元服、或いは芒種
この文章はボツにすることを前提に書くものである。
歳上の人間の説教を聞かされる時ほど益体のない時間はない。
以上。
……………………。
…………と言ってしまって終わらせるのもちと味気なさ過ぎるので、もう少し何か書こうと思う。
『元服』
さて、この記事書こうと考えたのは、去る6月7日に私が懇意にしているとあるVTuberの子が実年齢でめでたく二十歳を迎えたということで、それに寄せるべくして筆を取った次第である。VTuberに実年齢も何も無いかも知れないが、とにかく二十歳とはとてもめでたいことではないだろうか。
というわけで、若輩ながら何か僅かでも有意義なことを書こうと試みるわけであるが、如何せん有意義とは程遠い文章を記すことだけにはそこはかとなく自信のある私であるから、それでは始めからボツ記事としてこの文章をしたためようという浅はかな魂胆の元、この怪文章は書かれている。
始めに断っておくと、これは誰かの反応を期待するものではなく、徹頭徹尾、自己満足で書かれるものである。悪しからず。
二十歳といえば、私の世代まではまさに「成人する」年齢であった。今では法律が改正され、我が国では十八歳から「成人」として、選挙権などが付与されるような運用となっている。然るに、「成人」=大人となる年齢は昔と比べて二年早まり、二十歳はそれとはまた別の契機となった。二十歳から出来るようになることは、「酒」、「煙草」、「ローン契約」、「競馬・競輪等の公共競技への投票」などとなっている。いずれも、子どもにはとても勧められない、己の尻を己で拭けるようになってから自己責任において手を出すべきものばかりで、妥当な制限と言えるだろう。私が成人してから手を出したものは酒とローン契約くらいであるが、経験として興じておくことは止めやしない。煙草はあまりオススメしないけども。
ともあれ、二十歳とはティーンエイジの終わりであり、やはり一区切り感があるというか、やはり本格的に世間で子どもとは思われなくなるという意味で「大人になる」という感じは大きい。
『大人』。
さて、では「大人になる」ということはどういうことだろうか。
大人とは、言うまでも無いが体やらが「大きい人」という意味ではない。
辞典の解説では、考え方や態度が十分に成熟している人、とある。思慮に富んだ人と言い換えることも出来るだろう。
実に実感が湧かない。
思うにこれはただ「いい人」という訳ではない。一方で、冷淡な人間というニュアンスとも思えない。強いて言うなら、余裕のある人、といったところだろうか。しっくり来るような来ないような。
そもそも、「大人になる」とは言うが、それは十八やら二十歳になった瞬間に、その日突然、急に成るものなのだろうか。個人的には、そうは思わない。その証拠に私はこの齢にあっても中学生レベルの精神年齢からまったく成長していないと言える。いつまでも子どものままのようなものだ。人間は放って置けば勝手に歳をとっていく。その変化は不可逆なものであるが、いつまでも同じようなことを考え、同じような場所にいる者には変化というものは訪れない。まあ、それでもなんだかんだで大抵の人間は気づけば、良くも悪くも大人というものになっているものだ。
ところで、私が二十歳になった時のことを少し思い出してみよう。
私の地元でも「成人式」という珍妙な儀式が開催されていたらしい。「らしい」というのは、私はその成人式に欠席したため、このような書き方をしたまでである。どのような思考の経緯があって、欠席することとしたかということについて、当時の感覚は正直あまり鮮明には思い出せない。とはいえ何か生来の逆張りが出たとも言えるし、新成人という浮かれた集団に属するのに忌避感があったとも言える。または単純に興味が無かったのだとも思う。そんな楽しく逆張りをしていた私も、ワケあって同窓会というものには顔を出した。久々に顔を合わせた同級生たちはすっかり成長し、皆それなりに歳をとっていた訳だが、とても大人であるようには見えなかった。やはりまるで子どものように見えた。エチルアルコールを口に含めるようになっただけの浮かれた子どもたちのように思われた。このように、二十歳とは所詮その程度のものなのである。終始つまらなかったとまでは言うつもりは無いが、同窓会には二度と行くまい。
帰宅後、我が母から成人を祝う一通の手紙を賜ったのは余談である。
閑話休題。
大人になるということはどういうことなのだろう。
例えば、それはお酒を飲めるようになることかも知れない。
例えば、税金や年金を納めるようになることかも知れない。
