を備えているものであれば、その物理的な性質とは関係なく、お金になり得るということです。お金というと、目に見える紙幣や硬貨をイメージしがちですが、紙や金属といった物理的な「モノ」自体がお金なのではありません。そのような「モノ」に化体している、あるいはそれが表彰している抽象的・観念的な「価値」こそがお金なのです。

このように、お金というものは、もともとバーチャルなものです。ただ、お金を使う、つまり、財・サービスの対価としてお金を他の人に移転しようとするときは、何をもってお金=抽象的・観念的な「価値」が移転したかということが確認できなければなりません。いくらの価値が、誰から誰に対して、いつ移転したかということ、つまり「価値の所在」を実体的にトレースできるような何らかの「媒体」が必要になってきます。そこで、紙や金属といった「媒体」にお金としての価値を組み込み(正確には組み込まれたことにして)、その媒体を移転することで、お金を用いた取引を可能にしているというわけです。

こうして考えると、抽象的・観念的な「価値」であるお金を乗せる「媒体」は、必ずしも紙や金属に限られず、その価値の数量を特定できるものであれば何でもよいということになります(*3)。もちろん電子データでも構わないので、それ自体はただの電子データにすぎないビットコイン(暗号資産)が「お金」として流通したとしても、そのこと自体は何も不思議なことではありません。

むしろ重要なのは、抽象的・観念的な「価値」が、なにゆえに、あるいは、どのようにして、そうした「媒体」に化体していくのか、ということです。言い換えれば、どのような条件がそろえば、紙や金属や電子データといった媒体が、その物質的な価値(紙や金属そのものとしての価値)を離れて、お金としての「価値」を備えるようになるのかという問いです。

お金とは何かを考えることは、この「価値」の根源は何かを考えることに他ならないのだと思います。岩井克人教授の言葉を借りるなら、「無から有が生まれる神秘」の謎を考えることともいえるかもしれません。

「ところで、このようにして商品世界を商品世界として成立させている貨幣という存在は、・・・究極的なすがたにおいては、すぐさびついてしまう金属のかけらであったり、いまにも破れそうな紙切れであったり、一瞬のうちに消えさってしまう電磁的なパルスであったりする、いわばものの数にもはいらないモノでしかない。それにもかかわらず、それ自体はなんの商品的な価値をもっていないこれらのモノが、世にあるすべての商品と直接に交換可能であることによって価値をもつことになる。ものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって、モノを越える価値をもってしまうのである。無から有が生まれているのである。ここに『神秘』がある。」(岩井克人著『貨幣論』(ちくま学芸文庫・1998年)73頁)

3.お金の成り立ち

お金の成り立ちについて、伝統的な経済学は次のように説明します。

お金という概念が生まれる前は、人々は物々交換を行っていた。しかし、物々交換のシステムは「欲望の二重の一致」を必要とする。すなわち、物々交換を成立させるためには、自分が欲しいものを相手がもっていること(自分の欲望の一致)だけでなく、相手が欲しいものを自分がもっていること(相手の欲望の一致)が必要となる。しかし、そうした相手を見つけるのは容易ではない。そこで、自分の持っているものを、多くの人が共通して欲しがるであろうもの(+ある程度保存がきくもの)といったん交換し、それを相手に提示することで、最終的に欲しいものとの交換を達成するようになった。こうして「多くの人が共通して欲しがるであろうもの」が「お金」として機能するようになった。

つまり、物々交換の慣習が前提としてあり、それを効率的に達成するための「媒介」としてお金という概念が生まれたというわけです。一度はどこかで聞いたことがある説明ですよね。一見して分かりやすいので、なるほどそうなのかと思ってしまいます。

しかし、物々交換の慣習など実際には存在せず、上記のストーリーは全くのフィクションだとするのが近時の有力な見解かと思います(経済学は専門ではないので間違っていたらすみません)(*4)

