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再びカルチャーショック〜肩を張らずにフランス(日本編第15回)

毎日のように買い物に出る。いや間違いなく毎日買い物に出ている。母が家を出る支度をし始めるとそれは買い物のサイン。毎日出かけていくほどのことでもないと思うのだが、一日中家に閉じこもっていることは非常に稀だ。

買うものはその日食卓に並ぶものがほとんど。多くは買わないということだ。付き合って店を徘徊するので母に何かと尋ねられる。答えようとはするがその答えを聞く前に何かまた言っている。耳が遠いというのはお互いのフラストレーションを否が応にも増やす。投げかけられた質問に自分で何かしらの回答を出している。まるで質問の意味がない。イライラする気持ちを抑えながら辛抱強くついていく。

ちなみに毎日ちょびっと買い物をする割に、冷蔵後の中はほぼ満杯になっている。買い物に出る前にストックを確認すればいいと思うのだが、そのまま出かけるのが癖のようだ。流石に自分のうちのものでもない冷蔵庫をしげしげ眺めるのは気が引けるので、いつも「あるもんでええよ」と言っている。親の心子知らず。それ以上は介入しないことに決めている。

***

日本はまだまだ自転車が横行する社会。縦横無尽に走り回る。歩道も車道も関係なし。一方通行だろうとも平気の平左。事故も多いと想像するが、まだ会ったことはない。

自転車に乗っていて気づいたことがあった。

日本人は信号をきちんと守る。正直、フランス人的にはイラつくくらいに遵守する。たかが4メートルの道幅で明らかに車の通行がない状態でも辛抱強く待っている。

それはまだいい。

ついさっきあったことだが、歩道を走っていると、前方に高校生のグループと思わしき連中が信号待ちをしていた。こちらはただまっすぐ通り過ぎたかっただけ。連中は大通りを渡るためにたむろしていた。どんどん近づいて行っても反応がない。歩道は1.5メートルほどの幅。20センチほどしか残っていない。それを外すと田んぼに落ちてしまう。「どうすべぇ?」と思いながら減速し、足をついて恐る恐るすり抜けた。連中に動きは皆無だった。「?」と思いながらもそのまま通り過ぎてしまった。

これは一つの例。

信号を順守するのは学校でも教わる一般常識。無視すると周囲から白い目で見られる。針のような視線を感じる。その上違反すると上の絵のように講習対象となるかもしれないらしい。自転車運転に関しての法的規則はどうなっているんだろう?フランス人なのでいまいちよく分からない。

ところがそういった学校で習うような常識以外では、意外と野放図な行動をとるんだなと今回思った。

歩道橋のスロープ。この標識が目に入らないわけがない。この言葉通りに降りて押す人がどれだけいるだろうか?上りでは半分半分、下りではせいぜいせいぜい1〜2割しかいないだろう。ここを通るたびに日本人の良識のある種のリミットを感じてしまう。猫一匹通らない赤信号を渡るよりもよっぽど危険だと思うのだが。

道や歩道のど真ん中に立ち止まって平気で話しているのに出くわした時なんかは流石にムカついた。こちらが避けようとしているのに気づいているのかいないのか、見向きもしない。堂々としたものだ。

大阪の中心街などを「歩いて」いても同じような経験をした。それでなくとも人が多い。少しでもスペースを残しながら歩こうとするのが「常識」だと思うのだが、得てして好きなところを好きなように歩いている。以前は全方位型に注意を晴らしていると感じたのだが、今回はまるで反対だった。ぶつかる寸前になったことが何度あったことか。後ろから近づいても左右にずれようとしない。正面から来る人も避ける動作を感じさせないまま突っ込んでくる。こうなると立ち止まるしかなかった。こんなことはこれまでなかった。

過敏になっているのか悲観的になっているのかわからない。でも日本人の行動様式の中に、「規定は守るが、規定でなければどうでもいい」がじわじわと浸透してきているように思えた。

フランス人的な「個人主義」とも違って見える。フランス人の場合、仮に一切の規定がなかっとしても、個人の判断で衝突になることはないと思う。

日本人はどうだろう?規定のなくなった状態での日本人を想像することができない。なんとなくお手上げ状態になって全員「三睨み」で固まってしまうような気がする。もちろん現実には規定(お決まりごと)が存在するので生活は回転している。要らぬ想像をすることに意味はない。

またもや浦島太郎シンドロームが出てしまった。すっかりフランス人になってしまったようだ。今書いたことに「それは言い過ぎ」と反論されても仕方ない。でも2週間ほど日本にいてこの感覚がなくならなかったのでまんざら被害妄想でもないんじゃないか?

今晩も飲み会。群衆に喧嘩を売ることだけは避けようと思う。

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