”Calling All Dawns”を聴こう、という話

苛烈な先制攻撃が敵の軍勢の出鼻を挫くように、
あるいはその年の最初の葡萄がワインの味を予想させるように、
またスピーチの一言目が会衆の感情を小気味よく掴むように。
文章にとって書き出しの心地よさは、その後の快適さを請け負うもの。

ある日突然、最高の書き出しが見つかったということは、
恐らくはこの楽曲について"書け"ということなのでしょう。

――筆を執るとしましょう。

0. 前提

Christopher Tin (クリストファー・ティン)によるアルバム、
"Calling All Dawns" (コーリング・オール・ドーンズ)。
グラミー賞受賞曲である冒頭の "Baba Yetu" (ババイェツの歌)を筆頭に 12曲が全て異なる言語で歌われ、アルバム自身もグラミー賞を受けている名曲集です。

日本語の俳句、ヘブライ語の聖書、マオリ語のカラキア(口承文芸)など、中間部の2曲を除き、古典や聖典、文芸作品などの抜粋から成ります。
見ていきましょう。


1."Baba Yetu"、あるいはディテールを消し去られた祈り

Baba yetu uliye mbinguni,
Jina lako litukuzwe,
天なる我らの父よ、
汝の名の讃えられんことを。

第1曲 "Baba yetu" 「我らの父」

第1曲 "Baba yetu" 「我らの父」
冒頭の曲がこれ。"Civilization" シリーズのテーマ曲としても有名です。
スワヒリ語で歌われる、どこかプリミティヴで情熱的な歌。

突然ですが、あなたが映画監督で、
「祈るシーン」を言葉を使わずに表現する必要に迫られたら?
ひざまずく、手を合わせる、見上げる、小声でなにか呟く…
「詳細は分からないが何かに祈っているシーン」として、
そういった演技を役者にさせるでしょうか。

ではそれを歌詞のある歌曲で行うとなれば、どうしましょうか。
英語やラテン語の歌詞だと「詳細の分からない祈り」にはならない。
じゃあタミル語やユカギール語で祈りの歌を歌わせる?
それだって「意味」を気にしてしまいますし、調べる人は調べるでしょう。

答えは森に木を隠すように大胆なもので、
世界で最も有名な祈りの聖句をそのまま使う」。
スワヒリ語に訳されたこのテクストは、
その余りの耳慣れなさから
「これ何言ってんの?」と感じた数多のアメリカ人に対して、
「『主の祈り』のスワヒリ語版ですよ」とだけ返すことで
「ああ、じゃあ知ってるわ、”天にまします我らの父よ…”だよね」
と調べものの手を止めさせてしまうのです。

結果として
「よくわからないけどいい音楽だ」
「たぶん"試みに遭わすな"とか"日々の糧を与えよ"とか言ってるはず」
くらいの解像度で楽しめてしまいます。
「言葉の分からない洋楽だからこそ気の散らない作業用BGMにできる」みたいな感覚。

祈りの歌を聴いているのに、何を祈っているか分からない。
何を祈っているか分からないのに、祈っているとは分かる。

誰に向けて?どんな内容を?どんな言い方で?
「祈る」という動作に関わるこれらのディテールをすべて消し去った祈り。
その在りようは、ピクトグラムに近いでしょうか。

この画像には「祈っている」以上のディテールがない。
性別も宗派も内容も対象も分からないようにされている。

このあと2曲目以降にはもっと具体的な祈りもあるのだけれど、
それらとは構成上、一線を画している必要がある。
ある意味本編とは別枠のオープニングテーマであり、
お話を始める前の盛大なファンファーレであり、
それでいて全体のテーマと決して無関係ではない楽曲。

そう。この楽曲全体のテーマは「祈り」。
あらゆる言葉のうち、もっとも強いもの。

2. "Part I : Day" 前半 - 夜を想わないということ


第一部は日本語から始まります。いえ、形式上は上掲の"Baba Yetu"も第一部に含まれることにはなっているんですが、あれは壮大な(そして巧妙な)ファンファーレであり、ガツンとした一発、音の形をしたロゴマーク、あるいは「東映」とか「20世紀フォックス」とか映ってる部分だと思うのです。
ゆえに、物語としての第一部は恐らくここからです。

