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ポエム・エッセイ

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ポエムのまとめです。わたしの頭の中は、こんな感じです。
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2024年1月の記事一覧

からっぽは、難しい。

最近、夢中に一番近い状態になるために料理が有効だと気がつく。料理をするときは、からっぽで夢中に近いところから始まる。 野菜を切るときは、切ることだけに気がいっている。同じような大きさかどうか、ある程度切るスピードが早くなるようにテンポよくできているか、なるべくは無駄がなく処理できているか、そんなことを、料理に使う野菜についてのみ考えている。自然と。 多分、刃物を使っているし、自然と集中するのだろう。ながらでは行えないから、それがスッキリした気持ちになって良い。 そのあと鍋に移

風邪、早く治そ。

 「楽しい」ことと「楽」なことが、気を抜くとごちゃごちゃになって、すぐに「楽」なことに飲み込まれてしまう。やることは計画するんだけど、本当に計画するべきなのは楽しい予定な訳で、それがなんだか、いつの間にか余った時間でできることにすり替わる。それでもっと質の悪いのが、細切れになった「楽しい」だったものが、ぼんやりとした休憩のまがい物みたいな時間になっていることにも鈍感になってしまう。多分、この休憩のまがい物こそが「楽」なんだ。  どこから始まるのかは、全くわからない。風邪みたい

たぶん、くだらない意地なんだと思う。

 世界は随分変わったというのに、そして歳月が随分過ぎたというのに、ズボンの裾上げすら一人でできないままだった。楽観的で怠慢なのだ。渡せばしてもらえるというのは、素直に受け取ればありがたい。しかし、長く浸かり過ぎたぬるま湯は、身体に悪いようだ。だから、今はただ、怠慢だったなと未熟な自分を恥じるばかりだ。  なんでもネットで調べれば大抵のことは分かるような気になるけれど、実際に行動するのには面倒だという、ただ一つの壁にぶち当たった。何のためにある感情なんだ、この「面倒」というの

ノスタルジーを。

相変わらず寒い日の朝は、ロックンロールのヒットチャートと缶コーヒーで身体を暖める。これが落ち着くのだ。 まるで着古した防寒着みたいに袖が通しやすくて、そのくせにリバイバルなんかで、懐かしいのが今の流行だ、なんてことになることもある。オシャレと懐かしさがライバルだなんて、この年になるまで知らなかった。 薄暗いまま一日が終わると思っていたけど、鬱陶しい雲を風が押しのけるから、空が見えた。 それだけで、気分の温度が上がる。 乾燥した風が汗をかき始めたようだから、外へ出て伸びをす

良くない日を書く。

派手な時期が終わると、落ち着いた匠のような時間を創れるものとばかり思っていたけど、どうやら思い違いだったらしい。 質素で、味気ない歯応えだけに喜びの一端を見出すような人。そうだな、多分、藍色か薄抹茶色の甚兵衛を羽織って土間で胡座をかくような人を想像していたから、そうならなかった自分への落胆と、そんなふうに見た目からイメージしている時点で、そちら側の、いわゆる職人肌の人間ではなかったのだろうから仕方のないことである。 無気力と言われても仕方がない。 そう間違えられてしまうほど

。昨日までも、今日からも

目的の中に迷い込む 今はもう、随分と奥の方まで来ている トボトボと足を動かしている もっと注意深く、木の幹や枝先の蕾を見てから歩みをすすめるはずだった しかし、どうだ 最近は、足元の起伏した根っこを避けることに注力し ただ、トボトボと足を動かしている 恐らくは、まだしばらくはここから出られない だろうから、出来ることをするしかないのだが、心細い そんな心細い暗がりでできることは、なんだろうか 上を見上げて枝葉の間から月光を探すか 茂みの中の蛍の明りを探す

美味しいチロリアン。

美味しくできたカレーにも一皿で飽きてしまう贅沢な休日は、午前9時を過ぎたあたりから急かしてくる。 洗濯籠に溜まった無計画をとりあえずグルグル回す。 今日の分だけじゃなくて、一週間分の充実をスプーンですくって食べないといけないのだから、制限時間は必要だけど計算できないからこんなことになってる日曜日の午前中はもうすぐ終わる気がする。 46分後の取り出し時間が、「タイムリミットです」とタイマーが教えてくれる親切設計の洗濯機に一礼してからカーテンの外の天気を見てみる。 良くても悪く

