FF14への情熱、そしてウンザリするほどの閉塞感について語るお話。|with アンチ猫暮 feat. 信者猫暮
これから綴っていくはFF14をかれこれ2年程プレイしてきて感じてきたことの記録と顛末です。
猫暮史上最高レベルのボリュームでお届けする本記事。(30000万字over)
可能ならば今FF14にどハマりしているプレイヤーもといヒカセンたちは目にしないほうがよいでしょう。今楽しい時間を害するつもりはないのですから。
それに、こちらの記事では楽しんでいる猫暮も登場します。この猫暮はみなさんと同じようにエオルゼアを心から愛し、思いのままに探求してきた幼き頃のプレイヤーです。
ですから、この記事には「FF14を全力で応援する私」という人格と「FF14を徹底的に非難し、こき下ろす私」という人格の二種類が登場します。
どちらもつつがなく私です。同一人物の猫暮。解離性人格障害とかそういったパーソナリティが要因ってわけではありません。ふたつの相反する意思が内在化している、単なるアンビバレンツです。
逆にいえばこの内在する二つをぶつけることで零れ落ちてくるエッセンスこそが、このFF14というゲームのミソであると考えられます。一方の主張だけでは偏りが産まれてしまうのが世の常です。加害者と被害者、両方の視点にたってはじめて生まれてくるもの。そういったものを記述していきたい。
可能な限り、各見出し毎に独立した文章になるよう構成していきます。結果的に時系列はバラバラになるかもしれません。そちらは適宜、見出し毎に状況をリセットしながらお読みいただけると幸いです。
お好きなところからお召し上がりくださいませ。
さて、では始めましょう。
代わり映えしないユーザーインターフェース
FF14というゲームの根幹部分は、リリース当初から何も変わっていません。
ストーリーという名のおつかいを進め、平坦なバトルをこなし、クリア後に高難易度コンテンツに挑戦する。この流れは10年前から今日にいたるまで続いています。
途中、大量の寄り道コンテンツが配置され、プレイヤーによって千差万別の方向へと舵を切っていく。しかし、実際に行きつく先はあまり多くありません。結局、高難易度コンテンツが本作品の華形であり、つき詰めればそこに到達します。
しかし、そのバトルコンテンツがまったくもって変わり映えしないのです。共通のシステムを使い、共通のルールに基づいた攻撃しか仕掛けてきません。さらに、画面のユーザーインターフェース(UI)も一律なのです。
UIはプレイヤー側でフレキシブルに変更可能な点があるため、運営側は極力手を入れなくていい仕組みになっています。公式のガイドブックにも、HUDシステムといった項目がシッカリと用意されていて、デフォルトのまま扱うことが推奨されていないほど。よくある「UIが見にくくてやる気が削がれる」といった問題は、プレイヤーにゆだねられる部分となっています。
逆にいえば、目新しいUIは期待できない、ということでもあります。
自分にとって見やすいUIを設定してしまえば、大抵そこから大きく変化することはありません。一生自分にとって居心地のよいUIを使い続けることになる。確かに、ストレスフリーな環境ではありますが、逆に言えば『冒険』をしなくなる断絶されたシステム設計でもあります。
近年のルッキズム原始主義にもとづくと、目の肥えたプレイヤーから期待されるユーザーインターフェースのハードルは年々上がってきています。チープで複雑なUIは否定され、凝りつつもシンプルなUIが評価の対象になりがちです。
海外ではよくWoW(ワールド・ウォー・クラフト)が比較対象に挙げられますが、こちらのゲームは外部ツールの規制が少ないため、ユーザーが後発で開発したUI(Mod)を大量に導入することで古臭さをカバーできているだけ、といった観点で見るのが妥当でしょう。これは問題の本筋ではありません。
では、新しいUIがなければ、将来のゲーム性を損われてしまうのかと聞かれれば、答えはNOです。ピクセル化や原点回帰といったゲーム作品は世に出続けており、いわゆるデチューン傾向をこよなく愛するゲーマーや開発陣も数多く存在しています。
少し話を脱線させます。
ノベルゲーの元祖といえばスパイクチュンソフトの「弟切草」や「かまいたちの夜」ですが、テキストを読み、選択肢に従って行動を決定する系のシンプルなADVゲームは未だに需要があります。
例えば、Milk inside a bag of milk inside a bag of milkは精神疾患を患う女の子を操って(文字通り)買い物に向かわせるだけの短編ですが、その根幹を成すシステムはPS時代でも再現できる内容です。新しい技術も奇抜なグラフィックも必要ありません。シンプルにそぎ落としたエッセンスだけでも、十分にゲームエクスペリエンスを味わえるのです。
同様の作品に、未解決事件は終わらせないといけないからや、ドキドキ文芸部!などもありますね。どちらも衝撃的な作品です。ADVゲームの華はシナリオと演出です。工夫さえハマれば、どんなチープな演出でも効果を及ぼせます。
しかし、FF14というプラットフォームは、既に10年前に完成されてしまっているのです。よって、どんなに斬新でホットな演出を施したくても既存の仕組みの中でなんとかするしかないのです。猫暮的には、正直かなり冷めます。むりやり動かしてる感がすんごい。
突然世界をピクセルボックスにしたりもできませんし、曲線を描くUIを実装することもできません。じゃあ一から実装しようじゃないか、といっても、10年積み重なった信頼と実績を大きく崩すことのできるプラグラマーも企業も、この世には存在しないでしょう。つまり、進化という名ばかりのブラッシュアップを繰り返すしか手はないのです。言ってしまえば、代わり映えはもう期待できないのです。
そしてさらに、新規プレイヤーにはこの事実は関係がないのです。なぜなら、新規プレイヤーにとっては、すべて初めてで斬新で新鮮ですから。上記のような完成されているプラットフォームという感想は、ある程度習熟したプレイヤーから非難の対象で、新規参入者からは絶賛の対象なのです。
新鮮な風景やUIをありがたがる新規プレイヤーと、変わり映えしない風景に飽き飽きしたベテランプレイヤー。まともに考えれば、このふたつの需要を満たす銀の弾丸なんて存在しないのは明確です。明確なはずなのですが、現在のヒカセン(※)はあーでもないこーでもないと各所でわめき散らしているのが現状です。(※FF14のプレイヤーのこと:『光の戦士』の略称)
挙句の果てには「開発力がない」という荒唐無稽な話題まで持ち出します。
オンラインゲームの本筋といえば、新規プレイヤーの導入です。もちろん、課金をたくさんしてくれるベテランプレイヤーの存在も欠かせない存在ですが、収入の種を増やしていかなければ、ここまで「太く、長く」なコンテンツを支えきれないといった現実問題がある点にも十分に配慮する必要があるでしょう。でなけばスーパーでオモチャが買って貰えず地団太を踏む幼児と変わらなくなってしまいます。
グラフィックアップデートに漂う哀愁
最新作「黄金のレガシー」よりグラフィックアップデートが入りました。
景色がキレイになったり、装備が高解像度になったり、一部のキャラが可愛く、そしてりりしくなったりしました。そして世間は、これに「うぉおおお!!!」と、にぎわったわけですし、実際にゲームをプレイしているフレンドも「お、ここ景色めっちゃよくなったね」とつぶやくことも増えました。
正直、猫暮はずっとこれに「?????????????」です。
何度反芻したって「????????????」となるのです。
一般的に「グラフィックアップデート」と聞くと、どんなことを想像するでしょうか?
たとえば、キャラクターの動きがよりリアルでぬるぬるになったり。いうなればPS3からPS4くらいのマイナーチェンジを期待してしまいますよね。FF14というゲームはサービス開始から10周年を誇る長寿タイトルです。であれば、当初の技術体系から今までだましだまし誤魔化してきた旧モデルなグラフィックスの総決算を、一気に昇華していくのかな?みたいなことを一瞬期待してしまいました。ですが、そんなことをガチガチに定まり切った規格の中できるはずがないのです。
実際のグラフィックスアップデートでは自キャラのイメージが崩壊してしまうほど変化がありました。しかしそれはモデルを差し替えたとかそういうレベルではなく、表面上のテクスチャの張替えただけにしか思えないお粗末なものです。陰影の微妙な差異のせいで、せっかくクリエイトしたご尊顔がぶち壊されたとして、多くのユーザーから非難を浴びる結果となったのです。あと地面の草が揺れたり、木がリアルになったり…。うーん?
猫暮は、FF14で進んでいくイベントシーンやキャラクターのやりとりを「人形劇」と揶揄しています。人間味のない動作や与えられたアクションや指示に従って「動く」だけ。そこに感情や葛藤は何も期待していません。というか、この辺はゲーム開始1か月くらいで大体飽きています。(なるほど、このゲームに期待するのはキャラクターグラフィックではないな!)って感じで、FF14を始めた当初からピンと来ています。
もちろん、フィールドマップの風景や景色には美しいものがあります。しかし、自分自身を含めたキャラクターは初代バイオハザードを彷彿とさせるへんな方向転換を未だに披露し続けていますし、表情も豊かではあるけれど命を感じませんし、何よりも汎用イベントとなると決まって”いつものBGM”が流れ出すのも飽き飽きしてきます。10年前からずっと同じBGMを使い続けていると考えると、はじめて2年そこらの猫暮がこの時点で飽きてるって相当なのでは…?