「昼 (day) 」と題される第一部。
このアルバム全体は三部構成で、それぞれ「昼-夜-暁」。
人の人生になぞらえてあるので「生-死-その後の生」というところです。
この部分は「生」の楽曲――それも、「死」をまだ想わない頃の。

最初の2曲は日本語と中国語。前者は俳句、後者は老子の『道徳経』。
どちらにも共通するのは「自然界への不干渉」。
嚙み砕いていえば「あるがまま、手出しをしない」ことですね。


梅一輪一輪うめいちりんいちりんほどのあたたかさ

第2曲 "Mado Kara Mieru" 「窓から見える」

第2曲 "Mado Kara Mieru" 「窓から見える」
前者、日本語のを見てみましょう。複数の俳人による6つの句、ほとんどが
「自然がこのように美しい」と描写するところで終わっています。
元の俳句にない「窓から見える」というフレーズも、ひどく英訳し難い受動的な表現です。能動的に「窓から見る」ではないんですよ。

寺の梵鐘の声が、梅の花が、また雪の降り積もる情景がただそこにある。
あるいはそれに対置されて病床の自分の姿がある。
花を摘んで何かするという話でもないし、雪の中を歩こうとか、急いで雪かきをしようとか、お寺の鐘の音で深く仏道に帰依しようとかでもない。
ただそこにあるな、いいな、というところまでの歌。


反者道之動,弱者道之用。天下万物生于有,生于無。

第3曲 "Dao Zai Fan Ye" 「道在反也」

第3曲 "Dao Zai Fan Ye" 「道在反也(道とは反なり)」
そして後者は、同様のことをさらに思想的に洗練させた内容です。
「自然はそのままで、充分に良いものだ」という内容を、先の日本語の歌では素朴な感情として歌い上げて完結させ、こちらは――老子の生きた時代の要請もあって――「無為自然」という思想に練り上げたもの。

この二つの美しい小品はどちらも、来たるべき恐ろしい死のことを具体的に想うことなく、ただ無垢に目の前の"良いもの"を讃えているだけ。
だからこれらの歌は祈りではない。
祈る必然性がなく、懇願する切迫性もない。
満ち足りたときには「満ち足りた」と宣言するだけで良いのですから。

3. ”Part I : Day” 後半 - 抵抗か、諦念か。


続く二つの「昼」の歌は、全曲中ここだけ「存命中の詩人による作品」という点で際立っています。ここまでも、このあとも、口承文芸や古典文学に題材を得て進むアルバムの中で異色の存在と言えるでしょう。
それは「夜」に対する――いや、包み隠さずにいきましょう、「死」に対する――態度が、時代ごとにあまりに異なるから。

千年前の人間が死に瀕する状況を私たちは共有しがたい。
結核は治る。ガンもステージ次第で治る。戦争は遠く、奴隷制は歴史です。
ケアは手厚く、残虐な死なんてものは物語の世界の物になって久しい。
そんな世界にいる私や貴方には、古代の「死」の質感は迫ってこない。

だからこその、現代詩です。

Vou soltar meu gado / Vou deitar no pasto
Vou roubar a cena / Vou sorrir sem pena
家畜を解き放ち、草の上に寝転がり
佳景を盗みとっては、憂いなく笑おう

第4曲 "Se É Pra Vir Que Venha" 「来るなら、来なさい」

第4曲 "Se É Pra Vir Que Venha" 「来るなら、来なさい」
ブラジルの詩人パトリシア・マガリャンイスによる詩。ポルトガル語です。
死への晴れやかな諦念、穏やかに笑って覚悟を決めた姿。
「来るなら、来ればいい」( Se é pra vir, que venha. )
遠くから灯火のように立ち上がる打楽器隊の演奏サンバ・バトゥカーダに導かれて繰り返されるこのフレーズもまた、やがて訪れる夜に対する尊ぶべきひとつの答えに他ならないのです。