例えば、第二次性徴期を終えて体が大人になることかも知れない。
例えば、自分で自分の人生について決断を下せるようになることかも知れない。
例えば、独り立ちすることかも知れない。
或いは、自分の生き方を自分で定めることかも知れない。
いずれも一理あるとも言えるし、それが全てとも言えないような気がする。このように、「大人になる」というのは実に曖昧な表現だ。いずれにしても、大人とはきっとゆっくりとなっていくものなのだ。
そして、大人になるからと言って、そこまで肩ひじを張る必要もない。大人なんて、大人の顔をしているだけで、実は子どもと同じように悩み、苦しみ、なんとか日々をやり過ごしているに過ぎないのだ。誰も完璧な人などいやしない。日々、悩みとの格闘である。
大人になったところで、それはただの子ども時代の延長に過ぎないのだと誰もが気付くのだ。夢は大抵の場合、夢のままだし、壁は壁のまま立ちはだかるばかりだ。残念ながら何一つ解決の目は見られない。
ゆっくり、一歩ずつ大人という曖昧な、ひどく矛盾した存在になっていくのだ。
さて、ここで、私が二十歳になった時に我が母に贈られた手紙から、この言葉を引用しようと思う。このようなものだ。
「貴方は立派な大人になんてならなくてもいい。ただ自分らしく生きなさい。」
この言葉を指針に、今でも私は生きているつもりだ。
おめでとう。
『芒種』
人間は勝手に大人になる。子どものままのやつは一生子どものままである。そして、必ずしも大人になんぞならずとも人間は生きていけたりする。それに大抵必要に迫られれば人間は自然と成長するものだ。でなくてもただ滅びるだけである。
そういう意味では彼女はもう立派な大人と言えるだろう。十分に自立しているし、自分の道を自分で切り拓いていく覚悟がある。あの若さで、とても立派なことである。然るに、私は彼女をリスペクトして止まないのである。
さて、そういえば6月上旬とは昔から種子や苗を植えるのに適している時期であると言う。初夏の候、これはまた一つのはじまりの季節なのである。
大人になった時点で物語が終わるのではない。
寧ろ、ここからが新たなはじまりなのだ。
どんな有体でも、それを主人公にして否応なく物語は続く。
それを受け入れて、我々はまた明日を選ぶのである。或いは、種を植える。
おめでとう。
余談
此処からも何処からも無く、概ね全てが余談である。いい加減にした方が良い。
さて、以降は私がその短い人生の中で得た役に立つかどうかは分からない教訓を記しておこうと思う。謂わば人生の先立からのアドバイスである。態々言われずとも問題は無いであろうが、そこは老婆心という名の虚栄の名の下に、優しく聞き入れてくれると幸甚である。
・酒をちゃんぽんしてはいけない。
・安酒は悪酔いするうえに不味い。
・酒を連続で飲む時は定期的にチェイサー(水)を飲んだほうが良い。
・カードローンやキャッシングを利用してはいけない。
・リボ払いをしてはいけない。
・あと払いは借金である。
・何があっても他人にカードを貸してはいけない。
・税金を滞納していけない。
・確定申告は早めに対応した方がいい。
・国からの手紙はできるだけ早く確認して対応した方が良い。
・訪問営業は九割九分詐欺である。
・詐欺師はまずこちらの信頼を買ってくる。
・暇だからといって宗教勧誘に来た妙齢の女性の方々の話に長く付き合ってはいけない。
・久々に呼び出してくる友人は大抵碌でも無い話を持って来る。
・怪しいバイトに応募してはいけない。
・安易に心霊スポットに行ってはいけない。心霊の有無はともかく、危険な場所が多い。
・鶏や牡蠣を生で食ってはいけない。
・夏場に常温で放置した料理を食ってはいけない。
・オートロックの部屋から出る時は鍵を持って出ることを忘れないこと。
・困った時は信頼できる人に相談すること。
・本当に追い詰められた時に最後に役立つのは伝手である。人間関係を大事にしよう。
・無理に人に合わせる必要はない。自分らしさを大切に。
・これを含めて人の言うことを気にする必要はない。我々は自由である。
以上である。
人生は創造者だかのデザインミスと思われるほど困難なこともある。なんだかその理不尽な仕様に憤り、天を睨みつけたい時もある。そして時には怒ることも必要なのである。しかしてこれが世の中である。強かに生きていこう。大抵はなるようになる。多分。きっと。
それでは、また。
2024/06/07~08 微糖
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