最近は、この汎用BGMを聴きたくないがために、イベント時は基本音楽をミュートにしています。だけどそうすると無音の中で続く「人形劇」がより際立ってしまうという難点が…。このへんになってくると、ラジコン操作のキャラクターも、無理のあるフェイスモデルもなんだか嫌になってくるので、すべてのイベントをスキップする勢の気持ちが十分に理解できてしまいます。
実際、スキップしてもゲームの進行にはあまり害はありません。ストーリーに関する謎解き要素も、ADVにあるような分岐もない一本道ファンタジーなのですから。しかし、そうしてスキップを繰り返しても成立するゲームに、はたしてどんな意味を持てばいいのでしょうかと、疑問を覚えます。
一応、敵のグラフィックにも並々ならぬ拘りを見せている本作。でも、肝心の戦闘はテンポが速くスピーディで、正直、敵とかボスを見ている余裕がないのです。これも大きな欠点ではあるんですが、戦闘の忙しさゆえに、見ているのは手元の大量スキルバーばっかりで、敵を見ている暇なんてほぼほぼないです。見たら死にます。
このように、グラフィックへの謎の拘りとプレイフィールがトレードオフになっている点が、かなり悲しい事態を引き起こしています。なぜ、競合他社がひしめくグラフィックスなどという分野に躍り出ようと思ってしまったのか。これも開発陣の冒険だったのでしょうか。ですが、未だにチープな人形劇は何一つ変わることなく展開されています。
といっても猫暮はFF14のグラフィックに関して、正直情熱はありません。こちら、グラフィックアップデートが元で引退を決意されたヒカセン様の記事を引用させて頂きます。詳しい経緯と運営に不信感を持つまでの心情がつづられていますので、ご参考までに。
このバトルシステムって…虚無では…?
グラフィックスのモノ悲しさを書き終えたところで、では肝心のバトル要素はどうなのかという要項に移りたいのですが、正直、ここを解説するのは骨が折れます。
しかし、一つ言えることはバトル要素に関するプレイフィールも到底、目の肥えた現代人を満足させる水準には達していません。これも、変わり映えしないといった点が、あまりにも大きなマイナスポイントです。
もちろんバトル要素が希薄であっても、優れたゲームはたくさん存在します。それに、FF14も初心者からすれば、”はじめこそ”すさまじいやり込みと奥の深さを期待できる類のシステムです。覚えるスキルのド派手さ。演出。カードゲームのテキストに似たスキルの紹介。コンボ。キリの良いレベルで覚える大技。どれもワクワクしてくるでしょう。
しかし前述した通り、バトル中は忙しい+パーティメンバーがドッタンバッタン技を打ちまくりますので、技のモーションなど見ている余裕ゼロです。せいぜいソロプレイ中に撮影モードに入ってじっくりゆったり眺めるくらいでしょう。つまるところ、モーションは観賞用でしかありません。
さらにシステムについても、スキルを使って、合間でアビリティを使って、って、10年前から採用され続けている基本ルールから逸脱することは、もうありません。この基本ルールが変わらないってところに、人は飽きます。飽きなければいけないはずです。
冒険をテーマに銘打った本作「黄金のレガシー」ですが、実際には冒険なんかしていません。慣れ切ったシステムの上に成り立つ、安心安全な環境で、プレイヤーがわちゃわちゃしているだけなのです。
追加パッチが来る度に新しい技が増えたり減ったりしますが、基本ルールは何一つ変わりません。せいぜい順番が入れ替わったりするだけです。本当にそれだけです。
ボタンを長押ししたりスライドしたりなんてこともありません。押す。押下するだけ。↓↘→、みたいなコマンドもありません。タイミングよくボタンを推せ!っていうのは疑似的には再現されてますが、システムとしては用意されていません。フレキシブルなタイムラインもありません。仲間と協力するチェインシステムみたいのもありません。唯一無二のビルド構成もありません。装備も一律です。パラメータに違いはありません。みんな一律です。あったとしても誤差です。ステータスは名ばかりで形骸化しています。装備揃えればいいです。簡単に揃います。特定の装備を組み合わせたセットボーナスみたいのもありません。ありますが、ほとんど要素として死んでいます。
…本当に、何一つルールが変わらないまま10年経過しています。細かい差異はあります。その細かい差異にあーだこーだと話の裾の緒を広げて無理やりヒカセン達は「話」をしようとしています。どこまでも敷衍してあれやこれやと日夜語っています。虚無を押し広げて餅つきをしています。恐れ入ります。
これほどに基礎ルールがガチガチに固められた中身のない話をみんなしているのに、「あの人はジョブに対する造詣が深い」だとか「あの人は本当に上手で尊敬する」だとか、真面目に、ホンキで話しているのです。ただ順番が前後する話を、ずっと、真面目に話しているのです。そして真面目に話した結果を実践するとどうなるか?
敵が早く倒せるようになります。そしてFF14の非公式なランキングボード(通称logs)にプレイヤーの成績が飾られたりします。それだけのために、日夜骨身を削って研鑽を積んでいるらしいのです。
ごめんなさい、猫暮酷いこと言うね。
正直アタマイっちゃってると思っています。
…確かに、RTA界隈などを覗いてみれば、数十年前のゲームに対してとんでもない熱量をぶつけている人たちが一定数います。しかし、ごく少数です。それらと同じ情熱を持った人たちが、果たしてこんな普遍的に存在していいものなのでしょうか。
さてまたまた話を脱線させます。ちょっと聞いておくんなまし。
猫暮はRTA勢が大好きです。特に「トルネコの大冒険3」というゲームのRTA企画はほぼほぼ毎年(というか半年に一回)のペースで開催されており、解説の巧みさもゲームプレイのすばらしさも年々レベルが上がってきています。
「トルネコの大冒険3」はいわゆる1000回遊べるダンジョンゲームです。ストラテジー的な要素を備えつつも、特筆すべきはその「超絶ランダム性」なのです。どうやってもまったく同じプレイにはできない。入るたびに地形の変化するダンジョンは、一度として同じ形を取らないのです。もちろんアイテムもランダムですし、床に接地してある見えない罠だってランダム。そのため要所要所で事故が起こるのですが、RTA走者は格が違います。
もちろん、猫暮もこのゲームはたくさんやり込みましたし、挫折も死ぬほどしました。なので基礎知識は十分です。そのうえでも、RTA走者の知識量は半端じゃないのです。天井知らずといってもいいでしょう。青天井。
異様なレベルの操作練度、無限にも思える基礎知識、そしてそれらを組み合わせた超絶技巧、応用テクニック、まるで羽生善治の52銀のような衝撃が常に巻き起こります。
こういった人々に憧れるとともに、やっぱり雲の上の存在にも思えてしまう。だからこそ、尊敬できる。そして限りなく少数の人たちの熱狂であることも、また真実味を増している。確実に見栄や栄光のためでなく、好きだからやっている説得力があるのです。こういった不思議なコンテンツに熱を注ぐ人が10000人に1人、ないしは2人くらいいる。
でもね、FF14にはそういったやりこみ要素が一切にないにも関わらず、10000人が「好きだからやってるんだよ!」って、こぞってやりこんでいるのです。(んなわけないだろマウンティングタコ助どもめ)。
FF14のコンテンツにランダム性なんて一握りです。猫暮はヒーラーでプレイしているので、死んだ仲間を起こすみたいなランダム性を楽しむことができていますが、それ以外は既定路線しかありません。
ランダムギミック、みたいなモノも絶(最高難易度コンテンツ)にはありますが、実質ランダムではありません。完全に想定可能なことばかりです。定められたルールに従って、定められた動きをするだけ。そしてダメージの乱数が上振れることを期待するだけの、もはや人間じゃなくて機械がやったほうがましなゲーム性になってしまっています。
もちろん、これはやりこみを開始したその後の世界の話です。
まったく未知の敵と戦うときだとか、自分自身で情報を制限してなんの情報も解禁しないまま強い敵に挑む時はワクワクします。いわゆる未予習攻略というやつです。猫暮もこういうときには自分の持ちうる知識を総導入して敵を撃滅せんと、ウッキウキです。
でも、それも最初の敵を打ち倒す一回だけ。あとは流れで~くらいの単調で変わり映えしない景色が続いてしまいます。八百長です。
少し視点をマクロにあげてみましょう。
そもそもFF14のコンテンツ実装は完全に形態化しています。いわゆる偶数パッチでは零式と呼ばれるボスラッシュが4つ追加。奇数パッチはクラフターと呼ばれるサポート職の最新装備が追加されたり、こまごまとしたサブコンテンツが実装されます。最高難易度である「絶」シリーズも追加されるとしたら奇数パッチのタイミングでしょう。
この流れは、ずっと何一つ変わっていません。これを揶揄する言葉で「日替わり定食」なんてものも存在します。猫暮、個人的には日替わりならぬ「パッチ替わり定食」だけど。
つまり、プレイヤーは分かり切っている実装スケジュールに合わせて自身を最適化させていくだけでよいのです。目新しいものもありません。既定路線です。もうね、ここに冒険もクソもありません。みんな安心と安全の上にふんぞり返って「これが新しいゲーム体験だ!」などと宣わっているわけです。
ごめんなさい、猫暮やっぱりもう一度いいます。
正直アタマイっちゃってると思います。
さてさて、残された最後の希望はシナリオなのですが…。
そのシナリオも、特に感情移入できるポイントもなく、世界に溢れた物語の焼き増しも焼き増しで、悲しいくらいに印象に残らないのです。
シナリオという最後の希望も潰えた
細かいネタバレは避けたいので、なるべくぼやかしますが、猫暮はパッチ5.3のとあるボス戦で死ぬほど泣きました(黄金のレガシーは7.0に相当)。
まさか戦闘中に泣かされるとは思いませんでした。とあるキャラの最期を描いた、集大成ともいえるシーンです。
この瞬間は、あまりにも泣きすぎて、キャラへの造詣と歴史が深すぎて、なぜかシナリオライターを恨みました。なんか感謝のパロメーターがオーバーフローを起こしてマイナスに転じました。いや、褒めてます。もしもあの物語がもう一度体験できるなら悪魔に魂を売ってもいいです。それぐらい素晴らしいシナリオだったのです。いや、実際には単純にかけた時間が膨大だったので感情移入ならぬ時間移入しただけではあるのですが…。それでも、心が震えたのは事実です。
しかし、どんな天才であってもシナリオには凡作が憑き物です。人には打率があります。書いた物語がすべてメガヒット、なんてしません。しかも打率は実際に世に出て見なければ客観視できないものです。タイミングの問題もあります。
実際にシナリオの原本が出来上がってから、ゲームとしてリリースされるまでにいくつの新しい物語が世に排出されると思うでしょうか?
