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〔ショートショート〕 雨と無知

 仕事から部屋に戻ると、いつも決まってまず風呂に入る。これが、この男の習慣だった。湯を張ったバスタブの中にふんぞり返って座り、ふちに足を投げ出して大股開きで座る。このとき、肩はお湯の中にしっかり沈め、首を通り越し顎の先にお湯が付くまで沈む。「肩までしっかり浸かれよ」。男が父親から言われたことで、一番理解できて、心から納得した教えだった。今日みたいに肌寒い日は、もう秒数を数えてもらわなくても良いくらいに長風呂だ。
 少しして男は、バスタブのお湯がぬるくなるのを感じる。自分の体中の血液が温められた浮遊感に浸り、おでこから糸で吊るされたような気がして、ふと、風呂場の天井を見上げた。
 雫が見える。それと、天井に取り付けてあるネジ。
 同じくらいの大きさの、丸い膨らみ。それが並んでいる。多分、片方はそのうちに落ちてきて、もう片方はそのままだ。後ろ髪を濡らしたままの格好で見上げ、「そのどちらかが逆だったら怖いな」と、男は思った。そして、男は想像した。気持ちよく目を閉じているときに、何も、たとえば音もないまま降ってくる。そのネジが想像するような小さな粒みたいなものじゃなくて、縦に長い、そう、15センチくらいの長さだったとしたら。重さもどうしてなのか、とても重たくて、トンカチで叩かれた釘みたいな速さで自分の頭に、そうだ、大体おでこの中心辺りに振ってきたらどうなってしまうんだろうか……。
 でも意外と、男にとって嫌な気持ちになる想像ではなかった。むしろ気持ちのいい感触をイメージしていた。果実から、さわやかな果汁が飛び散るような光景。快晴の夏のビーチ。背の高い異国の木がつくりだす日陰の中を通り向けた風がきもちいい。きめ細かいかき氷に、勢いよく刺す銀色のスプーン。若い男女がにぎやかにスイカを囲み、棒が振り下ろされると飛び散る果肉と流れるジュースがブルーシートの上を伝って砂浜に染み込んでいった。  スイカ割りの後に降る雨はスイカの味がするのかなと、男は疑問に思った。

 男は立ち上がり、バスタブから出てシャワーで頭を洗った。
 適当に買ってきたシャンプーはスカルプ効果があるとやらでスース―して嫌だった。だけど、それだけの理由で捨ててしまうのは、なんだかわがままな感じがして気が引けるし、なにより環境に悪いのではないかと気になった。
 シャワーで頭をすすぐが、やっぱりスース―するのが取れない。そればかりか目元の辺りにもその嫌な感覚が流れてきているので、顔にもシャワーを当てた。
 何かのテレビ番組でリンゴを水で切っているのを見たことがあった。高圧力噴射でリンゴが切れる。しかも、水に研磨剤を混ぜると硬いものも切れるらしい。そんな映像を見たことがあるのに、シャワーを身体に当てることに何の恐怖感もない自分が不思議でならなかった。シャワーを浴びながら、自分の顔がルービックキューブみたいにバラバラになるのを想像したことは一度もない。映画の「ジョーズ」を見た後なんかは、海に近ずくのが怖かったのに。
 人間、誰も信頼できないようで、誰かは信頼してるんだなと男は思った。
 風呂場から出て、バスタオルで体と頭をガシガシ拭き、楽な部屋着に着替える。昨日も着ていた部屋着は自分の匂いがして安心する。
 とりあえず男はテレビをつけてから、夕食になるものを探しにキッチンへ向かった。ペタペタと素足が音を立てた。

 ーーテレビのニュースキャスターが原稿を読む。
「N市の海岸で男女二人の遺体が見つかった事件で、遺体には外傷があり、頭を小さなものが貫通した跡があることから、警察は殺人事件として調べを進めています。なお、凶器のようなものは見つかっていません」。

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