【随筆】主義と性自認と違和感

 ごきげんいかがでしょう。菅野紺色です。今回はややこしい話をします。自分でもややこしくてちょっと文章として成り立っているか不安ですが、またセクシャルマイノリティについての話題です。

 まず疑問からいきます。たまにいらっしゃる、肉体性が性自認と異なり、性愛対象が肉体上は同性という方々が「性差をなくそう」と唱えて活動をなさっていることが、私にはちょっとわかりません。そういった方々の場合は、ストレートの人間よりも性別につよいこだわりがあるのではないでしょうか。なぜなら、例えば、男になりたい、女になりたい、肉体性は女だけど女を愛でる、といった性別に比重を置いた性愛、嗜好があるからです。性差がなくなったらそういった方々はどういう嗜好を持ち始めるのでしょうか。興味深いところです。

 時に、私は以前の記事にて、少なくとも肉体性の区別は医療上必要なものであると書きました。そしてここで更に言及しますと、あくまで個人的な意見なのですが、ひとには帰属する何か、居場所に近いようなものが必要だと思っています。
 性別は帰属意識だと私は思っているのです。

 また、話は飛びますが、セミリンガルという言葉をご存知でしょうか。ダブルリミテッドとも言われます。端的に説明すると、母語が存在しない人たちのことです。2ヶ国語以上を日常会話程度に利用できるものの、深い思想をすることや、完全に使いこなすことが困難な方々のことを指します。
 母語というのは大事な帰属であり、アイデンティティであり、文化です。どちらにも帰属できない、そういったセミリンガルである方々の抱える問題が、昨今少しずつ浮上し可視化されてきています。


 閑話休題。セクシャルマイノリティに対する配慮が進むことは私も喜ばしいことだとは思っています。しかし、行き過ぎた配慮というのは、マジョリティを侵しかねません。マジョリティも大事な人であることを忘れてはならないのです。

 カナダで性別のない赤ちゃんが生まれた事例があります。親御さん自身がノンバイナリー、つまり性自認のないトランスジェンダーであることで苦しんだことから、そういった主張や措置が認められたとのことです。私はこの件について、「それは違うのではないか」という感想を抱きました。理由としては、先に書いたセミリンガルのことに重なって思えるからです。もし、その赤ちゃんの性器が女性だとして、後に女性だと自認するストレートとして育っても、幼いころに分別される帰属できる場所がなかったという意識は強く残るのではないかという懸念です。

 肉体性と性自認が異ならないストレートの方々に性自認について改めて考えさせるというのは一種の苦痛にもなり得るのではないでしょうか。特に、教育として生を受けてまだ日の浅い幼児や小児に対して、時として早熟な子もいますが、理解を促すには複雑すぎるしメンタルを揺るがすことにつながってしまうのでは、と私は思います。

 性自認や性愛対象というのは、はっきり言って大人になっても曖昧なものなのです。なかには確固たる意志がある人も勿論存在はしますが、必ずしも全ての人がそういった意識を持っているわけではありません。揺らぎもあるのです。

 ここでまた以前も似たような記事を書きましたが、差別意識をなくそう、多様性を認める社会を目指そう、といったような、聞こえのいいことだけの危機意識の低い自由主義が私は苦手です。それに近いものを、私が矛盾に思う、「性差をなくそう」と唱える肉体性と性自認が異なる人々に感じてしまいます。
  結局、どんなことが、どんな社会が、どんな思想が、一番平和に近づけるのでしょうね。確固たる主義を持てる人が少しだけ羨ましいですが、支持する主義の弱点を認知できない人にはなりたくないものです。

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