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震災10.5周年

震災から10周年。初めて津波に襲われた土地に行ってきた。宮城県は松島、そして石巻。新型コロナウィルスによる観光業の大打撃を受けている松島だが、ここ数ヶ月は週末となると全国から観光客が押し寄せるようになってきたと地元の観光業に携わる人は話す。

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松島・石巻は、今まで日本国内で訪れたどの場所よりも異質だった。その理由の一つは、町を歩いているとあらゆるところに現れる、津波到達をあらわすこれらのサイン。津波に襲われたらしい寿司屋にも、民家にも、商店にもこのサインがあった。

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津波で約3300人が亡くなったとされる石巻。ここでは出会う人出会う人がすべてあの大震災に「つながり」を持っていた。「経営していた旅館の一階が浸水したの。」「育った町が流された。」「両親が津波で死んだの。」

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しかし、震災は終わりをもたらしただけではない。町にはぴかぴかの建物がいくつもたち、新しくカフェや本屋も作られ、被災した建物が生まれ変わった。「震災後に始めたボランティアがきっかけで、この町に移り住んだの」という若い方もいた。

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震災後に生まれた、大規模な芸術祭もある。リボーンアートフェスティバルは、公式によると44万人の動員数の実績を誇る。気鋭な作家による著名な作品も多いが、今年は一部作品が撤去されるという事態も起きた。

義肢を使用したアーティストのポートレート作品に、「津波で打ち上げられた遺体を連想させる」という苦情が押し寄せたためだ。
「やっぱり、その先を想像しなきゃダメだよね」と、石巻でバーを経営するクミコさんは苦く笑っていた。

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同じく石川市内にある大川小学校もおとずれた。全小学校児童の7割にあたる74人が犠牲となった場所。コロナ前までは、全国からよく教員が訪れていたのだと、タクシーの運転手が話していた。

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訪れたその日はたまたま団体向けに、当時5年生だった生存者の方が話をされていた。低学年の子でも明らかに登ることができるような裏山が、校庭のすぐ近くにあった。しかし避難先として選ばれたのは、津波であふれた北上川の堤防近くの道路だった。

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「前方で土煙を上げる建物を見た時、本能的にこれはまずいと思った僕は、死に物狂いで来た道を引き返し、山の斜面を無我夢中で登りました」と彼は話した。手で掴みながら登ったその距離は5メートルほど。間もなく津波に襲われた。気絶した。目を覚ますと辺りは雪がしんしんと降っていて、履いていた靴と靴下は津波に剥がされていた。

「波に襲われた時、大勢の人に背中を押されたようだったんです」と彼は言った。それを受けてもう一人の語り部の方が、「そのとおりだとおもうんですよ」と力を込めて言う。「大勢の人に背中を押されてね、彼は生かされたんだと思います。お前は生き延びろと。生きて役割を果たせってね」。

それでは、彼の役割とは何なのか。「津波が来たから死んだんじゃない。逃げられなかったから死んだんだ」と語り部の方は言っていた。四年近くに渡った訴訟では、学校側の防災体制の不備が最終的に認定された。それでも児童たちの命は戻らない。訴訟によってうまれた分断さえあった。

人災だったと言っても過言ではないだろう。自然災害、特にこういった事例は、先人たちや生存者たちが語り継がれることにより防げるものも確かに多分にあるだろう。大川小学校の生存者である、語り部である彼も、きっとそのことを充分に分かっているのだと思う。

では、語り続けることが彼の役割なのか。震災直後から取材を受け続けてきた彼は、2年ほど前からメディア出演を控え始めたと話していた。理由は聞けなかった。あの大震災から学ぶことはたくさんある。でもそれを生存者たちに課すのは、自分と社会の両方から十字架を背負わされることにはならないのか。一人だけで抱えていく十字架は、運べる距離に限界がある。現地に、震災とは無関係のより多くの人が足を運び、自分の目で見て耳で聞いたことを、個々人がもっと広めていくべきだと思う。

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