それらと被ってしまったら?
似たようなテーマになってしまったら?
トレンドが去ってしまっていたら?
傑作が凡作に落ちる要素なんて無限にあります。それこそ人は気まぐれなものですから。
FF14の開発陣は時間もコストも限られています。悠長にシナリオのアンケートを取って、とか、案をAからZまで用意しとていてとか、できるわけじゃありません。時間との闘いの中で妥協して、切り詰めて、開発を続けていかなければならない。さらにシナリオライターさんだってプロであって、プロじゃありません。
森博嗣のような緻密なトリックを準備できるわけではありませんし、京極夏彦のような圧倒的知識量から解き放つリビドーを込めることも、長月達平のように世の中の真ん中に風穴をドンと開ける作品が量産できるわけでも、虚淵玄のようにナードたちをスクリームさせる快作を打ち出せるわけでもない。
人を感動させる物語は、安易には作りだせないのです。さて、猫暮が感じている違和感はここにもあります。
シナリオのライティングって開発に含まれますか?っていう純粋な疑問です。
なんというか、開発力とシナリオは元来結びつかないものです。ちょっと冷静に考えてみれば、シナリオに期待したいのならば、別の媒体に向かえばよいのです。それこそ、書籍でも映画でも腐るほどあります。むしろ余剰がない分、純粋なコンテンツとして適しています。ゲームはあくまで体感型プラットフォームが主たる成分です。
しかし、最近の傾向では奇抜なADVが流行ったりと、ゲームに求められるシナリオ水準も飛躍的に上がってきています。すると「ゲームにとってシナリオは欠かせないだろ!」と誤認する人たちが大量発生している昨今ではあります。
違います。正気に戻ってください。ゲームの歴史はあまりにも浅いのです。一方で、シナリオを含めた物語というものは、印刷技術が発展する以前から世にはびこっていた原初のコンテンツです。シナリオに期待するなら、より過去に照準を合わせてみればよいのです。
…すみません。ここまで引っ張ってしまいましたが、黄金のレガシーのシナリオは心に何も刺さりませんでした。
盛り上がってるゲームが良作の証拠?
よく、ゲームの盛り上がり度とか、Xのインプレッションでうんたらかんたら、みたいなエビデンスを持ち出して声高に叫ぶ表明botちゃんたちがいますが、本当に面白い作品が常に熱狂されている根拠ってどこにあるんでしょうか?
面白いと思ったものを静かに探求している層のことを考慮したりしないのでしょうか?
話題に上がらなければ無価値なのでしょうか?ではあなたの存在自体が無価値ですね。
そういった注目度だったり全体の傾向を持ち出す方(クソデカ主語人間)は、評判とトレンドに支配された構造の中で「生き方」や「思想」を捨ててしまった愚者の末路なんじゃないかな~なんて猫暮思っています。てへっ。
実際、過去には面白いものが溢れ切っています。飽和しています。それこそ、最近のトレンドや傾向のお話をすると、いわゆる「再発見」がアツい!なんて社会情勢になったりしています。過去の作品を持ち出したりしてフォーカスをあて、再ブームを火付け役になるって感じですね。
猫暮は自分自身で探しに行っちゃうタイプなので人の話に耳を貸している暇はあんまりないんですが、たとえばアマゾンプライムで白黒映画の傑作である「12人の怒れる男」が無料配信されたりとか、映画スキーとして激烈にオススメしたい過去作品にフォーカスが当たったりしてます。(2024/9月現在、ごめんなさい見放題終わってました…)
こういったキッカケから「もしかしたらすごい作品がまだまだあるんじゃないんか?!」なんて探求心が芽生えていくのが、自然な好奇心の在り方なんじゃないかなって。少なくとも注目度と話題性に操られるお人形さんよりは健全だと思っちゃう。
と、ここまで白熱してきましたが、さて、じゃあこれらを踏まえてFF14に固執する理由はありますか?ってお話に戻していきたい。
…ないよね。
FF14は「ゲーム」という舞台の上で戦っている作品です。ゲームならではのシナリオってのもあるにはありますが、少なくともFF14にシナリオを期待するのはへんな話です。
猫暮もいくつかのゲーム作品には、涙を禁じませんでした。FF10とか、ゼノブレイドシリーズとか、ライフオブストレンジとか、アンダーテイルとか、めちゃくちゃマイナーどころで、不思議の城のヘレンや、シルフェイド幻想譚、Luina、魔王復活物語など、あげればキリがありません。
しかし、それ以上に泣ける映画や泣ける本はもっと挙げられます。純粋な感動度合いでいったら、ゲームでない他のプラットフォームが圧勝するのです。
しかし、なぜ、ゲームにすべての業を背負わせようとするのでしょうか。思うに、ゲームという刺激物に順応させられた結果、満足感を得るラインやハードルがどこまでもあがり、豊かな感性が失われてしまったのかもしれない。
猫暮だって、期待していたゲームに裏切られた想いをしたことはたくさんあります。これをこうすればもっとよかったのにな…とか、これいらなかったんじゃ…とか、文句を言いたいことはたくさんあります。
でも、自分にとっての駄作に文句を言うよりも、まだ見ぬ作品と出会い、自分の中でくすぶっていたり、掠れてしまっていた感性を再発見していくほうがずっと楽しいのです。そう、楽しいのです。
あなたにとって、楽しいこととはいったいなんでしょうか?
ゲームだけですか?
ゲーム以外は、何も楽しめませんか?
…本当に?
猫暮からアンチに対する叱咤激励
世間では、イベント過多なFF14の運営に対して疑問を抱くプレイヤーが少なくありません。しかし、猫暮からするとそれはお門違いな疑問です。
だって、このゲームに変化はない、って分かり切っているじゃないですか?
むしろ、そこに期待を乗せてしまう根拠を教えてほしいと思ってしまいます。あなたが天才プログラマーだったとして、10年近く続けてきたビッグコンテンツを一から作り直す気概はあるでしょうか?
それまでの伝統と文化を切り捨てて革新的な変化を加えることができるでしょうか?
そして加えた変化に、胸を張って太鼓判を自ら押すことができるでしょうか?
「開発力がない」などと貶める方もいらっしゃいますが、はっきりいって想像力が欠けています。
開発力をFF14に求めるのではなく、同じスクエニ社内の別ゲーに新しい風が巻き起こるのを期待するほうが現実的でしょう。さらにスクエニでなくとも、元スクエニ社員が独立して開発を行うことでFANTASIANなどの挑戦的な作品が世にできるだって期待できるはずなのです。というか、開発力がないなどと貶めるなら、「開発力のあるスタジオ」の良作の一つでも見つけてきて楽しんだらよいのでは?と思わず冷笑してしまいます。
つまり、ピントがずれているのです。
地上に生えているバナナが、急にイチゴになったりはしないのです。開発力云々でバナナはイチゴにできません。できることは新しい耕作を始め、別のインタラクティブな果実を生成することです。…あら?なんだかピントのずれた例えをしてしまいました。
…とにかく、FF14に対して怨嗟の声が募るということは、それほど期待していた気持ちの裏返しでもある点は理解できます。
しかし、その期待は非常に依存的で、自分から選択肢を減らした結果起こった怒りの逆流現象に他なりません。自分でまいた(期待の)種を回収できなかった。そうして回収できなかったときに生じた怨嗟が、FF14を擁護する他のプレイヤーや開発陣に向けられ、留まることを知らず最終的にはゲームを離脱していく。ただの自業自得物語です。
FF14というオンラインゲームから離脱すること。それ自体は素晴らしいことだと思います。ほかの世界に溢れる万物のコンテンツにアクセスできる時間が増えたのですから、素直に前を向けるようになったと思います。
ただ、少し惨めにも感じるのです。
結局、ネガティブをぶつけるというのは、それだけFF14という物語に比重を置いていたことの現れです。つまりは特別視している。残念ですが、ゲームは一つのコンテンツに過ぎません。メインストリームとか昨今ではいわれていますが、基本的には「大量生産:大量消費」です。
一つのゲームに期待を持ち続けることは、ある意味、永久就職の神話を信じ続ける哀れなオジサンオバサンの独り言のようにも聞こえるのです。ちょっと共通した部分があるとは思いませんか?
