見出し画像

フィリポ・ニュータウン③〔ショートショート〕

  楽しい仲間と一緒にいれば、飲み物が薄まっていくのは気がつかないもんなんだ。最高のバリスタがいる店のアイスコーヒーだって常に美味しいわけじゃない。だってストローの先と氷は仲良くグラスの底にあるものだし。それでも勿体ないから薄まったコーヒーをストローで吸って、残りの氷を捨てた。そんな日がわたしにもあった。
 わたしはこれからのことを考えて、きっとそれも忘れるしかないのだなと納得し始めていた。ここには誰もいないから。
 
 車の運転席のシート倒していつものわたしの特等席を作り、寝転ぶ。ドアは開けたままが開放的でいい。この場所にもだいぶ慣れてきた。体を動かしたくなったら散歩して、また疲れたらすこし眠ったっていい。フィリポ・ニュータウンはそんな場所だ。
 カーラジオからは陽気な曲が流れていた。そして曲が終わると、ロビン(ラジオパーソナリティーの男)はこう話し始めた。
「サァ今日はリスナーからの質問がきているようです。いつも聴いてくれてありがとう」
 そう言ったあと、ハガキでも読むように続ける。
「ロビンさん、こんにちわ。旧友が遠くに引っ越すことになり、またわたしもこれから新しい世界でやっていこうと思っています。そんなふとした時に、疎遠になった友人たちのことを忘れてしまいそうで罪悪感のようなものを感じています。こんな経験ありますか。なにかアドバイスがあったらお願いします。えーと、PS、ロビンさんの陽気な選曲が大好きです。……ということです。ありがとう」
 最後はまくしたてるように早口になり、それから一呼吸して、また話し出した。
「わかるよ、わかる。……でもさ、罪悪感は感じなくていいと思う。そういうもんだから。忘れたつもりでも、顔見れば思い出すんだから。そう。大丈夫、忘れてください。そして思い切り、いまを楽しんでください。きっと、あなたにはあなたの役割があるはずです」
 そういうとロビンは、「じゃ、曲いきますか」と優しく笑う。
 ——曲が流れる。
 ジャズというのだろうか。雨の音が聞こえてきそうなスローで、でも悲しくはないピアノ。何かを巻き戻すことも、ぽんと肩を押して送り出すこともできそうな優しい曲だ。
 わたしは、ボーっと止まったフロントガラス越しの空をみた。
 その目線の先にある空想の中で雨の日を思い出す。地面でささやくように弾ける雨は、区切りを付けれない人たちの為に拍手のタイミングを教えてくれているんだ。幕が閉じてライトが消えて、ひとりの役者が役を演じきったことを知らせている。そして一斉に立ち上がり行われるスタンディングオベーションは形式的でもかまわない。あなたが拍手を送ることでその音が届くかもしれない。それは奇跡でも何かの偶然でも、もしかしたらその役者の再演のきっかけになるかもしれない。そういった思いからの拍手なのだ。
 わたしはこのとき、雨をそういったものなのだなと理解した。

 曲が終わるとロビンが言った。
「お聞きいただいたのは——。あたりまえに思っていたこともそうじゃないことも、全部あなた次第です。ここにいるのだって閉じ込められているわけじゃない。いつも入り口があって出口がある。自由なんです。ただルールに気が付いてないだけなんです。流れるプールも水着が無いと入れないし、電池が入っていないリモコンをいくら押してもスイッチはオンにならない、それだけのことです。あなたの世界です。やりかたは自由、好きなやり方で楽しんで」
 そういうと、またいつもの陽気な曲が流れ出した。
 
 わたしにはこの場所から帰る理由がない。もう誰もいなくなってしまったから。仲の良い友人も、これから仲良くしたい人たちも全部。捨て鉢になったように聞こえるかもしれないがそんなことはなく、ちゃんと自分には可能性を感じている。だから、なおさら自分にだけ自分を使いたいのだ。
 これから聞くすべての音をわたしが選別したい。雑音かそうでないかを。それから幸せを選別したい。骨付き肉のどこにかじりつくと美味しくて、なにをすると罪なのかを。そんなわたしだから、この「フィリポ・ニュータウン」に来れたのだろう。
 わたしは、恐らくは運良くここに来た。ここはあちらから何処かへ行くまでの間で、たぶん蜘蛛が巣をつくるときに選ぶくらいのちょっとザラっとした場所。走るのが遅い子が悲しさに置き去りにされたときに、馬の乗り方を練習する場所。
 だから、わたしはここにいることにする。
 
 
 




頂いたサポートは、知識の広げるために使わせてもらいます。是非、サポートよろしくお願いします。