Faut pas nous soumettre
Faut pas disparaître
我々は屈してはならない
消え去ってはならない

第5曲 "Rassemblons-Nous" 「集まろう」

第5曲 "Rassemblons-Nous" 「集まろう」
もう一方、こちらはフランス語による現代詩です。
Rassemblons-nous… 「集まろう」という歌い出しから始まるこちらの楽曲について言えることはといえば、一度聴けばはっきりとわかる異質さ、これに尽きます。
冒頭から突然のリバースシンバル。ゴリゴリの電子楽器です。
歌詞にも「空港」「監獄」「スクリーンの前の千人の顔」といかにも現代なワードが現れ、音楽的にも「執拗さ」が目立ってきます。

訳詞を作成していて強く感じたんですが、
とにかくこの詩、一行が異常に短いんです。
黙字の多いフランス語だから字面はそれなりの長さにはなるにせよ、

Mon sort, mon sang
M'emmène
Au fond
Des ténèbres
Malgré ma peur
D'y renoncer
J'avance
Pour me soulever

こんなに右側がスカスカになることある?というくらい、
短いワードで、
打ち付けるように、
執拗に、
繰り返し、
一行2-3音ぐらいで…。

この"執拗さ"がある種この歌の特色とも言えるでしょう。
作曲者は「この詩は1789年のフランス革命と、2005年のパリの貧困層マイノリティによる暴動の両方に着想を得たものだ」としており、内容は徹底して反逆、抵抗、革命という感じ。実にフランスフランスしていますね。
無論、帝政や共和国政府に反逆しているのではなく、ここまで散々――それこそ執拗に――取り上げてきた「夜」ないしは「死」に対してのものです。

恐らくここで取り上げられる死は穏やかな老衰死などではなく、
理不尽で、
暴虐で、
忌むべき、
そして抗うべき死でしょう。
それらに泣き寝入りせず、声を一つにして抵抗の刃を突き立てていく――そういった種類の覚悟もまた、先に挙げた諦念と同じ程度に尊ぶべき選択には違いないのでしょうから。

まだ人は祈りません。
死を前にしても生きている人は自分で行動できる。
祈るよりも先に突き立てるべき憤怒があり、
祈るよりも他に謳歌すべき人生があるのですから。

4. "Part II : Night" - 長い、長い夜

(ここからは動画が数曲まとめてになります。3曲続けてどうぞ)

次のパート、「夜」にあたる部分は3曲です。
それぞれラテン語、アイルランド・ゲール語、ポーランド語。
いずれの曲もテンポ遅めで演奏時間長め。死は重く遅いのです。
ただ、ここで歌われるのは「死に対するリアクション一覧」です。
「どうか安らかに」「お願い生き返って」そして「神よ救いを」。
死の悲しみは等しくとも、起こすアクションは様々ですね。


Lux aeterna luceat eis, Domine.
Requiem aeternam dona eis, Domine.
絶えざる光が彼らを照らさんことを、主よ
彼らに永遠の憩いをもたらし給え、主よ

第6曲 "Lux Eterna" 「絶えざる光が」

第6曲 "Lux Eterna" 「絶えざる光が」
ラテン語による「死者のためのミサ」、いわゆる「レクイエム」ですね。
当然といえば当然なんですが死んだ人自身は何も歌えないので、この先の歌は「残された人」の視点になります。
ここにあるのは最も冷静で理性的な仕草かもしれません。何しろ葬儀で皆で唱えるものですから。死を受容し、せめて死後を安らかにしてくれるよう神に祈る。

そう、祈る――自分以外の人間の死というあまりにも「ままならない」ことに対し、人は実践的な行動の術を持ちません。
努力で解決できず、財力も武力も死の前にはただ虚しく――

無垢に自然を慈しみ(#1, 2)、
いざ死を迎えるにあたって本人なりの覚悟を決め(#3, 4)、
そうして物言わぬ屍となっていった愛する誰かを送り出すとき、
「どうかその旅路に平安あれ」と願うことは、ごく自然な感情でしょう。