物々交換がお金の前身でないとしたら、何がお金の起源だというのでしょうか。それは、「債務」です。

平たく言うと、いわゆる「ツケ払い」のような慣習が最初にあり、そのツケの債務がお金として機能するようになったという説明です。つまり、お金が生まれる前のモノのやり取りは、最初は、Aさんが、Bさんが欲しがっているモノを一方的に渡すという「贈与」として始まります。しかし、これは純粋な贈与ではなく、モノを受けとった側(Bさん)にとっては一種の「借り」であり、いつかその価値に対応する別のモノをAさんに返すという意味(Aさんから見ると、そうしてもらえるであろうという期待)を暗黙に含んでいます。友人同士での飲食のお奢り合いみたいなものですね。

こうした一種の「ツケ払い」は、時間の要素(「後で」返してもらえるということ)を含むので、相手に対する信用があってはじめて成り立ちます。したがって、そうした信用が成り立たない場合、すなわち、二度と会うことがなかったり、継続的な関係を持つことが想定されないようなケースでは、お互いのモノを「同時に」やり取りする物々交換の方が望ましいといえます。しかし、人類学的に見ればそうしたケースはむしろ例外であって、実際には「ツケ払い」が広く行われていたとするのが上記の有力見解です。

さて、上記の「ツケ払い」は、それだけだと、単にAさんBさんの二者間の関係にすぎません。ところが、Bさんが負っている「借り」=「債務」が何からの媒体(紙や木簡など)に量的に記録されるようになると、話が変わってきます。

例えば、Bさんの債務について借用証書(的なもの)を作成した場合を考えてみましょう。この借用証書には、Bさんが将来一定数量のモノを渡すという債務、言い換えると、Bさんから将来一定数量のモノを受け取れる地位(債権)が表彰されています。したがって、借用証書を保有するAさんは、その借用証書を渡すことにより、別の人(Cさん)に対して負っている「借り」を返済することが可能になります。法的にいうと、AさんのBさんに対する債権の譲渡をもって、AさんのCさんに対する債務を弁済しているということになります。

そして、Aさんから借用証書を受け取ったCさんは、借用証書をさらに譲渡することにより、Dさんに対する「借り」を返済することも可能です。こうして、借用証書は、Aさん → Cさん → Dさん → Eさん → Fさん・・・と転々譲渡されることにより、決済手段、つまりお金として流通していくことになります。

こうした借用証書の譲渡による弁済は、究極的には「Bさんから将来一定数量のモノを受け取れる」ことがある程度確実に見込まれること、つまり、債務者であるBさんの信用力に依拠することによって可能になるものです。もっとも、Bさんに対する信用は、借用証書が転々流通していく過程でだんだんと抽象化していくことになります。

当初の借用証書は、AさんとBさんの人的関係に紐付いた具体的な信用に依拠しています。CさんもBさんのことを知っており、だからこそ借用証書による支払いを受け入れます。しかし、DさんやEさんになると、もはやBさんのことなど知らないかもしれません。それなのになぜBさんの借用証書を信用できるのかというと、それは、自分が信用しているCさんがその借用証書による支払いを受け入れたという事実があるからです。

この段階では、もはやBさんに対する信用は、Bさんに対する具体的な信用というよりは、これまでの借用証書の保有者がその借用証書による支払いを受け入れてきた(だから将来の自分の取引相手も借用証書による支払いを受け入れてくれるであろう)という抽象的な信用に支えられていることになります。

こうして考えていくと、お金がなぜお金たり得るのかというと、それがお金として使われているからだという身も蓋もない答えにたどり着きます。つまり、お金(上記の例では借用証書)がお金として使われてきたという事実によって、それが将来にわたってもお金として使われていくことが期待され、それによって、お金が実際に今ここでお金として使われるということです。過去の事実をとりあえずの根拠にして将来への期待が作られ、それを根拠に現在の信用が基礎づけられるという構造です。こうした「無限の循環論法」によってお金はお金として成り立っている、というわけです(*5)