正直、ご自身の見識の浅さ、狭さ、低さを誤魔化したいだけのチワワにしか見えません🐶キャンキャン
立つ鳥後を濁さずで辞めればよいのに、結局はいいねとインプレッションに踊らされているような気がします。
今一度補足しますが、猫暮は「FF14をほめたたえる信者」な側面と「FF14を徹底的にこきおろすアンチ」な側面の二つを持ち合わせています。
このゲームを続けることで思考能力が地に落ちていく確かな感覚を持っています。しかし反面、人生に新しい視点を持たせてくれるツールでもある、と思っています。
だからといってアンチの味方でも、信者の味方でもありません。積極的に燃やしにいくお気持ち表明アンチのセリフにもバカらしさを感じ、徹底的にクリーンでホワイトな環境を作ろうとした結果、同調圧力と陰惨な世界を作り出してしまっているFF14信者にもバカらしさを感じています。
ただ、これらから確実に言えることがひとつあります。
生来、声の大きいものはどうやったって声のボリュームを抑えられないということです。声を大きくして裏切られた期待の種を回収しようとする。それがインプレッション稼ぎなら別に構いません。大いに騒いで歌ってどんちゃん騒ぎするといいでしょう。ただ、その瞬間もあなたは利用されて養分にされている、ということを忘れてはいけません。
人は無意識的にバランスを取ろうとします。たとえば「あんな男はやめておけ!」と親から彼氏にケチつけられたり、「そんな通信学校、いくだけ無駄だって!」と希望していたグラフィックデザイナーの授業をやっている学校に反対されたりだとか、そういったシーンは誰にでも一つや二つあると思います。リベラリズムが独り歩きを始めた現代においてはめっきり少なくなったかもしれませんが、元来は人は止められると逆に燃え上がるものです。心理学用語でカリギュラ効果といいます。
たとえ言葉巧みに「FF14をやめたほうがいい理由」を語ろうとも、発言者に追従して辞める人よりも、あたらしく始める人の方が段違いに多いのです。そういったビジネスモデルが既に確立されています。一部プレイヤーが懐疑的に受け取っているファンフェスティバルやリアルイベントが、新規プレイヤーを参入させるための、まっとうな間口になっているのです。
そこにきて、アンチが100%純粋な毒みたいなものを置いてごらんなさい?
彼らはもっと安全に、純粋に、ファンフェスを楽しもうとするでしょう。
本当にアンチ派としてゲームをプレイして不幸になる人を減らしたいのならば、立つ鳥後を濁さずでよいのです。
もしも、可笑しな信念を抱えて発信するのならば、やり方を間違えていますし、そもそも正解などありません。あなたの思う正攻法で救えるのはせいぜいリアル友達や周りの友人だけです。あなたが「FF14を怒りながら引退する」だけでは、世界は一遍たりとも変わりません。マイディーさんのような生きざまでもしない限りは、ただのノイズです。
そんなことを表明している暇があるなら、別のゲームやコンテンツにいったほうがよろしい。なんなら猫暮が色々紹介します。一緒に楽しいことしましょう。
もしも、インプレッションを稼いでうっひょーとしたいだけなのであらば、FF14でマウンティングという名の承認欲求に当てられた人々と、アンチであるあなた自身は、本質的には同じことをしています。対して変わりません。その意味を、よくよく考えてみてみると、少し冷静になるキッカケが掴めるかもしれません。
冷静になったら、ぜひ、別ゲーに旅だったり、新しい趣味を開拓してみるとよいでしょう。最近の猫暮なら、読書とか散歩とかをオススメします。一周回って盆栽とかアクアリウムなんかも面白いかもしれませんよ。案外、自分の周りの時間はゆっくりと流れています。冒険しろよ元冒険者ァ。
同調圧力と閉塞感
FF14の世界、私はよくわかってないのですが、どうやら同調圧力がひどいようですね。猫暮はSNSをシャットアウトして自分なりの楽しみ方をしていますので、特に非難を浴びたりといった機会はほぼありません。されていたとしても、私の耳には届きません。
だけど、どうもこの圧力というのがよほど厳しいらしい。ちょっとその原因を考えてみようと思います。
よく「エコーチェンバー」なんて比喩を耳にします。
自分の所属するコミュニティに馴染めば馴染むほど、その世界を肯定するバイアスが強化されていってしまうことですね。これは全くその通りです。
これは猫暮の視点ですが、猫暮は基本的に社会不適合者です。
FF14に囚われている人々は、適応能力があるあまり、この構造からぬけだせなくなっているのではないかと思うのです。つまり、自分のやっていることに疑問をもつキッカケがなくなってしまっている。「本当に私たちが今やっていることは面白いだろうか?」という命題を心に問いかけないままに、漫然とゲームの中のエコーチェンバーに晒されてしまっているのでしょう。
いや、もうちょっと踏み込んでみましょう。たぶん「本当にこれは面白いだろうか?」と問うても、「ハイ、オモシロイデス!」と答えるしかなくなっている。適応した結果、そうなってしまっている。
これが悪いことだとか、イイことだとか、そういった天秤にかけるわけではありません。人間が常態化していくと自然とそうなっていくと言うだけの話で、そこに疑問を抱かないほうが楽なのです。
人間は楽なほうへ、楽な方へと流れていきます。結果として信者たちは「誰にも迷惑をかけてないじゃん。むしろ運営にお金をかけているのはアタシらだよ」って思考に切り替わっていくし、決して言葉にはしないけど、内心でアンチ派閥を見下すような思想になっているのです。そして同調圧力の輪から抜け出した側も、そういった信者派閥を見下す思想に取り付かれます。
両者ともそのわだかまりをSNSに投稿しちゃう、というのが非常に厄介で、きっと一部の懐疑的なヒカセンからすると、これが陰湿な空気に関わってきているんじゃないかな、なんて猫暮は思います。
例えるなら、ユートピアのフリをしたディストピアでしょうか。先ほどちらっと名前を挙げた虚淵玄さんの手掛けた「psychopath」という作品を挙げます。
この作品では、ドミネーターという銃を人に向けただけでその人の犯罪係数が分かる世界観で、事前に犯罪者を隔離するといった措置がとれるのです。が、やっていることは恐怖政治とマインドコントロールに過ぎません。「考えたら罰せられる」といった基本ルールを元に、人の思想から自由は消え去ります。
簡単に当てはめてみれば「FF14を遊ばせてもらってんだから、一般消費者が文句なんて言ってはいけない!」って感じの思想が、正しく健康とされてしまっているのでしょう。
…さすがにサイコパスの世界観は、あまりにも極端なので、もう一つここに例題を組み合わせてみましょう。
ミシェル・フーコーが提唱し、のちにジョージ・オーウェルが『1984』で監獄の例えとして引用した「パノプティコン」なんかが状況にマッチしているかもしれませんね。
※ちょっと複雑な話になりますので、読み飛ばしても大丈夫です。
現代のオンラインゲームとSNSは密接な関係にあります。これが実質的にはパノプティコンの役割を果たしているのです。不用意な発言や行動があれば相互監視ならぬ相互フォロワーからジッと見つめられ、その人の内在的な評価基準の中で裁定されていく。
SNSで上手に生きていくためにはどうすればいいか。それこそサイコパスで述べたような「慎ましい生活」を送ればよいだけです。いつもニコニコして、ゲームに対して肯定的で、毎日昼間にご飯の写真を挙げて、リプライで角の立たないやり取りをして、そうして精神的に「優れた」と思い込んでいる人間性を演出すればよいのです。
結果的に、信者とアンチの対立構造がクッキリと浮かび上がります。そして相互監視社会が実現している今、誰かをあぶりだすのは簡単なことです。何も言わなくても、FF14という監獄の秩序を乱すものには、それなりの視線が向けられます。
