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『話せばわかる症候群』のお話。


「話せば分かる」


昭和時代初期の首相、凶弾に倒れた犬養毅が最期に語ったとされる言葉。
五・一五事件から100年も経っていない。


私はつくづく思う。

それってほとんど嘘ではないかと。



「座れば分かる」

嘘、という言葉を使うと、とたんに自分の心にブレーキがかかる。
いかんせん力が強すぎる言葉。
慎重に扱わないと暴走してしまいそうなフレーズ。


「話す」ってどんなことを指すんだろう。

イメージするなら、席を設けて対面に座り合うこと。
電話とか通話って手段があるけれど、元来の意味に従うなら、対面することが大事なのだろう。
真正面だと対立しようとする心理が働いてしまうらしいから、横並びがベターだとおもう。
カウンター席で「マスター、今日の私によく似合うカクテルを作ってくれ」って気取りながら注文する感じがいい。

そんなキザなことするやついるの?と疑問に思ったけど、実際にバーテンダーとして働いてた友人に聞いたところ「けっこう多い」らしい。

めちゃめちゃ苦労してるんだなぁと思いつつ、やっぱり人って分からないなぁ~と考えが強固になってしまう。

さらにいっちゃえば、隣り合うよりも斜め向かいのポジションが最も心理的ハードルが下がる。
ただ2人で4人席をわざわざ選んでわざわざ斜めに座るのもなんだか奇妙だから、大人しく横並びがいいんじゃないかなと思う。

4人席の座り方でわかる距離感。
真正面:対立・競争
横  :独占・親愛
斜 め:安心・安全

さて、横並びでいざ対話!

ってそこまで意気込まなくてもいいんだけど、実際このテクニックで人脈を増やしている人も多い。


「感じれば分かる」


「話すのが一番の近道」と耳がタコにできるくらい聞いてきた。耳がタコ…?どういうこっちゃ、耳にタコだ。

順調に世間の意見を取り込んできた私も、それこそが世の真理だって思い込んでいた。
きっと「話せば分かる症候群」にかかっていたんだと思う。

でも、実際にはどうにも上手く行かない。

「腹を割って話そう」とみんなが口を揃えながらも「距離感が大事だよ」ってフレーズも台頭してきた。言っていることが矛盾してはいないだろうか、とずっと思っている。

時系列で考えたらいいんだろうか。

まずは「腹を割って話して」合わないなと思ったら「距離感を取る」のがベストプラクティス。

…むむむ、変な話だ。
「腹を割って話す」にはそもそも信頼関係が必要なのではないか。信頼関係を築くためには「距離感を調整」して細々と立ち回らなきゃいけない。

しかし、距離感を調整してしまえば「腹を割って話さない」が選択肢にはいるわけで…。

なかなか堂々巡りの問いかけだ。
結果的には二律背反な考え方。

ふたつの論理はわきに置いておいて、ロミオとジュリエットばりの「運命論者」になってしまったほうが気が楽とも思った。
もしくはソウルメイトだったり、フィーリングを大事にしている、って論調のほうがまだ信頼できる。


ふと「話すことが性に合わない」と感じている人は、どうすればよいのだろうかと思った。もっと厳密にいってしまえば、心と喋りが一致しない人だ。っていうか私だ。

どうも世間の認識では「話すこと」こそがその人の本性を表しているらしい。「話せば(本性が)分かる」らしい。

私からすればゾッとする話だ。
だって「何千何万文字」と書き綴っていたとしても、実際に対面して喋る「200文字」が優先されてしまうってことだから。

書いてきたことは、その人が取り繕ってきた部分で、まったくもって表面をなぞるだけの部分で、下手をしたら「こいつは”おはよう”って挨拶をしなかったな。よしフィーリングリストから外しちゃおう」ってされる可能性がある。

たった「4文字」喋らなかっただけで、私の書いてきた100万文字はまるっきり消されてしまうかもしれない。

私が「話せば分かる」を盲信してしまったときは、とにかく窮屈で、何も出来なかった。
何も出来なかったから、ますます周りは私のことを「話さないから分からないやつだ」となった。

負のループ。何を話すか口のなかでモゴモゴしている限り、私の評価は地の底まで落ちていったような感覚に囚われた。


「間で分かる」

どうやら「思考する時間」も世間一般では無駄らしい。
キビキビと返答する人が世間や社会では重宝される。
スピード感やリズムというのだろうか。気持ちの良い「間」を持つ人は信頼される。

間の力を如実に感じるのは、お笑い芸人さんがお話をしている時。
「人志松本のすべらない話」なんかは私も大好きだし、amazon独占配信の「ドキュメンタル」は特に気に入っていて何度も見返してしまう。


ラジオ番組やyoutubeなんかでもその軽快なトークに潜む「間」を堪能できる。「オズワルドのおずWORLD」や、すゑひろがりずの「すゑひろがりず局番」なんかは一時期ドハマリしていた。


そうして人の観察を続けると、実は話す内容よりも「間」の取り方次第で笑いにつながることもあると気づく。

いってしまえば、別に笑いどころなんかない会話であっても、「間」が奇妙だとフフッと笑えてしまうことだってある。
逆に「間」をつめることで瞬間的に笑いが発生することもある。時間をあけて鮮度が失われてしまうトピックと、逆に熟成させたほうがいいトピックがあるのだ。

え、話すってめっちゃ複雑じゃん!

