百人一首についての思い その55

 第五十四番歌
「忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな」 
 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
「おまえのことをずっと忘れないよ」とおっしゃってくださいますが、先のことまでは分かりません。そうであるならば、いっそのこと幸せな今日を限りの命であって欲しい。

 You promise you’ll never forget,
 but to the end of time
 is too long to ask,
 So let me die today―
 still loved by you.

 なんとも素直に純粋でまっすぐな愛を詠んだものだ。この歌は後に中関白になる藤原道隆に捧げたものだ。儀同三司母の名前は、高階貴子(きし)という。貴子の父親の藤原成忠は、最初の内は二人の関係には反対だったが、ある日道隆の後ろ姿を見て、「やつは必ず大臣に出世する男だ」と直感した。そして、娘と道隆の交際を許した。

 そして、道隆は「今夜のことは、私は生涯忘れないよ」といった。貴子はこのように応えた。「父が言ってました。道隆様は必ずご出世なさるって。そしたら私のことなどきっとお忘れになってしまわれます。それならいっそのこと、私の命など今日を限りであったらいいのに」

 ところで、「儀同三司」と藤原伊周の雅号だそうだ。「儀同三司」とは本来支那の役職名である。皇帝の外戚、高級官僚に三公(大尉・司徒・司空)に準じた待遇を与えて、「儀、三司に同じくす」としたことに由来している。藤原道長は、この藤原伊周の叔父である。時の大権力者の叔父とはよく喧嘩したそうだ。そして、息子の道雅に「出世せよ。人に追従して生きるな」と遺言した。

 藤原伊周の妹である中宮定子は、七条天皇の子を身ごもったが、出産の時になくなった。妹の死を悲しんで次のような歌を詠んだ。
「誰もみな消えのこるべき身ならねどゆき隠れぬる君ぞ悲しき」
 だれもみんな最後には死ぬ。そんなことは分かっているけれど、先に行き隠れしてしまった君のことを思うと悲しくてたまらない。

 血のつながった妹のことをこんなに悲しむことができるということは、きっと人間味あふれる優しい人だったのだろう。母の血を引いて純粋で真っ直ぐな人間だったがゆえに、政治の世界の泥沼に引きずり込まれたのだろう。

 さて、儀同三司は準大臣という地位に就くが、わずか37歳で他界する。その息子の道雅は暴力事件を次々と起こして、最後には出家して死ぬ。道雅の所業がどのようなものであったかはここでは触れないことする。およそ貴族らしからぬ、誠に怪しからぬ所業が多すぎる。詳しくは第六十三番歌のところで触れる。
 さて、純粋で美しい歌を詠んだ母親とその子供たちの悲しい人生を母の歌に託して描き出そうとした藤原定家の企みは、見事に実った。

美人だったがあまり夫に愛されなかった少将道綱の母と、夫への素直な愛を真っ直ぐに詠んだ儀同三司の母と、続けて二人の母親の姿を浮き彫りにしたのは、藤原定家の手腕の賜物である。
道綱の母と儀同三司の母と、どちらが幸せだったのだろうかなどと、ゲスの勘ぐりをしても意味がない。それぞれは、それぞれに幸せだったのだろうとしか言いようがない。
さて、次世代を育てる責任は、もちろん母親だけのものではない。父親には父親の責任がある。父親は息子が将来自立して生きられるように厳しく接し、母親は父親に厳しくされている子供を甘えさせれば良い。一番いけないのは、両親がそろって同時に子供を叱ることだ。子供は立つ瀬がない。だから、父親が叱り、母親が慰めるというのが子供には一番良いだろう思う。もちろん、異論はあるだろうが。
ともかく、鎌倉時代に生きていた藤原定家という歌人が編纂した百人一首を読むことで、このような気持ちが湧いてくるのも、不思議な気がするし、日本人として生まれたことにいくら感謝しても足りないという気がする。


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