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わたしに降り注ぐ光

去年の今頃は何をしていたのかな、と思ったら、お団子を食べていた。

この一年で、随分と色々なことが変わった。
一年前は思えば、毎日ほとんど何もできず、それでも何かを残したくて、毎日のように note を書いていた。
そんな日々から季節が一巡りして、今年の春は少しだけ、明るい気持ちで迎えられている気がする。

もちろん去年だって、春の光はやわらかくて、暖かくて、それを浴びることはなんだか悲しいような喜びだった。そのことはちゃんと、覚えている。
けれどそこには同時に、どこに心を置き忘れたような、うら寒い寂しさも伴っていた。
わたしはたぶん、春の喜びを幸せと感じられない自分に、うっすらと絶望していたんだと思う。

そうやって改めて思い出すと、あぁ、本当に変わったんだな、と思う。

あの頃は、死にたいのが当たり前なのだと思っていた。
笑っていても、心の中は悲しくて仕方がないのが普通なのだと思っていた。
夜に訪れる小さな死は救いで、目覚めることは絶望だった。
明日への思いが連れてくるのはため息で、もっと遠い未来を考えることは、途方もない暗闇の前に立たされるような無力感を味わうことだった。

でも、いまは違う。
いまのわたしは、ちゃんと笑える。
朝目が覚めても、素直に「いい天気だな」と思うことができるし、時には明日の予定を楽しみに思うこともできる。
数ヶ月後、一年後のことも、やっと考えられるようになってきた。
もうすっかり、元気だと思う。

でも、それと同時に冷静な部分では、ちゃんとわかっている。
勤務の翌日は泥のように疲れ切って使い物にならないし、友達と会った翌日も以下同文。
調子に乗って吹かし過ぎないように低速運転を心がけても、社会の中でつつがなく生きていくには、わたしはまだまだエネルギー不足らしい。
お薬にもバリバリにたくさんサポートしてもらってるしね。

でもまぁ、少なくともちゃんと前には進めているわけで、うん、悪くない。
そう素直に感じられること自体が、わたしにとってはいまでも、奇跡みたいに思える。

いや、本当に奇跡なのかも。
光の季節が気づかせてくれた、それはきっと、やさしい奇跡。

空は快晴。
満開の桜が眩しくて、強い北風に首をすくめながら耳にするのは、楽しそうに遊びまわる子どもたちの声。

あぁ、春ですね。

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