債務が流通することによってお金が生まれるという話はやや奇異に聞こえるかもしれませんが、私たちが文字通り「お金」として扱っている紙幣も、突き詰めれば中央銀行の債務として捉えることができます(中央銀行が発行する紙幣の額面価額は中央銀行のB/S上「負債」として計上されます)。また、私たちが支払方法として日常的に使っている銀行振込やその派生系としてのクレジットカードなども、民間銀行に対する預金債権(銀行から見ると、要求があればいつでも預金を払い戻す債務)を相手に取得させることによって支払いを行うものです。したがって、お金の起源が債務だと考えることは、それほど突飛なことではないように思われます。

以上の有力見解について、私自身はその真偽を論じる能力をもちません。とはいえ、現物取引ではなく、むしろ信用取引の方が先に存在していたというのは、金融にかかわる者としてなんとも興味深い話です。

【余談:お金は本質はオプション?】
本文で紹介した見解のほか、お金の本質はソフトローによって与えられたオプションであるとする見解があります(*6)。つまり、財・サービスの提供者がその受領者から現在において受け取っているモノ(お金)は、あくまでも、将来において財・サービスを受領することができるコール・オプション、ないし、将来においてそのモノを誰かに渡すことのできるプット・オプションであるというわけです。ポイントは、お金は将来の権利(オプション)を表彰しているので、その価値(実際にいくらの財・サービスを受けられるか、いくらの価値があるものとして渡せるか)はそれを受け取った時点では厳密には確定せず、将来の事情によって変動しうるという点です。本文中の事例に引きつけて言うならば、Bの債務証書の「お金」としての価値は、その本質がBの債務であるがゆえに一定ではなく、Bの信用力などの事情(リスク)によって変動しうるということになるかと思います。また、そうしたオプションを基礎づける「ソフトロー」は公権力が制定する法律に限られず、暗黙の合意(Bに対する抽象化された信用)も含まれることになります。この見解は、お金の本質を現代的な金融理論から説明するものとして分かりやすく、お金の起源=債務説とも整合的であるように思います。


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例によって長くなったので、今回分はいったんここで切り上げます。ここまではどちらかというと前置き的な話で、以下のトピックが本丸だったのですが、時間の関係上、次回(もしあれば)に回したいと思います。

4.お金の法的性質
金銭の法的性質/占有と所有の一致の根拠/決済とは/決済手段と決済方法/有因・無因・匿名性/預金通貨の考え方/電子マネーの法的構成/

5.仮想通貨(暗号資産)をどう考えるか?
公法的観点と私法的観点/電子マネー等との違い/暗号資産の私法的構成(財産権説・準物権説・合意説・事実状態説etc)/暗号資産とファイナルティ/ブロックチェーン上の記録をどう考えるか/STOの私法的構成/

6.LibraやCBDCをどう考えるか?
ステーブルコインとは/ステーブルコインの公法的位置づけ/Libraの仕組みと誤解/CBDCの種類/CBDCの私法的構成(電子マネー等との比較)/

なお、本編の第7回(プロジェクト・ファイナンス)についても、時間をみつけて執筆していきます!


【脚注】
*1:古市峰子「現金、金銭に関する法的一考察」(金融研究第14巻第4号・1995年)102~103頁参照。
*2:片山貞雄著『貨幣をどのように考えるのか』(多賀出版・2013年)36頁参照。なお、3つの機能のうちどれを重視するかについては争いがありますが(同41~45頁)、本稿では立ち入らないことにします。
*3:岩井克人著『貨幣論』(ちくま学芸文庫・1998年)70~71頁参照。
*4:デヴィット・グレーバー著(酒井隆史監訳)『負債論――貨幣と暴力の5000年』(以文社・2016年)、カビール・セガール著(小坂恵理訳)『貨幣の「新」世界史』(早川書房・2018年)ほか。
*5:岩井・前掲注3・200~201頁参照。
*6:中里実「法・言語・貨幣ーソフト・ローの観点からの研究ノートー」(金融研究第23巻法律特集号・2004年)186~187頁、中里実著『タックスシェルター』(有斐閣・2002年)73~76頁。

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