しかも、この視線はエコーチェンバーによって無秩序に強化された視線なのでなおさらタチが悪いのです。常識でないことをさも常識のように刺してくる。偏った価値観は監獄の中で立派にはぐくまれ、結果的に「話の通じない人」が量産されてしまいます。オンラインゲームのメインストリームであるFF14にはそういった仕組みが内包されているのです。
さて、猫暮は、ここで一つ態度を示しておかなければなりません。
「結局、君はパノプティコンから脱走したいアンチなの?」
「それとも、エコーチェンバーに晒された信者なの?」
これについては答えるのが非常に難しいのです。FF14をゲームとして愛している側面もあれば、思わず冷笑系になってこきおろしてしまう部分もある。
しかし、確実にいえることがあるとすれば「このゲームをやってるとバカになるよ」ってことかもしれません。ついでにいうと、のめり込んでいる猫暮もある程度バカです。バカ係数が跳ね上がっています。ある意味で、私は私自身を冷笑しているのです。ただ、向き合い方によってはそれを避けることもできます。絶とか零式とかに手を出し始めたら高確率でバカになっちゃうので気をつけましょう。
猫暮がお勧めするのは、FF14を単純な「コミュニケーションツール」として割り切ることか、もしくはほとんどソロプレイのような状態で「ひとつのゲーム」として没頭することでしょう。
しかし前者は、エコーチェンバー効果により高難易度の道に進む可能性も高くなりますし、テンパードと化した信者たちの常識格差の中で不毛なマウンティング合戦に巻き込まれたりするので問題大ありです。
後者については、オンラインゲームという特性上、どうしても人とのかかわりが発生してしまう点です。しかも熱心なゲーマーであればあるほど上を目指したくなっちゃうもの。すると必然的に他プレイヤーと交錯する瞬間が訪れる。
一長一短なのです。というかオンラインゲームというものが、非常にあいまいな存在なのです。プライベートという自己を邪魔するものがないはずの不文律に、一つの社会が構築されてしまう不自然さがあります。
そもそも、なぜオンラインゲームをはじめようと思ったのか、という動機の在り方によって、このゲームに対する評価は変わります。
純粋な初出のゲームとしてFF14見た時、ジョブシステムやUI、バトルシステムは素晴らしいカスタマイズ性を誇ります。ユーザーに寄り添い、心血を注いで作り込まれたシステムと言えるでしょう。一度大爆死を果たしてしまった本作だからこそ、その丁寧な作り込みは10年たった今でもしっかりと根幹を支える柱となっています。
だ・け・ど。
安定した仕組みとは、それだけ斬新さや奇抜さに欠ける「冒険をしない」システムということの裏返しでもあります。さすがに10年は持ちません。持ちませんけど、持たせるしかない。それが「日替わり定食」の実態であり、メディアや大型会場を巻き込んだイベントの開催であり、パノプティコン化したSNSの現状なのです。
頻繁に開催するイベントに懐疑的になったり、ヘイト活動をするヒカセンが現れたり、ほころびは徐々に明らかになっていっています。ですが、エコーチェンバーにより見当違いの常識がインプットされてしまった「考えない人たち」もまた、増加傾向にある。どこかの記事でも解説されていましたが、そのうち、FF14クラスターの人間は宗教法人のように独立化していくのかもしれませんね。
ん?どうして孤立していくのかって?
ここらへんの詳しい仕組みは、幼女戦記を手掛けたカルロ=ゼンさんが脚本を担当されている「テロール教授の怪しい授業」などを読むのがオススメ。なぜ人がテロを起こすのか、凡人をテロリストに仕立てる仕組みと流れを漫画で分かりやすく解説している作品です。
というかこの作品ガチで面白いので普通に読んでほしい。このねポップなテンポに反してテロリズムは貴方の中にあるって突き付ける感じが逃れられなくて絶妙であやべオタクでちゃうからちょっと引っ込むねごめんそれはまた別の記事で書こう。
…でも、ちょっと思うのが、FF14の世界では出会いや結婚が当たり前に起こっているんですよね。狭い世界であってもリアルに影響が及ぶし、むしろ常識改変されちゃった人たちが無条件の肯定的態度を元に繋がれるわけだから、厳密な孤立はしないんじゃないかなって思うんです。
ひとつモデルケースじゃないけれど、「ラ・ラ・ラ」や「ハレグゥ」で有名な金田一連十郎先生著:ゆうべはお楽しみでしたねなんて、ゲーム内での出会いを描いた作品もあるんですよね。
これはドラクエのオンラインゲームをテーマにしたゲーム内恋愛、からリアル恋愛、からリアル結婚、からリアル子育てまでを描き続けたキュートでポップな作品。もうね、大好き。私がオンラインゲームを始めた理由といっても過言ではない。もうバリかわいい。この漫画好きすぎて一巻の表紙と見開きと目次だけで1000文字の感想を書いたことあるくらいには好き。あ、やべ。またオタクが…。ジュルリ
…とにかく、デジタルで完結できる世界が到来しているのだから、たとえ世の常識から外れたとしても案外幸せな暮らしができるんじゃない?ってのが冷静な猫暮の意見だったり。そう、ある程度バカなほうが世界は生きやすいのよ…。よよよ。
そうそう、この項目の最後に一つ付け足しておきたいのだけれど、エコーチェンバーって、悪い意味で使われがちだけど、実際はそうじゃないですよってことは言っておきたい!
多様化って、いうなれば小さなブラックボックスをたくさん並べて、自身にとって住みよい環境を自由に選択できる世界のことを指してる。
各メディアが力を失って一枚岩じゃなくなった今、各人の摂取できるコンテンツを恣意的でなく自由に選んでいける世になってます。まだ大きな慣性力(例えばオリンピックとか流行とかトレンドとか)は残っているし、それに逆らう事は基本できないけれど、別に逸脱しても死にはしなくなったのです。どちらかというとソーシャルメディア的な死?袋叩き?は増えたけど、その分発展した技術の力で、個人で解決できることも多くなりました。
猫暮の所感として、アテンション・エコノミーの中での地位の確立みたいなことさえ望まなければ、比較的自由に生きれます。自分のスキを探求していけます。
その中の一つに「FF14で生きる」ってのがあってもいいんじゃないかな、って思うかもしれない!
まぁ、のめり込むほど、どんどんバカになるし、テンパード(盲信者)になるし、無駄なプライドも増していくけど…。別に本人が問題じゃないと思っている内は、何も起こらないのです。それこそ、そこにとやかく言うのはおかしなお話。やぶへびやぶへび。自分の好きな事しましょ。
…あ、そうそう、自分が本当に好きなことだったら、他人からどうこう言われようが続けるはずだって、猫暮は思うのよね?だけど、その言い訳に他人が混じってくるなら「本当に好きなことなのか」って今一度自分に問い直す必要があると思う。多分、それ、無意識に何かと比較してるよ。比較をすると不幸になるからね。気を付けて…!
で、猫暮は「FF14は数多くのゲームの中の一つに過ぎない」と思っているし、相対的な評価も自分の中である程度固まっています。そしてこの評価はFF14でない新しいゲームをプレイするたびに、ちょっとづつアップデートされていく。自分の中の指標が確立している分、ちょっとやそっとじゃ折れません。だから急に引退、ってこともな…、ん~、まぁ…あるかも…?まぁそもそも最初から期待してないから、引退するってなっても、何も言わないで辞めるかな。
なのでこれからもFF14を純粋に楽しめるだろうし、純粋に冷笑することもできる。アンビバレンツ。いつだって二律背反なのです。どっちにしろ、ほどほどが一番なのでしょう。
オンラインゲームの特性上、レベリングも攻略も間延びしがちです。テンポをあえて落として作られています。その意味するところを、各自が自覚した上でプレイしているなら、もーまんたいです!逆に、それらを認識せずにただただ惰性でやっているとぉ・・・?
ふふふ。
さて!
ここまでかなり批判的な内容を繰り返してきました。次の項目から、私がFF14の中でも大好きな「ヌシ釣り」について語りあかして、バランスを取っていきましょう!
ヌシ釣りという虚無に見出すアイデンティティ?
