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アテンション・エコノミー・プリーズ? 「資本主義」を学ぶ。

こんにちわ。ねこぐらしです。

久しぶりに友人とお酒を飲んできました。

お酒はそこまで好きではないはずですが、良い経験にはお酒がつきものだった記憶が多いこと多いこと。
本日は、そんなアルコールのテンションに任せて書くような記事になります。
アテンション・エコノミー、つまり人々の関心を招くことが重要な価値とされている、まさにSNS大航海時代について勉強していくことにしましょう。

よく「資本主義」という言葉は耳にしますが、私自身、実はその意味がわからず聞き流してきました。
なので、改めてアテンション・エコノミー時代からその意味を再考してみましょう。



アテンション・エコノミー?


さっそくAI君の出番ですね。お願いします!

A.アテンション・エコノミーについてわかりやすく素晴らしい解説をしてください

Q.アテンションエコノミーとは、人々の注意や関心といった「アテンション」そのものが経済的価値を持つようになった経済を指します。
特徴としては以下の点があげられます。

・SNSや検索エンジン、動画サイトなどのプラットフォームがアテンションを集めることで収益を上げている
・ユーザーのアテンションを引き付けるコンテンツが成功のカギとなる
・アテンションは希少な資源となっており、プラットフォーム同士のアテンション獲得競争が激化している


影響としては、プラットフォームがユーザーの関心や欲求に応えるコンテンツやサービスを提供するようになった反面、フェイクニュースや過激な表現のコンテンツも拡散しやすくなるなどの課題もあると言われています。
つまりアテンションエコノミーとは、人々の注目や関心自体が主要な経済資源として機能する経済システムのことを指します。プラットフォーム間のアテンション争奪戦から生じる光と影が特徴です。

はいありがとう~。

ということで、関心や注意が価値をもつ現代の経済の在り方がアテンション・エコノミーです。
かつての地域密着による信頼関係構築がビジネスだった時代と比べて、横への情報発信による集客がものを言う時代に変わった、ということの現れなのでしょう。

注目すべき点として、アテンション・エコノミー時代において軽視されている要素は「誠実さ」であるという点です。

生真面目の真実を述べる広辞苑のような存在よりも、マンガや3D映画のようにポピュラリティに富んだ表現が人の関心をより引きやすい。
結果としてそれがフェイクニュースや感情の乗った文章に大きな価値が見出される社会となっています。いわゆる「お気持ち表明」な概念が、肯定的な意味をもったのです。「お気持ち表明にうんざりしているお気持ち表明」というような入れ子構造すらも生まれていることから、どうあっても人々はこの流れに逆らえないことが読み取れます。

過激な表現の飽和により、中立的かつ普遍的な表現は、アテンション・エコノミー時代の荒波を越えられず沈没してしまう。
例えるなら、料理の素材の味よりも、見た目や盛り付けが評価の基準になってる感じ。まさにSNSでの料理の画像投稿による共有が、アテンション・エコノミーを象徴していますね。”味”という感覚的なものは、相手にされなくなっているような感じがして、私はさみしさを覚えてしまいます。

この経済において肝要ななことは、真実そのもの質より、個々の編集能力である、と私は考えるようになりました。
「編集」というと、動画においての切り抜きとかを想像しますが、その認識をガラッと変える対談が先日公開されたのでご紹介しておきます。

動画内では、松岡正剛さんが「人々は誰もがみな編集をしている」という編集工学の話を展開されていて、大変興味深かったです。
興味あればぜひ!



ドーパミンが今後の幸福度?

