見出し画像

「普通」とはなんだろうか『コンビニ人間』 |読書感想文


「いらっしゃいませ!」


もしも自分が「世界」という名前のコンビニに勤める人間だったら。
新たな生命の誕生を、おなじみの定型文で迎え入れるんだろう。
でも、きっとそれは誰かを「歓迎」する言葉じゃない。
その言葉は「定」められた「型」にすぎない。



1️⃣『普通』に産まれなかった古倉さん

本作の主人公「古倉」は、俗にカテゴライズしてしまうのであれば「社会不適合者」「サイコパス」「発達障害」とされるのだろう。
人間を「動物」。食事を「餌」。喧嘩をとめて!と言われれば、なんの躊躇もなくスコップで当事者の頭をぶん殴ることができる。ただ言葉通りに指示に従うだけで、不文律の掟や、文脈を読み取ることができない。
コンビニエンスストア日色町駅前店でオープニングスタッフとして、一から十まで研修を受け18年間働き続ける。
文字通り『コンビニ人間』
それが彼女だ。

本書では「普通」と古倉が常に対比されながら描かれる。しかし、古倉の一人称視点が徹底しているため、普通はきわめて難解に映る。表面上しかさらうことしかできない。古倉は、おそらく観察力には秀でているが、文脈や人の内情までは及ばず、ごく限られた想像力の中でしか思考を巡らすことができない。「変わり者」として、常に周囲から怪訝な目を向けられる。
それが世間的に「悪いこと」だと認識できているから、彼女は「優秀なコンビニ店員」として完璧に演じきろうとする。そうあろうとする。

「常識とは18歳までに培われた偏見のコレクションだ」とはアインシュタイン有名な言葉であるが、奇しくも古倉さんが初めてコンビニで働き始めたのが18歳。そこからピッタリ18年間バイトして働き、作中で36歳となった時点から物語が始まる。彼女の常識はバイトを始めてからすっかりと再構成されるが、そもそも「どうやら自分には常識がないらしい」と自覚する彼女にとって培われた常識とは一体なんなのだろう。
「人間はこういうものだ」とメタ認知を持ちながらも、その「人間」の中に自分が含まれていないニュアンスの独白を、彼女は続ける。


2️⃣現実なはずなのに、どこか奇妙な世界

古倉は人並みに苦悩しない。
世の中のよしなしごとに関心を持たない。たとえば恋愛、料理、美容とか。

それこそコンビニに関する事のみで彼女の思考は満たされている。
ホットフライヤーの売れ行きとか、発注の頻度とか、ポップの上手な飾りつけとか、タバコを求める客の挙動を瞬時に見抜いて先回りするテクニックだとか、すべてはコンビニに集約される。

自分が店員として振る舞っているときだけ、まるで全能の神様みたいに真理を見通す。普通が分からない彼女であっても、コンビニ店員の間であれば円滑な人間関係すら模倣できる。彼女はそう自負する。
しかしこの物語はどこまでも一人称視点。実はところどころに欠けがあるのだが、彼女に心情を重ねる内は、そういった欠損がまったく認知できない。おそらく、大抵の読者は感情移入できない構造をしている。自分の心を砕いて潜心するか、あるいは古倉に憑依させない限り、彼女の世界に入ることをきっと心が拒絶する。読者の「18歳までに培われた偏見」によって、阻まれるのだ。

どちらかといえば私は、古倉の持つ社会不適合性に多く当てはまる。そちら側の人間という自覚があるからすんなりと入り込めた。しかし、社会不適合者が社会不適合者を客観的に眺めている構図になるわけなのだが、これが実に奇妙に映る。奇妙というのは古倉自身ではなく、古倉を通して見る周囲の人間たちのことだ。

古倉はその観察眼をもってコンビニ店員として最良の振る舞いを行ってきた。そんな古倉を周囲は認め、しきりに「助かるよ」「ありがとう」と声をかけるし十分に信頼されている(ように見える。あくまで古倉視点なので真実はわからない)
しかし、コンビニから一歩でも出ようものなら途端に全員が「暗号」を喋り始める。いつ、だれに、どこで指示されたかも分からない、意味のわからないことを話始める。不合理で不条理で、理解に苦しむことばかり。恋愛の話なんてのは特にそうだった。それまで「店員」として話をしてきた人たちが、急に「人間」の皮をかぶりはじめる。奇妙で、不可思議で、それでも「店員」として正装をしている古倉には、どこまでも関係のないことだった。

だけど、こうして物語を俯瞰して観ている私達には、周囲の人間が話していることが手に取るように分かる。当事者だけには分からず、それでいて普通に喋っている周囲の人間が、恐ろしく器用な処理をしているように映る。これが出来なければ普通じゃないのか。
ただでさえ複雑な人間社会の中で「普通」はどこまで複雑になれば気が済むのだろうか、と私は思ってしまった。


3️⃣苦悩ができない彼女

外の世界に満ち溢れる「偏見コレクション」を脳内に叩き込まれ、彼女はどこか他人事のみたいに偏見を模倣する。

実のところ、古倉は悩んでいる。
しかし、わからないことがわからない、とか、自分は一体何者なんだろうとアイデンティティを失うような苦悩ではない。死にたいといった苦悩もない。非常に分かりづらい、共感のむずかしい苦悩だ。

18歳までの彼女は、空っぽだった。
偏見もない。死生観も性善説もない。純白でまっさらな平地だ。家族がいうには自分は「治らないといけない」らしいから、自分を治そうとしているだけ。彼女にとっては、たぶん生きていくこともそんなに大事ではないのだと思う。
「普通」にどこまでも固執していた。おかしい自分は「普通」にならなければいけない。でも肝心の常識がないから、常識を身につける機会無く、世界から切断されていた。彼女はずっとずっと「普通」を求めていた、のだと思う。叶わない願いじゃないと、彼女はずっと信じていたのだろう。