猫暮はヌシ釣りといったコンテンツが大好物です。
しかし、とある記事や(FF14内の)世間では、「ゲーム内のアイデンティティを強化するだけの中身も何もない虚無の作業だ」といった意見が漫然と見受けられます。
でね、これに関しては、まったくその通りだと思います。
釣りとは簡単にいってしまえば「水場の前でボタンをおして、頭の上に『!』がでたらもう一度ボタンを押す」だけの作業です。出生したころからスマートフォンなどが当たり前にある令和世代のキッズたちであれば、3~4歳くらいでもルールを把握できるでしょう。もしかしたら操作だって出来るかもしれません。
そういったコンテンツに大の大人がこぞってハマっているというのですから、確かにちょっと正気を疑ってしまいます。
大きな要因の一つとしてアチーブメントシステムが挙げられます。PS世代に馴染みがある言い方をすれば、トロフィーとか実績といった類ですね。難しい条件や根気のいる作業を頑張ったプレイヤーに、運営から与えられるご褒美のようなものです。見事に報酬系システムに組み込まれ人の射幸心につけこむ合理的な仕組みともいえます。パチカススロカス
特にオンラインゲームというプラットフォームにおいて、このアチーブメントは自己満足以外にも別の側面をプレイヤーに与えてくれます。
それこそが『マウンティング』です。多種多様なプレイヤーがいるということはそれだけ差別化を求める人も多いのです。そしてその差別化が表層化した時に、マウンティングが発生し、人間は類人猿への退化を見事果たしてしまうのです…。
現実世界と違い、プレイヤーのキャラクター情報は可視化されています。遠方からプレイヤー名を検索したりサーチしたり、実際、隣にキャラクターがいればその情報の一端を覗き見ることができます。この人はどれだけレベルを上げているんだろう?とか、どんな装備を着ているんだろう?とか、どういったコンテンツをクリアしているんだろう?とか。自己紹介しなくとも自分という存在を絶えずアピールしながら世界を練り歩いているようなものです。特に顕著なのが頭上に表示される『称号』です。
名前のフォントサイズと同じ存在感を誇る称号は、ごくごく短い英語1~3単語からなる文字列に過ぎません。しかし、その称号が意味するところが分かるプレイヤーには、これほど分かりやすい指標もないのです。
特に、猫暮が取得している《the Final Fish》という称号は、全世界の釣り場でも細かな条件が設定されているヌシ289種をすべて釣り上げるといったものです。
前述した通り、釣りというコンテンツは実に虚無な作業です。もちろん、厳密にはスキルを使って条件を有利なものに変えたり、時間短縮のためのノウハウや知識など、工夫のし甲斐はあるにはあります。しかし、慣れてくれば手癖で処理できるようなものです。おおよそプレイフィールもあったものではありません。
そんな中、実にリアルなタイムスケージュールで動かされることになります。例えば、月に3回、計10分ほどしか釣る機会がないヌシであったり、バラシ率(ひっかかりはするけど針から外れてしまう現象)が異様に高く、半年以上釣れないヌシがいたり。
そういったことに耐えに耐えて、見事全種を釣り上げた暁に貰える称号が《the Final Fish》なのですが、これがマウンティング以外の意味をもつのか、ヒカセン界隈では懐疑的です。
猫暮がよく言っているセリフをここで反芻してみましょう。
「ヌシ釣りは老後のコンテンツだよ」
「ヌシ釣りは本当に楽しいと思えないと出来ないし、オススメしないよ」
老後のコンテンツ、どういうことかというと、比較対象は盆栽とか町内会のゲートボールとか、縁側の日向ぼっことか、そういった趣味と比べているのです。気長で、大味で、しかし温和で安心できるコンテンツ。
ただ指定の場所に行き、ボタンを押し、その釣果に一喜一憂する。そこにはゲーム性もなければ、刺激的なものも何一つない。と、思われがちですが、実際には普通のプレイヤーにはない発見があったりするのです。
釣り場というのは往々にして釣りをしないプレイヤーには無縁の場所です。
しかし、意外な景色や景観が、釣り場に設定されていることが多いのです。
梅の花が咲き誇るあまりに美しき避暑地ことヤンサの『梅仙郷』
鍾乳とクリオネのほのかな輝きが織りなす幻影の洞穴ことクルザス高知西の『クリアプール』
セフィロトの樹を彷彿とさせる巨大な人口樹木のたもとに流れる環状培養川、アジスラーの『バイオ管区』
遥か上空から見下ろすとモーグリの形をしている伝説の浮島、アバラシア雲海の『モック・ウーグル島』
さっと思い出してみただけでも、美しい風景はたくさんありました。ヌシ釣りはそれ自体はおそろしく退屈で中身のないモノかもしれません。しかし、おそらくですが、「ヌシ釣りなんて虚無の作業だよ」といったセンテンスを分解してみると、そういった批判する人々の潜在的な思い込みが存在している気がするのです。
虚無の作業、という点を取り上げて解釈してみましょう。ここから発言者の理想とするゲーム性が見えてきます。さて、反語としてセンテンスを再整列すると
「ヌシ釣りはただ釣り場所にいってボタンを押してフレーバーテキストだけ用意された味気ないアイテムを取得するだけの作業。こんな作業をするやつは、ゲーム内でマウンティングをするためだけにみんなやっているに違いない」
と、こんな感じでしょうか?
さて、ではひとつひとつ対立構造に当てはめて抽出していきましょう。
まず、発言者がヌシ釣りに期待していることは「もっとエキサイティングな操作性や奥の深いシステムを用意すること」なのでしょう。確かに、ヌシ釣りはオマケもオマケの要素です。実に単調で、正直ゲームでわざわざそれをやる価値は皆無なのでしょう。
ですが、ここから逆説的に見て取れる価値観は「単調な作業は実装するにあたいしない」といったことになります。
さてさて、世界一のアクティブプレイヤーを誇るオンラインゲームことFF14です。すべてのニーズに応えきるのは現実的ではありません。でも、それでも、ゲームが苦手なプレイヤー層が存在していて、なおかつ根気強いプレイヤーが目指せる動機を与えられるといった点では、ヌシ釣りは唯一無二といっていいでしょう。そう、唯一無二の虚無なのです。
唯一無二の虚無に、意味を見出すのは実はカンタンです。徹底したスケジュール管理の元、ヌシ釣りは敢行できます。スケジュール通り分単位で動く気持ちよさがあり、安心安全といったテクストがそこにはあります。ある意味で、人間は忙殺されている瞬間が最も不幸になりにくい。
ヌシ釣りの事細かなタイムスケジューリングは、その忙殺に近い性質を持っています。ところが、いざ釣り場についてみると予想以上に美しい光景が広がっていた、なんて副産物が発生したりする。ゲームのグラフィッカーが全力で実装した世界です。楽しめないのではなく、楽しみ方が分からないだけのような気もします。
確かに、現実問題、釣りのマウンティングを取る連中はそこそこにいます。しかし、猫暮の場合はどこまでも自己満足なのです。
猫暮はヌシ釣りスキがたたって、ヌシ釣りアンバサダーなるものを(勝手に)拝命しています。まだヌシ釣りを経験したことのないフレンドを勧誘してナビゲートし、アチーブメント獲得をこの目で見届けることを生業とするものです。
もちろん、釣り餌は猫暮が100%提供、ご自身で用意していただいてもかまいません。場所、スケジュール、タイムライン、おまかせください。特定の天候でしか釣れないヌシや、分解することでマーケット的な副産物を得られるヌシ、漁師界隈で幅広くカリスマ的な人気を誇るヌシ、それから最高の景色を同時に紹介できる知識を持っています。
と、こんな宣伝を垂れ流しながら、ヌシ釣り入門者を見守ってきました。
余談なんですが、はじめてヌシを釣ったプレイヤーには「太公望への道:ランク1」って称号が与えられます。この称号は取った瞬間、他のプレイヤーからもログで確認できたりします。猫暮はこの瞬間を目にするのが趣味です。実に50人近いプレイヤーのアチーブメント取得を見守ってきました。
これは100%自己満足です。ほかのプレイヤーにアチーブメントを取らせるアチーブメントなんてものはないのですから。好きでやっていることです。こんな感じで、マウンティングとは無縁のおかしな人間が湧いたりするのも、ヌシ釣りの醍醐味ではあるのです。
虚無の中にも意味を見出す、それがヌシ釣りの神髄じゃないのかな!なんてかっこいいこといってみたり。スミマセン。本当はヌシ釣りながらyoutubeとか見てます…。でもヌシ釣りって脳死で作業できる分、そういった同時視聴が捗っちゃうんだよなぁ。
以上、ヌシ釣りをこよなく愛する猫暮からの擁護の一部をお届けしました!
なぜ猫暮はヌシを釣り続けるのか。
…しかし、どうしてこんなにもヌシ釣りに対する情動があるのかと、疑問に思うかもしれない。別にアチーブメンター(アチーブを集める人)でもありません。猫暮は絶系も含め戦闘系コンテンツにも十分精通していますし、正直FF14以外でもたくさんのゲームや映画、書籍などに触れています。そんな私が、FF14というゲーム内のアイデンティティやマウンティングに固執することなく、虚無に等しいヌシ釣りをなぜ楽しいと思えるのか?
多分、猫暮の幼少期からの思い出が心にあるから、だと思います。
※ここからやや長いので読み飛ばしていいです!
