レミオロメン『流星』歌詞考察#4 「流星」と「シャトル」とは何なのか?
相違点と共通点
今回は「流星」と「シャトル」そして「もう二度と逢えないもの」が何を指しているのかについて考えたい。
1番歌詞では流星、2番歌詞ではシャトルの記憶が、それぞれ別で語られている。しかし大サビの直前に位置するCメロでは、両者に触れている歌詞が見られる。
Cメロ歌詞を聴いたとき、『流星』の歌詞中に流星とシャトルを配置したのは偶然や思いつきなどではなく、はじめから意図された対比であることに気がつく。
少年の日の思い出を端的に振り返ったような歌詞である。
ここで強調されたのは、流星とシャトルに対する「世間からの注目度」のちがいである。
流星の特性
流星は、まだ明るい「昼下がりの町」で、乱立するビル群の隙間を縫うように瞬く間に消えた。
母親が息子に尋ねられたときに「飛行機よ」と返したのは、少年のすぐそばにいた母親ですら見つけられなかったほどに、世間から注目されなかったのである。
シャトルの特性
一方、シャトルは何の障害物もない「快晴に」打ち上げられ「皆釘付けになっていた」。
TVで放送されたため、おそらく世界中の人々が注目しただろうし、映像として記録に残るため、流星のように簡単に消えることはない。
また、スペースシャトルは機体の一部を再使用して繰り返し飛行したため、刹那的な流星に対して、恒久的な活動をつづけるイメージがある。
流星とシャトルの共通点
隣にいた母親にすら気づかれなかった刹那的な流星と、皆から注目され映像にもなった恒久的なシャトル。
大きな相違点だが、共通点も見られる。
その一つは「説明がほしかった」り「いつまでも見たかった」りというように、少年時代の息子が、世間的な注目度の差にかかわらず純粋な興味を抱いたこと。
そして、もう一つは息子が「大人になり」つつある2006年現在、「記憶は色褪せて」流星・シャトルに惹かれた動機を「忘れてしまった」ことである。
もう二度と逢えないものとは?
次に「もう二度と逢えないもの」について考えたい。
下のフレーズはサビ歌詞のすべてに共通するフレーズである。
ヒントは少ない。
しかし「ものに溢れてTシャツで走った」というフレーズからして、「もう二度と逢えないもの」は、形をもっている物質的な「モノ」ではないことは確かである。
物質的な「モノ」に溢れているならば「Tシャツで走る」ことはできないだろう。
つまり「もう二度と逢えないもの」は気持ちや感情など、抽象的・理念的な「もの」であると考えられる。
ここで次のヒントとして「もう二度と逢えない」というフレーズが生きてくる。
『流星』の歌詞中には「もう二度と逢えない」の類義として考えられるフレーズがある。
それは「忘れてしまった」という「忘却」をあらわす歌詞である。
当たり前だが「忘れてしまった」ものには「もう二度と逢えない」。
名作と呼ばれる数々の映画やアニメで描かれる、登場人物たちの「忘却」が鑑賞する者の胸を締め付けるのは「もう二度と逢えない」からである。
では、具体的に少年は何を「忘れてしまった」のだろうか。
それは「説明がほしかった」「いつまでも見たかった」という、少年時代に彼が抱いた、湧きあがる好奇心である。
世間的な注目度の高い、低いにかかわらず、自分が面白いと思ったものを知りたがる無邪気な興味である。
#4まとめ
次回以降の考察において、重要な点を説明して終わりにしたい。
それは、息子が「少年時代の湧きあがる好奇心」に溢れて「Tシャツで走」るのをやめたタイミングである。
息子が「そっと大人になる」2006年現在では、すでに足は止まっており「かいた汗もいつか乾いてしまう」らしい。
しかし、汗が乾ききっておらず、これから乾くであろう描写がなされていることから、息子が「少年時代の湧きあがる好奇心」を「忘れてしま」い、「Tシャツで走」らなくなったのは、つい最近のことなのである。
次回は「永遠が蹴飛ばした星」の「永遠」とは何かについて考えていきたい。
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