「だと思う」とか「なのだろう」とか、煮えきらない表現ばかり使っているのは、彼女の独白の中でさえそういった情熱は登場しないからだ。
純白でまっさらな平地は、さめざめともしていない、感情の起伏も変動もごくごくわずか。一人称を離れ、彼女という存在を俯瞰し、これまでの行動から推察する他ない。それが彼女の特性でもあり、彼女という存在を理解する唯一の方法。

だけど、残念ながら彼女はコンビニ人間として「店員」を模倣している。だからそこには本意は含まれていないのだ。結果も原因も、すべては模倣された果て。登場人物は、だれも彼女の真意を測れない。唯一、彼女の独白を覗き見る「わたしたち」だけが知れる真実になっている。

おかしな考え方かもしれないが、古倉という人物はまだ幸福かもしれない。私達は描かれた物語として彼女の存在を認識し、彼女の独白に触れられる。
しかし、現実にも「古倉さん」に似た境遇の人は何千何万人といるだろう。
擬態して模倣して。普通に「治ろう」としている人が、数え切れないほどいる。彼ら彼女らの物語はきっと描かれない。そして誰も想像しない。社会の孤児みなしごを、今日もわたしたちは観ないフリをして過ごす。いや、そもそもみえてさえいないのだろうな、と思った。




▶私達にできることはあるのだろうか?


『コンビニ人間』には白羽という、世の不条理を「縄文時代から人は変わらない」と喚き立てる中年男性が登場する。
白羽もまた人と違うことに悩み苦しみ、それは怒りと憎しみにすっかり変わってしまい、容赦なく周りを「底辺ども」だの「人生終わってるな」などと罵倒する。
そんな正真正銘のクズ人間だが、古倉と違う点は感情的な起伏を持ってしまったことにある。古倉は、そんな白羽に同情しない。ただ「世間からつまはじきにされた者」として観察するだけ。サンプルの一つにするだけなのだ。

つくづく思うのだが、古倉や白羽といったマイノリティたちは、それ同士で集まっても上手くいかないケースが多い。詳しくは話せないが、私も以前、そういった試みをしようとして苦い経験に終わったことがある。少しだけ話を脱線させるが、許してほしい。

マイノリティのコミュニティには安定した存在が必要。かといって「俺はぶれない!」と強靭すぎるメンタルを持った人物に任せてしまうと、そうでない繊細な人の気持ちに乖離が生じてしまう。
メンタリティに応じてグラデーションのように人員を配置していくのが良いかと思われたが、大抵ネガティブな感情に引っ張られて共倒れするか、患者が離脱して中央化してしまう(元々安定した人ばかりが残ってしまう。)
パートナーや近親者といった関係性であっても、それに任せっきりでは修復不可能なほど拗れるケースもある。

精神科や心療内科は広義的には「地域社会の包括的な促進」を推している。クライアントとして来訪された方を「地域社会に戻すこと」をミッションとするケースが多い。ウェルビーイングに基づくリカバリー的な支援、つまり古倉や白羽においては当てはまりようのない「幸福な社会的生物として、地域社会、ひいては国の資本として”戻る”」ことを目標とするのだ。

社会生活の中で他者から必要とされること、そして「よく在ること(well-being)」。
これらは、常にセットで考えられる。
実のところ、その時点においての本人の幸福はそれほど重要視されない。「人間らしく」生きることでメタ認知能力が向上し、脳の高次機能が発達し、生活や交流ととも幸せが育まれていくこと。それが治療の前提となっている。そのために、治療者たちはクライアントに寄り添う。

この点において、古倉は「自分自身とはどういう人間か」「どういう人間になりたいか」がコンビニ生活の中で形成されることになる。結論は「コンビニ人間」なのですが、果たしてこれは健全な発達なのだろうかと考えてしまう。
地域社会の一員として生活はしているけれど、生活の中で他者と交流すればするほど彼女の孤独は加速し、しかし本人はそれを感じることもなく逸脱していく。「店員」として生きていくほど、彼女は「人間」がますます分からなくなっていく。

私には、それと「洗脳」の何が違うのか、検討もつきません。
「普通」は誰が創り、誰が考えたのだろう。

作中で「縄文時代から人は変わらない」と喚き立てる白羽を、どうして私達は冷たく見下せるのだろう。
適応できない人間の苦しみを、苦悩を。
「クズ人間」と平気な顔で切り捨てられてしまう。

私達のいう「クズ」が、意味するところはなんなのだろう。




終わりに

私達は偏見のコレクションをたくさん持っている。
「人間性」「品性」「知性」「常識」「普通」
本作品を読んでいると、どれもがひどく虚しいものに思えてしまう。

さて、そんな偏見に揉まれた古倉は、作中でどんな結末を辿ったのだろうか。ぜひ本書を手にとって読んでみてほしい。


古倉は、きっと笑顔で「いらっしゃいませ!」と、あなたを出迎えてくれる。




🐈気に入りましたら、ぜひサイトマップも覗いていってくださいな🐈

📒他の読書感想文もいかが?📒



猫暮は『文字生生物』を目指して、毎日noteで発信しています。📒
※文字の中を生きる生物(水生生物の文字版)🐈
あなたのスキとフォローが、この生物を成長させる糧🍚
ここまで読んで頂き、ありがとうございます✨

#毎日note
#66日ライラン 絶賛参加中💨 23/66day

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?