Mo chara thú is mo chuid! A mharcaigh an chlaímh ghil, éirigh suas anois,
我が愛する半身、輝く剣の騎士よ、どうか今、起き上がって。

第7曲 "Caoineadh" 「慟哭」

第7曲 "Caoineadh" 「慟哭」
そしてごく自然な感情その2です。
そりゃ嘆きますよ。死んだんですよ?
親しい人――この歌に関しては最愛の夫――を喪ったとき、
粛々とミサ固有文を唱えられる人間ばかりでは勿論ありません。
「永遠の憩いが――云々」じゃないです、
「あなた!生き返って!おいてかないで!」ですよ。
その意味ではもっと根源的で剥き出しの反応です。

アイルランド伝統の「キーニング」(Keening) あるいはゲール語で「キーニャ」(Caoineadh)と呼ばれる形式の哀歌。
バンシーの伝説ある土地柄もあって、死者を悼む詩歌の伝統があります。
この詩は謀殺された夫を嘆き、妻が「生き返ってよ」と懇願する歌です。
芸術に昇華したこの激レア事例のバックボーンには、有史以前から数限りなく積み上げられてきた哀悼や絶望、慟哭といったものが覗いています。

Już słońce wschodzi ogniste / Ty jedność, światło wieczyste.
燃え盛る太陽はすでに昇る / 汝は一(いつ)にして永遠なる光。

第8曲 "Hymn Do Trójcy Świętej" 「聖三位一体への賛歌」

第8曲 "Hymn Do Trójcy Świętej" 「聖三位一体への賛歌」
「夜」の部の最後を締めくくるのはポーランド語による聖歌。
ローマ教皇を輩出していたほどの、カトリック信仰の盛んな国です。
一人の死はその近親者が悼み悲しみ落涙して乗り越えてゆくものですが、
ポーランドにあったのは個人で悼むにはあまりにも膨大な死です。
ここで歴史の講義を始めるまでもなく、他国による分割支配、地図上から一度は消えた祖国――それらに伴う大量の犠牲は正しく最も暗い「夜」です。

作曲者のクリストファー・ティンはこう述べています。

The Hymn do Trójcy Świętej is an embodiment of that faith; a reminder that, with each dawn, the return of light brings with it an indescribable spiritual salvation that banishes even the darkest night.
「聖三位一体への讃歌」は信仰の表明に他ならない。それは思い出させてくれるのだ――あらゆる夜明けドーンは、ただ光だけではなく限りない精神的な救済を伴って現れ、最も深い闇をも打ち払ってくれることを。

作曲者によるコメンタリー

夜の終り、まとわりつくような死別の悲しみから抜け出すことを示唆して、
第二部「夜」の終曲は、美しい悲嘆から美しい安堵へと静かに終わります。
それはちょうど、喪が明けて日々の生活に戻るように。
喪失感の残り香に、かすかに後ろ髪を引かれるように。


5. "Part III : Dawn" - どうせ、生きる必要がある

そしてラストの第三部にやってきました。
再び明るくなるんですが、「昼」ではなく「暁」です。

אַל תְתְאַבְּלוּ וְאַל תִּבְכּוּ
嘆いてはならない 涙してはならない

第9曲 "Hayom Kadosh" 「今日は聖なる日」

第9曲 "Hayom Kadosh" 「今日は聖なる日」
何語の歌でしょうか、今度は。
そっと立ち上ってくる声は単に "oo" とか "ah" とか聞こえます。
闇から現れる灯火のように、幼子の耳に入れる子守歌のように。
驚かせないように優しく、といった導入――からの、
20秒も経たずに鳴り始めるパーカッション。滑り込むようなヘブライ語。
暗いままでは居させない。そういう局面に、明示的に突き進みます。

前段までの悲しみを振り切るような盛り上がりですが、言葉も前向き。
内容も「ネヘミヤ書」から、エルサレムの復興を終えたときの
「今日は主のための聖なる日であるから、嘆いてはならない」。