休日のおかしなこと。

お菓子のパッケージに戸惑う。 日本のものは、箱の口を開けてそのまま食べやすい様になっている。しかも、取り出しやすくて、手が汚れないような工夫までしてある。さらには、食べるのを中断してもいいように再度、封ができるようになっている物も少なくない。 でもちょっと値段が高いきもする。 値段を気にすると、輸入物のお菓子は安い物もある。 味も、個人的には好きなものに巡り合うこともあるから、見慣れたお菓子よりも好奇心が刺激される。包装からも異国のお土産をもらった時のような気持ちになれる。

整理する時間が嫌いなのだ。

世界のすべてを見渡せる所に立っているのが当たり前だった頃は、くり返す毎日に飽きたりしなかった。 お腹が痛くなるのが恥ずかしくてたまらなかった。あの頃はキミが泣いたりボクが泣いたりするのはしようがないことで、ゴメンを言うのにも一日くらいかかってしまった。 でも足が大きくなって新しい靴を履いた頃からは、世界には行けない所もあると分かった。そして、繰り返しの毎日に退屈して泣いている暇なんてないらしかった。一分も考えないでゴメンが言えるようになり、お腹が痛くなればトイレにいく。笑

普通って誰の味方。

マイナス5℃で凍ったフロントガラスは、ヒーターの風で口を開く。ダラダラと粘っこい涎を垂らして、また一日をはじめる。 酒飲みが嫌いになったのは、母親がそうだから。 電気をつけっぱなしにしないのは、そうやって叱られてきたから。 現実では怪獣を殴るヒーローを見て喜んでいるくせに、自分の息子が普通じゃないとイライラするらしい。ヒーローは最後に怪獣を粉々にするのが決まりだから、それが普通の見本なのだろう。 素直に絵本が読めなくなって、タバコが格好いいと思うようになって、やっぱり

やさしく、しずか。

絵を描くのは、指がとっても冷たいの いつもわたしは、最後にわたしを描く 窓ガラスに描いたわたしは、勝手に泣いてしまうから そんなに泣かないで 大丈夫、独りぼっちにしないよ すぐに何か描いてあげる 指がとっても冷たいけど、わたしは泣かない 独りぼっちは嫌だから

窮屈な退屈。

完成と未完成のどちらが良いのかは、意見が分かれるところだ。 眠気覚ましにいれたコーヒーをこぼす朝と、眠りたくて作ったホットミルクでお腹を壊した夜のどちらが良いか選ぶくらい決めるのが難しい。 理想をイメージしてコツコツと構築するのが健全。そして、完成図も描かないで、いきなり好きな色のクレヨンを握るのはいけない事。でも完成図を描いているうちに、お絵描きに飽きると叱られるような気がする。 道端に咲く花を見るのが好きな人は、他所見をしないで真剣に走る人と一緒のマラソン大会に参加する

死生観

ここ数年で、死生観が変わった気がする。 いや変わったののではなくて、フワッとしていたのが固まったというほうが近いのかもしれない。 わたしはのんびり者で人嫌いなところがある。 これは自分なりに多少折り合いをつけて、ストレスを感じながらもそれなりに楽しもうとしている。 コロナ渦で数年経つうちに、やっぱり自分の周りの状況も変化した。それだけではなく、当然のように年齢も重ねる訳だから、またいつか会えるのが当たり前だと思っていた人たちが、二度と会えなくなる、そんなことも経験した。

足音は鳴り響く。

秋に見た鱗雲の持ち主は、さぞ気風の良いやつだと分かるほどのブルーの風が吹いている。風の冷たさを和らげるように、太陽の腕が空をかき回す。 今日は晴れだ。 歩く。 数年前から使っているコートと手袋。それから、去年の年末に慌てて買った冬靴が手足を守る。暖かい。 公園の木々はまだ薄着でいるのに、その姿がナチュラルに冬を越えるスタイルだというのが可笑しい。でも向こうからすれば、体中の毛を必死になって剃っている癖に誰よりも寒がりな方が滑稽に見えるかもしれない。 人でいるのも楽じゃない。