少し話は脱線しますが、アテンション・エコノミー下での最大の報酬とはなんでしょう?
おそらく、バズるという現象そのものでしょう。企業がブランド力をもって起こすこともできるかもしれませんが、今や個人活動でも”バズらせる才能”にも一定の評価がされる時代です。記事や発言が脚光を浴びる(バズる)と、関わった人の脳内にドーパミンが過剰に分泌されます。

ドーパミンは報酬快楽とも言い換えられる物質で、身近なものでいうとギャンブルでの成功や、仕事においての成功体験(新規取引の成功)でも大きく分泌されるそうです。
錯覚といえばそれまでかもしれませんが、バズりは特に多幸感にさらされる現象であることは間違いなく、理性で抗うことは難しい。

もしも、AIが世界の幸福度を数値化する社会になったなら、アテンション・エコノミー経済においてはドーパミンの量を参照する世界になるかも。もしかしたらマトリックスのように人間が管につながれてドーパミンを送り続けられる、そんな時代が現実のものになるかもしれませんね。

難しい解釈なのですが、人同士の直接的な触れ合いで分泌される幸福物質がオキシトシン。これは生物としての繁殖機能を大きく手助けし、人間という種の地盤を支えてきました。
対して、ドーパミンはスポーツや競争に大きく関わり、文明社会の発展に大きく貢献してきました。

ですが、現代は文明社会の極度的な発達により、ドーパミンを過剰に分泌させるコンテンツにありふれているがゆえに、ドーパミンに対し耐性がついてしまっている。

だからこそ、オキシトシンの希少性が相対的にあがっていく。不思議な事に、物理的な距離が関係なくなった時代でこそ、そばにいる人への感謝がいちばん大事におもえるような、そんな回帰がブームになるような面白い社会を迎えるかもしれません。

ここらへんのテーマは、スティーブン・スピルバーグ作「レディ・プレイヤー1」などでも語られていますね。彼は元々、どんな時代においても人間通しの繋がり(特に親子)が大事だと、映画を通して訴え続けている人物でもあります。実は最新技術と思いきや、内に込めたテーマはすごーくクラシカルなもの、と私は捉えました。大好きです。




鉄の檻?


鉄の檻、という経済用語を最近学びました。
現代を「多様で自由な社会」「周囲に依存せず自分らしく暮らせる時代」と例える記事は多く見かけます。
ですが実態はまったくの逆です。私達は制約から解き放たれたどころか、体系化されたシステムの一部として、人が組み込まれています。

「お金」がなければ「衣食住」を得ることができない。「労働」しなければ「お金」は得られない。

鉄の檻とは、この資本システムの中でしか生きられなくなった私達の状態そのものを説明した用語になります。
PCやネット環境がなければ、情報が回ってこずに資本の恩恵を十分にえられません。私達は「PC」を使っているのではなく、「PC」を使わざるおえない状況になっている。以前「自立している人間は自由であるわけでなく、依存できる環境が多いだけなんだ」といった気づきについて触れた記事を書きました。資本への依存度が強固なほど、もう資本システムの一部として生きるしかなくなる。
なんとなく息苦しさを感じる人が抱える窮屈さこそ、鉄の檻の正体なのだと。

この概念は今に始まったことではありません。産業革命の時代から「鉄の檻」はできあがってきました。自動車社会なんてのが良い例です。人は「車と道路」に依存しなければ、ビジネスに介入できない土壌が出来上がったのです。昔はもしかしたら「藁の檻」くらいの強度だったかもしれません。しかしいまでは「鉄の檻」を越えて「セラミックの檻」くらいまでは固くなってる気がします。

アテンション・エコノミーの経済を受け入れるということは、注意関心を資本として扱うということ。
具体的にいえば「演出力」や「企画力」、「編集力」といったものが貨幣に変わるような価値を持つ世界になります。その中で例えばベーシックインカムの問題や、古き良き文化や世界遺産などの扱い方はどう変わっていくのか、楽しみでもありますね。

ただ、反面、このあたらしくできた「セラミックの檻」の窮屈さに耐えかねる人々とどう共生していくかが、社会問題の鍵となりそうです。資本経済の成長は、まず止まりません。資本の恩恵を受けずに暮らしていける”選択肢”をどう残すのか。それとも切り捨てるのか。ここらへんについても、いろんな人の話を伺いたいものです。


お話を横に広げたいところなのですが、今日は短めにしようと思います!
以上、ねこぐらしでした。ありがとうございました!

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