そう、ここからは「夜明け」、死の悲しみから帰ってくるパートです。
始めはとにかく「悲しむな」「嘆くな」。
シンプルで、捻りがなくて真っ直ぐ、曲も一番短いし言葉も平易。
きっと悲しみの泥濘から立ち上がるには、こういう一声が必要なんです。
嘆いてはならない、涙してはならない。

歩みを止めずに次の曲へ入ります。
第10曲 "Hamsáfár" 「旅の仲間」
荒野を旅するシーンが否応無しに脳裏に再生される曲調。ペルシア語です。

می خور که منادی سحرگه خیزان  آوازه ی اشربوا در ایام افکند
いざ飲め、暁の使者はすでに昇り来て 「飲め」の声を日々に投げかける

第10曲 "Hamsáfár" 「旅の仲間」

女声ソリストの「ハムサファール!(旅の仲間よ!)」、全力で歌ったら相当気持ちいいでしょうねこれ…。
11世紀ペルシアの詩人にして学者、オマル・ハイヤームのルバイヤート(四行詩)からの一節です。
この作品全体に漂う「現世は儚く、束の間の幻想にすぎない」のスタンス。
思索と学究の果てに彼がこの境地にたどり着き、
「この世は儚い、飲もう、楽しもう!」に至ったとすれば。それもまた、
人が「夜」に対して見せる幾つもの答えの一つに他なりません。

ここまでの歌と違うのは、
訪れた単発の「夜」に対して嘆いたり祈ったりしていた今までに対して、
今後ともたびたび出会う予定の「夜」と生涯付き合っていく歌なんです。

誰それが死んだ!みんな死んだ!悲しむ!嘆く!祈る!ではなく、
今後も大切な人を喪うときが来る。どうやって折り合いをつけていこう?

こういうある種前向きな歌です。対症療法ではなく今後の予防の話です。
最初の歌では大いなる存在に「嘆くな」と力強く声をかけてもらい、
その次の歌では他ならぬ人間自身からの「楽しもう!」を導き出し、
(ハイヤームは詩の中でイスラム含め各種神々をゴリゴリに疑っています)

――さて、次の曲はどんな手法で「夜」と向き合うのでしょうか。


नैते सृती पार्थ जानन्योगी मुह्यति कश्चन।
तस्मात्सर्वेषु कालेषु योगयुक्तो भवार्जुन।
アルジュナよ、この二つの道を知れば どんなヨーガ行者も欺かれはせぬ
故にいかなる時もヨーガにその身捧げよ、アルジュナよ

第11曲 "Sukla-Krsne" 「光と闇」

ラストから2つ目。最初と同じでラストもちょっと別枠なので、
いわゆる「実質ラスト」みたいな感じでしょうか。聴いてるときは圧倒されてそんな構造を考えることすらできませんでしたが。

サンスクリットで歌われるこちらは「バガヴァッド・ギーター」の一節。
神が主人公アルジュナに向けて、生と死について語り教えるシーンです。

とうとうここに至って人は「学ぶ」まで来ました。
死がどんなものか、夜はどう訪れるか、その時どうすべきか。
未知なるものこそ恐怖であるとはよく言いますが、この行いでついに
「死を理解して少しでも苦しみを軽くしようとする」
なんてことをしてのけるんです。

ここまでで三種。
「シンプルに他者の声掛けで顔を上げ歩き出す」
「自ら、現世の楽しみを享受しにいく」
「いずれ来る死について学び考え対策する」


これらに優劣の差はありません(好みでいえば私は三つ目かな)。
死に対して嘆くのも祈るのもすべて等しく選択肢たり得たように、
この三つのどの手段をどのくらい用いてあなたのゆく道を仕立てるかは、
正解もなければ不正解もない、それぞれの選択した誇るべき旅路です。

だからこそ、再び歩き出すその旅路には――


”平穏の広まらんことを (Kia hora te marino)”


Kia hora te marino,
Kia whakapapa pounamu te moana,
Kia tere te rohirohi
平穏の広まらんことを
海の、緑石の如く滑らかならんことを
煌めく光が導かんことを