父親が大の釣り好きで、暇さえあれば父の顔なじみだった歯科医の先生と釣りに出掛けていました。その関係はまさに釣りバカ日誌のハマちゃんとスーさんがぴったりと当てはまる。
大型連休には家族ぐるみの付き合いで磯釣りによく連れていかれました。多分ルーツはそこにあるのでしょう。しかし、根がしっかり出不精の私は、父が亡くなってからというもの、すっかり海とは疎遠になりました。一応遺品として大量のロッドやサビキが遺されていたのですが、手を付けることなく処分してしまいました。
でも、きっと心残りがあったのかな。私は無駄にゲームの釣り要素にハマることが多かったです。はじめに体験したのは「海のぬし釣り」といういかにもなタイトルの作品でした。
これは、なんで家にあったんだろう?父か姉が買ったものの気がしますが、よく覚えていません。そんな誰のものかもわからないタイトルを無心でやっていた気がします。
それから、どんなプラットフォームであってもゲームに潜む釣り要素には惹きつけられるように。出不精でこらえ性のない私の釣り欲を満たせるのはゲームの中だけだったのです。
別の釣りゲーたち
さて、ちょっと私のプレイしてきた釣りゲーたちを紹介していきましょう。ごめんなさいね、FF14の記事なのに別ゲーを紹介してしまって。ただ、猫暮はいろんな釣りゲー+αを体験してきてなお、FF14の釣りという要素に愛を感じるよってことを強調したいので、あえて数多めにしています。
NieR:Automataにも釣り要素がありましたね。油田の中に住まう機械サカナとかロマンがありました。こちらもワンボタンワンフックで釣り上げられる単調なシステムでしたが、釣り上げたイワシを「使用」すると主人公が即死するなんて小ネタが仕込まれていました。好き。
今やサ数が決まってしまったBLUE PROTOCOLにも少し凝った釣りシステムが用意されていました。サービスリリース初日にストーリーを一切やらずに街の港で一生釣りを楽しんでいました。しかし、こちらは釣り場が一か所しか用意されていないことや、天候や時間、釣り餌などのランダム性がなく、大体2時間くらいで楽しみつくしてしまった気がします。
サブ要素として最高峰の釣りシステムを誇っているのがFINAL FANTASY XVですね。こちらはあまりに完成されすぎていて後日釣り要素のみをピックアップした作品がでるほどの反響っぷりでした。猫暮もこの釣りを楽しみたいがためにロイヤルエディションを買いなおして一から始めたほどです。
フィッシングアクションや、魚の挙動やリアルなグラフィック、そして釣り場の美しさ、どれをとっても満点です。FF15は最高の釣りゲーです()
デイヴ・ザ・ダイバーは釣りゲーではありませんが、魚&ゲーム好きにとってこれほどジャストフィットしたゲームはないでしょう。黄金伝説のよゐこ浜口にならって海へピョーン!からの銛で突き刺したサカナを寿司屋に持ち込んで商売をする、漁業系経営シュミレーションゲーム。アーリーアクセスが発表されたころからずーっと目をつけて遊んでいましたが、本当に最高の体験です…!
そんなでデイブザダイバーとコラボ&ハンドル販売しているDREDGEも神ゲーとして印象深いです。まさかのクトュルフ要素を混ぜた奇怪な世界観にメロメロ。何よりも釣りのシステムのさながら積載システムには唸らせられました。このゲーム、船を操作して釣り場に向かうのですが、船に積み込めるサカナの量が決まっているのです。ちょうどバイオハザード4にあるアタッシュケースシステムと聞けばピンと来る人がいるんじゃないかな?こう、アイテムをクルクルと回転させながらデッドスペースを作らないようケースに収めていく感じです。几帳面な人ほどドはまりするシステム。神です。
どうぶつの森シリーズにも、釣りは欠かせない存在ですよね。筆者の姉がニンテンドー64の初代どう森にドはまりしていたんですが、こっそりとデータに侵入しては河口のシーラカンスばかり狙っていた記憶があります。後日、姉自宅にゴ〇ブリが湧いたことで勝手に起動していたことがバレてこっぴどく怒られるのはまた別の話だったり…(笑)
毛色は違いますがハングリーシャークシリーズも非常に面白いです。サメを操作して小魚やニンゲンを食べて育成していくシンプルなゲームですが、魚の挙動にこだわっていたり、多種多様な生態系を表現していたりと視覚的にも飽きさせません。ちょっとバイオレンスなのが瑕。
さらにハングリーシャークの3D版とも言えるManeaterも素晴らしい出来です。にしても世のサメ好き達の執念はどんな界隈にも影響を及ぼしますね…。これも全部スティーブン・スピルバーグってやつが悪いんだ…!
他にも、wiiのローンチトレーラーとして発売されたフォーエバーブルーとか、その続編であるフォーエバーブルー ルミナス。ファイアーエムブレム風化雪月の釣りシステムもシンプルで上出来です。アプリゲーならフィッシングライフやアビスリウムといった作品も楽しかったのですが、、、さすがに文字数ヤバすぎるのでこのへんで止めておきます。
思うに、こういった生きたサカナに触れる機会が少ない猫暮にとって、ゲームの釣り要素はそれらを補完してくれるありがたいシステムなのです。
FF14のヌシ釣りシステムはコレクション要素としては別格です。なぜなら現実に存在しない魚を開発陣が作成し、一匹一匹にフレーバーテキストを加えて、時間や条件、グラフィックを調整した上で実装しているのですから、未知の探求といった意味でこれほどワクワクする要素はありません。反面、単調さゆえにアクション性は犠牲になっている部分がありますが、ミニゲームはそれくらい気軽でよいのです。
本格的にヌシ釣りがしたいのなら、猫暮がさきほど挙げたゲームをどれか一つでも摘まんでみるとよいのです。そういった選択肢があるうえで、猫暮はFF14のヌシ釣りをこよなく愛していると、胸を張って言えるのです。
運営に期待している事とは?
ここまで書いておいてなんですが、特にないんですよね。
PLL(プロデューサ・レター・ライブ)はおおむね好評です。こちらFF14のプロデューサーである吉田直樹さんが自ら出演してゲームの解説をするという企画。現在第82回まで開催しております!
猫暮は、第一回からのアーカイブを全部見たりしています。あ、嘘、最近のはあんまりみていないかな。80回くらいまで見た。最近はちょっと冷めちゃったからね。
あと新生の際のクローズドβテストの様子とか、過去の高難易度コンテンツの攻略風景とか、当時の反応シリーズとか、とにかくこのゲームの至るところをしゃぶりつくしています。10年前から続けているフレンドさんに、過去ツアーだとか今の人があんまり知らない豆知識だったりを教えてもらったりもしています。
正直、これほど内情を明らかにしてくれている運営は外にいないいない、ってのがハッキリとした感想。だからこそ、システムの限界も分かりやすい。分かりやすければ、どこに期待できて、どこに期待できないかも簡単に判別がつきます。
「は、お前もええんやで騎士団かよ」とか言われちゃうかもしれませんが、じゃあ、逆に騎士団と揶揄する方は何を期待するのでしょうか。
「開発力の向上!」とか具体性に欠けたセリフではなく、しっかりと通したい要望がなんなのか、猫暮は気になってしまいます。多分、答える際にはお得意の浅慮さをいかんなく発揮してくれるかと思います。
あと、よく「コンテンツの飽和した時代にこのゲームやる意味www」みたいな文章を見かけます。ここの構造を見るに、文脈としては「自分の好きなものやったらええやん」だと捉えられます。であれば「FF14が好きなものである」って可能性は唯一例外処理する感じなんでしょうかね?
いや、猫暮はこの意見には賛同しています。正直なところ、パッチ実装直後の新鮮なコンテンツ以外はFF14にやるってあまりありません。
あるにはあるんですが、人を集めるのが大変で、それこそエコーチェンバーに長いこと晒されている人たちを説得できる自信がないのです。その労力に見合わない。でも、逆に労力に見合うものがあると信じられるなら、いくらでもやれることがあるのがFF14というゲームです。FF14の中にもコンテンツが飽和しているんですよね。ニッチな需要にこたえられる人口が少ないだけでね。
まぁ実際には、ゲーム内にもゲーム外にも飽和したコンテンツが広がっているのですから、どちらを選択するも個人の自由であると思います。
多分だけど「コンテンツの飽和した時代にこのゲームやる意味www」って書いてる人はもっと素直に書くべきだなって思っちゃう。そんな皮肉にもなっていない「w」だけが取り柄の煽り文じゃ、動かせる人も動かせません。
そんなに現代に適応したいなら、再発見を進めていくべきでしょう。ほら、対比としてたった一つのゲームを持ち出すだけじゃ弱い弱い。もっともっと魅力的な世界が広がっていることを、FF14のヘイトスピーチに割けるだけの情熱をもって書きあげてみてくださいな。その方が、よっぽどいろんな人の正気を取り戻すことができると思うのです。
そうだなぁ…。要望ってほどじゃあないんですけど、PLLに登場する吉田直樹さんって、元々すっごいゲーマーなんですよね。なので、純粋な吉田Pのゲーム論みたいのを聞いてみたいかなぁって感じ?もしくは、そんな感じの書籍を執筆してくれたりとか…。ん~…これゲームに対する要望じゃないね。
もちろん、PLLの中でこまごま語ってたり、ゼルダの伝説のティアキンをプレイしながら登場したりなんてオチャメな一面があったりするんですが、もっとこう、真面目な話を聞いてみたいんですよね。ただ、それも開発に携わっている現状でうかがうとなると、結構渋いかなぁと…。半ばあきらめてます。
あ、あれだ!しくじり先生みたいな企画をいっぱいやってほしい!くらいかな?
・・・え?
ゲームについてもう一声・・・?
エー…特にない…。ゲームコンポーザーはスクエニだけじゃないし、今やゲーム制作も個人ができる時代…。かといってここでウルフエディターを使ったコンテストの受賞作とか挙げてもしょうがないし、絶版になったセガサターンの神ゲーの話をしても盛り上がらないでしょう?
