見出し画像

なぜメロスは激怒したのか?

小学生の頃、国語の授業が好きではなかった。

それは、教科書の小説や説明文を読んで、自分が感じることと、授業における「正解」が異なることが多かったためである。自分が感じたことと異なる解答をテストではしなければならない。そういうことに対して、子どもながらにストレスを感じていたのだと思う。

今、小学校でどのような国語の授業が行われているのかわからないが、自分が小学生の頃を思い返すと、国語の授業というのは演繹的だったと思う。そして、それがストレスだったのだと思う。

メロスが激怒した理由

演繹は、前提から結論を導く論理思考の一つとなるが、自分が経験してきた国語の授業は、基本的にこの演繹的思考で解答するというものだった。

演繹的思考

例えば「メロスは激怒した。」で有名な太宰治『走れメロス』(青空文庫リンク)の場合、国語のテストでは、『走れメロス』冒頭を読んで、

問.1
メロスが激怒した理由を40字以内で答えよ。

のような問題が出題された。この場合、

答え.
邪悪に対して敏感なメロスが、王様がたくさんの人を殺していることを知ったため。(38文字)

このように記載するのが一つの解答例と思われる。実際、この解答をすれば、正解の○をつけられるのかもしれない。

それは、40字近くを埋めて、冒頭の文中に書かれている言葉を用いながら、一見、演繹的に導かれた解答のように見えるからである。

演繹的に見えるというのは、

大前提.
メロスは邪悪に対して敏感である。

小前提.
王様はたくさんの人を殺している(=邪悪である)。

結論.
よって、メロスは王様に対して激怒した。

ということになる。

しかし、遠い昔のLawrence少年はこのような問題に対して「メロスが短気なため。」と解答する衝動に駆られていた。

そして、上記解答例の演繹思考は正しいようで正しくない。前提からの推論に飛躍がある。

メロスがいくら邪悪に対して敏感であろうと、短気でなければ激怒したかどうかわからない。メロスが邪悪に対して敏感な、今風にいえばHSPの人であれば、ショックを受けて悲観にくれただけもしれないし、茫然としただけかもしれない。

つまり、メロスが王様の行いを知って激怒するには、短気である必要がある。

そのため、上記の解答例や「メロスが短気なため」という解答はどちらも不十分で、

答え.
邪悪に対して敏感で短気なメロスが、王様が多くの人を殺していることを知ったため。(39文字)

の方が、より正確ということができる。

学校の授業は演繹的

国語に限らず、自分が経験してきた小学校、中学校、高校、そして大学においても、基本的に演繹的な思考を教えられてきたと感じている。

そういう演繹的な思考は、論理的に結論を導く、または仮説を立てるために有効な方法と思うし、実際、社会に出てからも役に立つ。

大前提があって、小前提を当てはめて、結論を導く。

数学も物理も化学も、公式という大前提を覚えさせられる。その大前提をもとに、設問の小前提を当てはめて結論を導く。それは、国語の授業においてもやはり同じだった。

国語における読解というのは「作者の意図は何か?」を演繹的に解釈していくというものだった。

しかし、小学生の頃というのは、演繹という言葉すら知らなかったわけで、演繹思考における前提の不完全さや推論の飛躍云々を思っていたわけでは当然なく、もっと率直に、

「作者の意図なんてどうでもいい」

という感覚があった。

『走れメロス』でいえば、作者の意図である正義や友情に感動するよりも、短気で単純な男の物語という印象の方が強かった。

そして、自分にとって興味があるのは、作者の意図より「自分はなぜそう感じたのか?」という理由の方だった。

これは、演繹と逆に「自分が感じたこと」という具体から結論に向かっていく作業となり、だから、帰納的な読解に興味があった、ということなのかもしれない。

帰納的思考

しかし、「作者の意図なんてどうでもいい」と言って帰納的に考えても、通常、最終ゴールは演繹と同じく「作者の意図」ということになる。

つまり演繹と帰納は、「作者の意図」に対してのアプローチが異なり、自分は帰納的なアプローチの方に興味があった、というのが正しいのかもしれない。

演繹的/帰納的な映画鑑賞

演繹的もしくは帰納的というのは、映画鑑賞においても感じる。

映画において、「作者の意図は何か?」を解釈する演繹的な鑑賞方法があり、また、「自分はなぜそう感じたのか?」が出発点になる帰納的な鑑賞方法があると思われる。

演繹的な映画鑑賞とは、「作品のメッセージは何か」「劇中のあのシーンは何を象徴しているか」という、作者の意図を解釈する映画鑑賞ということになる。

帰納的な映画鑑賞とは、「自分はなぜそう感じたのか?」の理由を、監督の演出や撮影方法等を探って「作者の意図」を解明していく。つまりこれは、分析的な映画鑑賞ということになる。

作者の意図に対するアプローチ

通常、映画鑑賞は、演繹的と帰納的それぞれのアプローチを組み合わせて行うものと思うが、どちらに比重をかけるかは人それぞれで、好みや得意・不得意があるとすると、自分の場合、演繹的な映画鑑賞は苦手である。

多くの映画を観ていると、作者の意図やメッセージ、これは何の象徴といったことがわかるようにはなってくる。ただ、根っこのところで、少年の頃と同じように、

「作者の意図なんてどうでもいい」

という思いがある。そのため、映画を観ていても、演繹的な鑑賞に興味を突き詰めていくモチベーションがわかない

やはり興味を持つのは、自分が抱いた「よい映画だった」とか「つまらかった」もしくは「なぜか印象に残るシーン」に対する理由であり、そのため、その理由を知りたくなって、映画監督のインタビューや映画の制作方法の本などを多く読むようになった。

以前、映画で表現されることの意味の解釈、つまり演繹的な映画鑑賞ということを考えさせられることがあり、その後、自分も意識して演繹的な鑑賞ということを試みてみた。しかしやはり、評論家のような演繹的な映画の解釈を突き詰めていくことは出来ず、自分には向いていないと思った。

そのため、演繹的な解釈ができる人というのは自分には出来ない能力があって、リスペクトを感じるし、それと同時に、映画鑑賞というのはやはり人それぞれ、多様なのだなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?