吾唯知足

 吾唯知足
 
 竜安寺の「知足のつくばい」と呼ばれるものをご存じだろうか。 
 真ん中には大きな「口」がある。時計の十二時時の処には、「五」の文字がある。そして、三時の方角には「唯」の字から口偏を除いた文字がある。さら、六時の処には「足」の字の足偏だけがある。最後に、九時の処には「知る」というの矢偏だけが書いてある。
  これを良く見ると次のようになる。
  水を溜めておくための中央の四角い穴、つまり口の文字が全部の文字に共通である。だから、十二時の処から、吾、唯、足、知、となり「吾唯知足」と読むことができる。

 吾唯知足には『われ、ただ足るを知る』という意味が込められているのだ。つまり、「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めの意味が込められているのである。
 竜安寺の石庭には大小併せて15個の石が設置されているが、どこから見ても1個は見えず、14個までしか見えないのだそうだ。 
 そうすると、大小15の石の最後のひとつが見えなくても、それで満足しろという意味とか、不満を言わずに「足る」と言うことを知れという意味とも取れる。 
 そして、老子が説いた「小欲知足」という言葉と合わせると、「足る」、「充足する」というのは非常に大切なことである。
 大昔、人間は食料を備蓄することなど知らなかったたから、確保した獲物は全員で分けた。やがて、穀物などの栽培によって、食料備蓄の技術が発達すると、富の偏在が発生した。
 そうなると、今度は力の強い者が他者を薙ぎ倒して食料や土地、女を独り占めにした。他の男達は、それでは食べていけないので、力のある支配者の家来になった。家来は親分から食料、土地、女を分けて貰い、その代償として親分の命令に従うようになった。
 
 現代社会でもこの構図はさほど変わっていない。国際社会を見ても、大きな意味で同じ構図になっている。米国親分、死那親分、ロシア親分のそれぞれの子分達が、子分達同士で闘ったり、米国一家あるいはロシア一家、死那一家として闘ったりしている。ここで言う闘いとは、戦争だけではなく、論争、主張、裁判などすべての次元の争いを指す。 
 国家、民族、宗教、文化、政治体制、思考方法などの違いというものは実にやっかいなものであり、それぞれの利益、信念、主張を争うわけなので、簡単には収まらない。また、ひとつの国内でも保守派と左翼の闘いが在るから、ますます混迷を深める。
 
 しかしながら、私達個人レベルでなら、この「吾唯知足」や「小欲知足」ということを念頭に置いて生きていくことができる。 
 他人の財産や名声、人望、名誉などを羨ましがったり、妬んだり、憎悪したりしても、自分のそれはひとつも増えない。だから、他人と比較しないことが、安心して生きられる第一歩である。この第一歩が全くできないでいると、いつも他人と比較して自分の惨めさを再確認しながら生きることになる。再確認しながら生きることに、どんな意味や意義を見つけられるというのか。全く無意味である。そんなことをする意義などどこにも見つからない。
 

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