当時頑張って話すトレーニングを積んでいた自分は、ますます話すことが億劫になっていった。きっと、「言語外コミュニケーション」をたくさんキャッチできるアンテナを装着しないといけないと思った。

でも、私の感覚器にはあたらしい「アンテナ」を装着できるスロットはもう残っていない。
ついつい感情的だったり感傷的になってしまう私の特性は、人からすれば「話せば話すほど分からなく」なっていくらしい。

10年来の友人からは「お前が何を考えてるのか、いまだに分からない」とか言われる。
でも、だから面白いんだけどね、とも言ってもらえる。
どうやら「話しても分からない」が「気に入ってくれてはいる」らしい。

「そういう友人がいるの素敵じゃない!じゃあ恐れずにどんどん話したらいいんじゃない?」って思うかもしれない。でもこの話に再現性はない。

学生時代、同じ教室で過ごすという、ある意味「一緒にいることを強制された」環境から始まった友人関係だから、大人になってあらゆる選択肢が増えた今とは状況が違いすぎる。
たぶん今の私は敬遠される。
フォアボールで適当に1塁に進まされて、次の打者の送りバント失敗であえなくマウンドを降ろされると思う。

「話して分かろうとしなきゃいけない」って状況にない限り、現代人が懐の深くまで話す機会ってないんじゃないだろうか。

たぶんだけど、自立して動けている人ほど、妥協していくのだと思う。
時間をかけてゆっくりと話すことより、フィーリングと直接の対面で手っ取り早く選別していく。
とても合理的だと思うし、もしもそれを行動に移せている人がいるなら立派で素敵な人だ。

でも、私がその人の向かい側に座ったら、開始10分くらいで席を立たれてしまうだろう。
私の話すことと、私自身の心はどこまでも一致しない。
いや、正確には一致させたら敬遠される。

おそらく「幸せに生きる」には、私は余計な事を考えすぎなのだろう。


「見れば分かる」


話す内容、間、テンポ、トーン、目線、身だしなみ、清潔感、メイク、姿勢、食べ方、マナー、癖、歩き方、視線の贈り方、笑顔、爪先、ネイル、イヤリング、ネックレス、服、ブランド、素材、雰囲気、空気感、センス、肌の色、髪の艶、懐事情、小物、靴の擦り切れ具合、時計、アップルウォッチ、スマホケース、スマホを見る頻度、財布、楽しそうか、つまらなそうか、笑っているか。

対面して話すことは、とても難しい。
情報の濁流に飲まれないようにするので手一杯。
わたわたと状況を見て、結局わたしはモゴモゴと話すことができなくなる。

立派にありのままに生きている人の前でこそ、私はなにも喋れなくなる。
それこそ「生きててすみません」なんて世迷い言が口から飛び出そうになるのを、必死に押し込める。

きっと観察眼に優れた人なら、さっき挙げた要素をひとつひとつ瞬時に選別して、あっという間にカテゴライズするのだろう。

夜のお仕事を経験してる友人に話を聞いたら「見てる見てる。靴と時計のブランドとか頭に叩き込んで、速攻対応できるようにしてる」と言っていた。さすが店舗No.1は違う。

「話せば分かる」は正確じゃない。

「話せるし見れるし読み取れる人が分かっている」だけなのだと思う。

それは努力の賜物かもしれないし、もしくは天性の才能を持っている人なのだろう。
ちなみに、私のいう天性の才能というのはごくごくありふれたものだ。
社会に適合しているだけで、私は軽々しく「天性の才能だね」と言ってしまう。
社会の中で柔軟に生きているだけでも立派な「才能」なのだ。

きっと当人たちにとってはなんでもないようなことだけど、隣人が目の当たりにする芝の青さは、どこまでも輝かしく映っているんだよ。と猫暮は伝えたい。

私にはその「才能」はない。
努力しても考えがこんがらがるだけで、どうにも人間向いてない。
知識をつけても、それを実践できる機構が自分には備わっていない気がする。


やっぱりそこも含めて、人それぞれに得意不得意があるのだと気づく。
ここまで語っといてなんだけど、陳腐でありふれた結論に肩を落としそうになる。

「書けば分かる」

「人が分かる」なんてのは不遜な考えだ。

どれだけ話したってどれだけ調べたって、心根の奥まで見通すことはできない。

私達には「自分」というフィルターが常にかかっていて、どうやったってバイアスに踊らされる。
話しているお相手さんにも「相手」というフィルターがかかっている。
まるっきり曇ガラスを間に挟んで話しているようなもの。

犬飼首相は、「問答無用」と曇ガラス越しに銃で撃たれてしまった。
チャップリンとの面会前だったという。
平和の使者との対談は「話すことなく」終わってしまった。

じゃあ「話すことが無益か」と聞かれれば、そういうわけでもない。

フィルターがあるのならば、そのフィルターに自由に感じてもらえばいい。「書くこと」で、私の文章は色んな人のフィルターを通ってその先に向かう。

よくライター界隈で聞く話に「書かれた文章は、読者のもの」といった文言がある。
想いを込めて書いたとしても、最終的にどう感じるかは読み手に委ねられる。
ある意味で書いた文章は「書き手」からすっかり離れるのだ。

同じように「話したことも、聞き手のもの」なんじゃないだろうか。

話すことで分かる、というより、聞き手が都合よく解釈する。
都合よく解釈させてくれる内容であればあるほど、良いのだと思う。
お互いに都合よく解釈できれば、ソウルメイトの成立である。

そう考えると、無理にフィルターを外すことも、ありのままの自分自身を伝えることも、実はそんなに大事じゃないかなと思う。

いうなれば、話すというのは「自分の処遇を相手に任せる」ことなのだと思う。思いやりの精神や尊重とはまた違う。
委ねる。譲る。あげる。

ありのままの姿をさらして相手が快く受け取ってくれるなら、それで十分に生きていける気がした。

今日も私はありのままに書いてみました。
処遇は、お任せします。


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📒「普通」を考えてみた読書感想文📒



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