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小津安二郎『晩春』における壺カットの解釈

『晩春』はエレクトラ・コンプレックスを描いた作品

小津安二郎監督の『晩春』は、ホラー映画と感じる。

ホラー映画は、多様なサブ・ジャンルを持つカテゴリーであるが、つまりは観る側に恐怖を印象づける映画ということになる。『晩春』を観て感じるのは恐怖であり、そのため、『晩春』はホラー映画と感じるのだ。

『晩春』を近親相姦の映画とみる向きがあるが、そうではない。エレクトラ・コンプレックスがテーマの作品である。近親相姦は肉親間における性的な肉体関係を指すが、エレクトラ・コンプレックスは、母に嫉妬と憎しみを抱き、父に愛情を抱く心的葛藤である。あくまで心的葛藤であり、性的な肉体関係は伴わない。『晩春』に、父娘の性的な肉体関係は描かれない。描かれるのはあくまで、娘の異常ともいえる父への愛情である。そのため『晩春』は、近親相姦でなくエレクトラ・コンプレックスがテーマの作品である。

『晩春』で恐怖を感じるシーン

『晩春』は、戦後の小津作品の作風を決定づけたといってよい作品である。戦前、サイレント期を含め、コメディ作品やアメリカ映画の影響を受けたギャング映画等を撮っていた小津監督が、家族を主人公に、一言で言ってしまえば"何も起こらない退屈な映画"の最初の作品が『晩春』である。

この作品で、キネマ旬報ベストで1位になる等高い評価を得、その後、『東京物語』や『麦秋』をはじめ、遺作となる『秋刀魚の味』に至るまで、小津監督は家族を描き続けた。

しかし、『晩春』は、その後の作品と比べてかなり異質な作品である。

確かに家族が主人公の映画である。父と娘の物語である。この作品を上質なホームドラマ、父と娘が互いを思う姿を描いた名作といった評価をなされることがあるが、『晩春』を観て感じるのは、決してそんな生易しいホームドラマでも父娘の物語でもない。

もっとドロドロとした父娘の愛憎劇であり、恐怖を感じさせるエレクトラ・コンプレックスを描いた作品である。『晩春』より後の作品で、ここまでドロドロと直接的にエレクトラ・コンプレックスを描いた作品はない。そのため、異質な作品と感じる。

『晩春』のどこに恐怖を感じるのか。

それは、原節子の表情である。

原節子は笑顔の人である。特に小津作品における原節子は、ずっと笑っている。家族と話す時も友達と話す時も、電車に乗っている時も自転車に乗っている時も、とにかく笑顔である。あまりに笑顔ばかりなので、逆に薄気味悪く感じてさえくる。しかし、『晩春』で恐怖を感じるのはそういった薄気味悪さではない。

原節子の笑顔が失われる時である。

『晩春』の中盤、原節子演じる紀子が、自身の結婚話の後、父の再婚話を耳にする。するとみるみる笑顔が崩れていく。そして、笑顔は失われ、睨みつける憎悪の表情に変わる。

また、その後、父と能を観劇するシーンがある。そこに、父の再婚候補の女性を見つけ、原節子の憎悪の表情が繰り返し映し出される。

恐怖を感じるのは、まさにこれらシーンである。

それらまで満面の笑顔が続いていた笑顔から激しい憎しみの表情という、激しいギャップに強い恐怖を感じるのだ。

”壺”の解釈

『晩春』には、現在に至るまで激しい論争が繰り広げられているシーンがある。"壺"のカットである。

後半、父と娘が旅行先の京都の旅館で二人が布団を並べて眠りにつく。その際、壺を映したカットが挿入される。具体的には以下のような流れになる。

電気を消して二人が横になり、会話を交わした後、

(1)原節子のアップ。父の方に顔を向ける。
(2)父(笠智衆)の寝顔のアップ
(3)原節子の顔アップ。微笑む
(4)壺が映る
(5)原節子の顔アップ。笑顔が消えている。父のいびきが聞こえる
(6)壺が映る
(7)日本庭園が映される

このシーンで挿入される壺カットの意味を巡って複数の解釈がなされている。これは、Wikipediaの『晩春』のページにおいても説明がなされているが、端的にまとめるとこうなる。

・ポール・シュレイダー(映画監督)=物のあわれ
・ドナルド・リチー(映画評論家)=結婚の決意
・蓮實重彦(映画評論家)=父と娘の性的なイメージ
・岩崎昶(映画評論家)=娘の父からの性的な解放
・池川玲子(女性史研究者)=次世代を育む子宮

このシーンについて、小津監督自身がその意図について語っていないし、創作意図が書かれたメモなども残っていない。そのため、後世の人が解釈するしかない。

そこで、筆者なりの解釈を記しておきたい。

壺が何を意味しているのか。それを解釈するには、壺ショットが映る前の台詞に着目するべきだろう。壺ショットの前に原節子が何を言っているか、である。こう言っている。

ねえ、お父さん。わたし、お父さんのこととても嫌だったんだけど…

"だけど…"で台詞が切られ、その後は何も語られない。それは、観客の想像にゆだねられる。しかし、ただ観客に丸投げするのでなく、想像のヒントを与えている。それが、"壺"である。つまり、壺は原節子が語らなかった台詞を象徴している。これが、ごく普通の解釈だと感じる。

では、原節子が語らなかった台詞とは何なのか。

"だけど…"という逆説詞が用いられている以上、その前の台詞とは反対の意味が語られるはずだ。

「お父さんのこととても嫌だったんだけど…」の逆説、つまり、「嫌じゃなくなった」である。

何が嫌だったのかといえば、話の流れからして、父の再婚である。その話を聞くだけでみるみる憎悪の表情へと変化し、強い恐怖を感じさせた、あの父の再婚話を"嫌じゃない"ということになる。それは大きな変化であり、強い意思、そして決意を感じさせることだ。

実際、壺シーン後の原節子の表情に笑顔はなく、そして憎悪とも違う、強張った表情であり、それは"決意"を感じさせる表情である。

では、何を決意しているのか。

父に対する異常な愛情からの決別である。父の再婚話に反対するのをやめ、そして、自身は結婚して家を出る。そうすることで、原節子演じる娘は、娘でなく、女になる。つまり、"壺"ショットを境に、それまで娘だった原節子が女になるのである。

壺は、狭い入口とその先にふくらみのある陶器だ。その形状から連想されるのは女性性である。壺の入り口は女性器(ヴァギナ)であり、ふくらみは子宮である。つまり、壺が象徴するのは女性そのものであり、その壺を、語らなかった原節子の台詞の象徴として映し出しているということ、それは即ち、娘から一人の女へ成長する決意が表されている

『晩春』は、エレクトラ・コンプレックスがテーマの作品というのが筆者の解釈である。もっと正しくいうなら、エレクトラ・コンプレックスの克服を描いた作品である。

娘が父への愛情をどれだけ強く持っていても、しかし、いつまでも持ち続けることはできない。父でない男性と出会い、結婚し、子供を産む。『晩春』で描かれたこととはつまり、そういうことである。

エレクトラ・コンプレックスを克服し、一人の女性として歩み始めるまでを描いた作品。それがまっとうな解釈と感じる。

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