第12曲 "Kia Hora Te Marino" 「平穏の広まらんことを」


旅路には、餞(はなむけ)が必要です。それも餞の言葉が。
旅路が穏やかで、危険がなく、
無事に戻ってくるようにという言葉です。

それはある種、もっとも原初的な祈り。
たとえ神も聖典もなかったとしても、
人がどこかへ歩み続ける限り、必ず生まれる種類の祈り。
誰だって、旅ゆく友が野垂れ死にすることは嫌に決まっています。
旅ゆく異国の天気や情勢を、意のままに変える力はありません。
だからこそ祈りの形を取るのです。

マオリ語で歌われ、また一部唱えられるのは最終曲、"Kia hora te marino"。
カラキア(Karakia)と呼ばれる口承文芸で、何か物事をなす前の祈りとかまじないと呼ばれるようなものです。決して神に願うのではなく、むしろ皆で口に昇らせて意志を一つにするような性質のもののようです。
「エイエイオー」ってみんなで言うようなことの延長上にありそうですね。

冒頭のメロディは第1曲のイントロと同じ音の動き。
間奏は「旅の仲間」の歌い出しと一緒。
英語でSong Cycleと題されているように、「循環する」ことへのこだわりが見えますね。

でもなんといっても無限の爽やかさ、これに尽きます。
美しい空、穏やかな海、そして平穏を願う祈りの句。
差し挟まれるハカ、
朗々としたカラキア、
最後にみんなで声を合わせて ”Tāiki ē!” (やるぞ!)

そこからはもう大団円のフォルティッシモが畳みかけてきます!
tutti(斉唱)で漕ぎ出す「平穏が~」のフレーズは耳に馴染み、
どんな旅路を選び取った貴方にも等しく、
その歩む先の平穏を祈ってくれる。
祈りからまた新たな祈りへと、
無垢から覚悟へ、
昼から夜へ、
また暁へ。

この地上に、かくあれかしという祈りほど強い言葉はない。


7. (ゆえに、以下のくだりは蛇足である――)


いかに覚悟を決めようとも、
いかに死生観を学び築き得ようとも、
それはあなたの子らには遺伝しない。

子らはまた同じように死に怯え、取り乱し、
また近親者の死に絶望し、惨劇に心を痛めるだろう。
そしてあなたが学んだ死生観を一から追い直すかもしれない。

人は、同じ苦しみを何世紀も何世紀も続けている。
科学技術は積みあがる。我々は熱力学を一から考えなくていいし、
12世紀の先端技術は小学生が理科の授業でカジュアルに学ぶ。
一方で死にまつわる人の営為は極めて詰みあがりにくい
科学と同じように死への不安がビルドアップできるなら、
10世紀ぐらいで葬儀も埋葬も不要になっているだろうから。

でも、だから、強い

だからこそ、この営為は廃れない。
2世紀の人間が使っていた観測機器は今や使えないかもしれないが、
彼らの使っていた死への対処法は今だって全人類にきっと必要だ。
巨人の肩でショートカットできない以上、我々にはきっとこれが要る。

冒頭をはじめ、折々に述べたように「祈りは強い」。
だがより正確を期するならば――「祈りは滅びない」。

全人類が四千年使えてまだまだ現役な道具なんて、貴重でしょう?


8. いくつかの付記事項


様々な動画があるんですが、こちらのカラキアはとても元気が出る。
ソリストのBarbara Nicholls女史があまりにも良い。
これだけは記事全体の情緒と天秤にかけても提示しておきたかったので。

あとは手前味噌ですけど、詳細な逐語訳を付記した資料をあげておきます。
世界各国の国歌について同じこと(全訳&逐語訳)をしたWikiの下位コンテンツという扱いですのでそちらもお好きな方はどうぞ。
Calling All Dawnsは完成してますが国歌は7割程度の完成率です。

世界の国歌・逐語訳Wiki
https://anthem.wicurio.com/index.php?Christopher%20Tin%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E7%BE%A4%2FCalling%20All%20Dawns



――書き上げた。喝采を。
Plaudite. scripta est. 


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