それに新規がバンバンと参戦する以上、FF14というゲームに新鮮味を持つ人はたくさんあらわれるのです。だから変に変えてもしょうがなくない?ってのは私の根幹。猫暮が意見落とすには慣れすぎちゃった。
あ、お金を一番落としているユーザーの言う事をきけ!みたいな、ある意味で疑似株主総会システムっぽい面があることは理解できるけど、実際にスクエニ第三開発本部の会計を覗いているわけじゃないし、本当にそういった権力をもちえるほどのイニシアチブが存在しているかも謎。だから消費者云々って感想はガチでナンセンスだと思うな。スープに虫入ってたら取り換えるけど、スープの作り方変えろ、とまでは言わないでしょう?消費者様?
結局は、運営のやりたいようにやってください、ってのが猫暮の感想。
いやーー本当にないんだよね…。強いていえば、ポートレート周りかな?
あれ装備更新するたびにリセットされるじゃん?なんかもはや静止画でよくね?ってのが私的な要望かな。うわっ、地味。
閉塞感の正体
さて、ここまで書いてきましたけれど、実際は書きたいことの1/3もかけてません。本当は私の過去編に突入して「その時、Necogureが気付いた、ーーープロジェクトエーックスゥ」「その時、猫暮に電流はしる…」とかやりたいんだけど、もうそこまでやっちゃったら本筋からブレにブレるから、あんまり書きたくなんだよね。
じゃあ最後に猫暮が感じている閉塞感の正体について解説していこうと思うよ。
どうしてこのゲームはたまに居心地の悪さを感じるのかってとこなんだけど、まずゲームがここまで一般化してしまったことに起因する。
ネットワークに接続していない頃のゲームといえば、一人で、オフラインで、家で没頭するものだったと思う。猫暮は姉も父もゲーマーだったから、そのおさがりをたくさんプレイさせてもらっていた。懐かしいなぁ。セーラームーンの格ゲーとか、CDから再生するモンスター育成するゲームとか、頑張れ森川クン2号って奇ゲーとか、手当たり次第にガチャガチャパチパチとプレイしていました。個人的にセガサターンの七ツ風の島物語って作品が神をこえてレジェンドだったので、いろんな人に再発見してほしいかも!泣けます。
とにかく、ゲームといえば、世間に馴染めないギーグたちの心を癒してくれる世界でした。しかし時代の変遷とともに、他者の影がそういった世界に忍び込んでくることに。すると、馴染めなかったから逃避していた世界なのに、その世界で馴染むことを強要される事態に。
山の奥にこさえていた秘密基地。そこが土地開発か何かでタイラにされてしまって、自分の作った秘密基地の周りには高層ビルが立ち並んでしまったような、そんな気分。
もちろん、ゲームの攻略が人海戦術により著しく進むと言う恩恵にはあずかれました。でも、ゲームは心の殻の内側にあるものじゃなくて、場になってしまった。場には社会性がはぐくまれ、秩序が生まれる。
正直、うざかった。今でも、ちょっとウザいと思っている。ずかずかと踏み込んできた健常者たちが、とにかく目障りでしかたなかった。人間の関係の悩みの99%は対人関係。それがなんとなく肌で理解できていたから、幼いながらも逃避を選択したのに、件の問題のほうからやってきてしまった。
そうしてあれよあれよという間に社会のメインストリームとなり、私の秘密基地は跡形もなくなってしまった。気持ち的にはそんな感じなのです。
そして社会のルールとして再形成されたゲームは、どうにも閉塞的でした。一緒にプレイするのが当たり前。
協力するのが当たり前。
情報を提供するのが当たり前。
Shit!!!!!!
そんなものはゴミじゃけぇ!きさんらが頼まれてもいんに勝手やってることじゃろうが!すったらだボケぇ!と心の中の猫暮が吠えます。
思うんですが、私の身近にいる人でゲームを自力でやっている人なんてほとんどいません。いても、一人か二人ほど。隙あらばスマホでポチポチ、ブラウザカチカチと、むさぼるように情報を消費して攻略開始。大量消費の礎となって忘れ去られていく情報たち。
これはFF14も同じことで、過去のコンテンツは忘れ去られていきます。情報は大量に摂取され、大量に消費されていきます。しかし、消費しきってしまうと居場所がなくなってしまう人がいくらか居ます。だからごくごくわずかな差異に目を付けてなんとか場をつなごうとする。味のしないガムを永遠と咀嚼して、笑顔で「おいしいです」と口にする。
難しいコンテンツを繰り返しリプレイする人たちがいます。バトルジャンキーなんておしゃれな呼び方をされているけれど、その実情は冒険しない冒険者たち。保守者とか呼んだ方がまだしっくりくる。そんな人たちが低い天井のバトルシステムの下で自由度のない研鑽を繰り返し、自己のアイデンティティを確立してしまうような可笑しな世界なのです。
そして、ほとんどの人間は、この違和感を口にしない。もしくは感じているけれども、相互監視社会の中で何も言えなくなっているか、本当にバカであるか。
猫暮が口を酸っぱくして言っているバカとは、自身の在り方に疑問を抱かない人のことです。
FF14をはじめとしたオンラインゲームは、そういった「当たり前に感じれるはずの疑問」を消してしまう特性があります。特に、FF14はその効力が高い。取り扱い注意なのです。それを危険と認識できないヒカセンが、つぎつぎとカイロス(記憶忘却装置)にかけられて明日への可能性を失っています。どこか変な常識をかぶった人間たちが集まってわいのわいのやったことで、私の閉塞感は天井知らずとなりました。
正直、猫暮がこのゲームで本当に面白いなって感じたフレンドさんは、今まで2人しかいません。2人とも、戦闘コンテンツは大の苦手です。だから、フィールドを散歩したり、3人で釣りをしたり、バカ話ばっかしてました。いや、多分ゲームである必要すらありません。たまたまFF14で偶然出会っただけです。ただ、FF14でしか出会えなかったとも思います。まるでねじれの位置みたいな関係性でした。
お2人方とも賢い人でした。お1人は見識が深く、現実社会でもゲーム世界でも、普通人がやらないような様々な『冒険』をされていました。
もう、お1人はどこまでも純粋で、しかし決して愚鈍ではなく、すさまじい人タラシを発揮するなか、FF14の世界を『冒険』されていました。
こんな社会不適合者の猫暮と仲良くしてもらったことが、いまだに信じられません。ですが、今思えばこのお二人と出会えたことだけでも、猫暮がFF14をプレイしたかいがあったと、ホンキで思えるのです。
さて、私は、どんな『冒険』ができたのでしょうか。
ん~、すんごいぶっちゃけトークしちゃうと、猫暮、実はFF14で出会ったとある人と一時期「同棲」したりしてました(笑)
結果は大失敗でしたけど…。私があまりに未熟すぎたこともあったし、やっぱり猫暮に人並みの共同生活はまったく送れないようです。まぁこれも『冒険』ということで…!
って感じで、FF14にはデジタルを超越するエッセンスが含まれているのも確かです。こういったリアル出逢いの要素は他ゲーにはあまり見られないものでしょう。きっと可能性があるとすれば、ここに鍵がありそうなものです。といっても、出逢い厨は嫌われちゃうから、ほどほどにね!
おわりに
さて、長々とつづってきました。細かいところを言えば、まだまだ書きたりません。このゲームについて考えたことは、この程度ではないからです。
きっとFF14は血肉の一つになってしまっているのでしょう。そうでなければこんな妄執的な文章は書けません。しかし、結構楽しんでかけてしまったのですから、やっぱり私の中にはアンチ的な猫暮も信者的な猫暮も両方いるのでしょう。
ですが、縁も竹縄。また楽しそうなことを見つけてしまったので、猫暮はとことこと散歩に出かけていきます。
ん~~~、何か言い残したことはないかな?
あ、そうそう。一緒に遊んでくれているフレンドさんへ。メッセージを送ろう。
いつもありがとうございます。このセリフに嘘はありません。
たくさん誤解されるようなことを書いているかもしれませんが、大丈夫です。見た通りで合ってます。たくさん誤解なさってください。
猫暮はきまぐれで気難しいタイプの人間なのです。
でも、こんな人間と一緒に遊んでくれていつもありがたいな、と思っています。
それに、こんな記事を書いたからといって、私自身が大きく変わったり、ということもありません。
この記事は、普段から思っていることを言語化しただけです。
もともと私の中にあったもので、その延長線上に「いつものわたし」がいるだけなのです。
だから、今まで通り、いつも通り、フレンドの皆様とは遊んでいきたいと思っていますよ!
これからも、どうぞよろしくお願いします!
そして、FF14運営の皆様へ。
すごくひどい内容に見えてしまったかもしれませんが、これまでたくさんのコンテンツをたくさん楽しませていただきました。すべてに対して、肯定的な意見を投げることはできません。
それでも面白いと思えた経験は、一度や二度じゃありません。私の中で、FF14にまつわる思い出は無数に煌めいています。
だから、これからも力の続く限り、開発を続けてくださいませ。
きっと、たくさんのニューヒカセン達がこの世界を、聞いて、感じて、考えてくれると信じて!
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