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「哀れなるものたち」 は、ヒュパティアやマノン・レスコーがエマ・ストーン氏のキャリアの修飾語として煮〆られている

「哀れなるものたち」は、アレキサンドリアのヒュパティアやパリのマノン・レスコーがエマ・ストーン氏のキャリアの修飾語として煮〆られた無上のセットが堅牢で見事だった。


メインポスターの胸のところは、ヒュパティアが描かれているのかもという「アテナイの学堂」(ラファエロ)みたいである。アーチを境に反転しているのかな?

アレキサンドリアに向かう船では読書をする

この映画は、主人公の居所が節タイトルになっており「ロンドン」から始まり「リスボン」「クルーズ船」「アレキサンドリア」「パリ」を巡り「ロンドン」に帰還する章立てになっている。
その旅路は「リスボン名物エッグタルト」と同じ重さで
無残な死を遂げる「アレキサンドリア図書館の才女ヒュパティア」や、無惨な死を遂げる近代のファムファタールの母型である「パリのマノン・レスコー」が煮〆られている。

もう1つ煮〆られているのは、
性犯罪被害の体験を告白・共有する際にSNSで使用されるハッシュタグであるところの  #MeToo(ミートゥー)運動だ。ミートゥ後に意識の改革を願って世に送り出された映画たちが、アカデミー賞作品賞、主演女優賞では不発な中で、
映画制作にも参加したエマ・ストーンの作品への関わり方がアカデミー会員らにどのように高く評価されるのか、という観点である。

事件の原因の指摘と問題の修正提案がなされる

「哀れなるものたち」は、metooが顕にした映画づくりが性暴力を誘発する側面について、
物語が18世紀から引きずってきた「妾としてのイイオンナ像」の罪深さを捉えて、問題点を示している。性暴力の誘発につながって来た「イイオンナ像」を「上書き訂正」をする狙いを潜ませている。
潜ませている、というのは、訂正を演じる俳優がポジティブに捉えられるように「滑稽さ」や「チャーミングさ」を絶やさずに映画が作られているからだ。
悪女の代表であるマクベス夫人型の娼館の女主人でさえも。

そして訂正の主張は主張として煮〆ながらも、
これまでミートゥ関連映画が主張の伝え方があまりにも正直である点で評価が低かったことを乗り越えるために、
旧来の価値観に従わざるを得なかったという人々にとっても
目に楽しく、耳に心地よく、という程度を超えないようにしてある。見る人全てに「滑稽で取りつく島があること」が、監督・女優間で協議されていると、すごく感じ取れる。

原作よりもかなり長いというフランスの娼館シークエンスでは、
ベラがより良い「ワーク」のために少し心を開こうという提案をするのがオーディエンスの共感点となっており意図的にエモーションを作っている。
その一方で、娼館シークエンスは「ワインスタイン事件」に迫っているシークエンスでもある。
初めの方の客の様子には「みこすり」「うんこ臭いにおい」「それがルール」など、ワインスタイン事件を想起させるエピソードを使っている。
そればかりか、ワインスタインに痛めつけられた女性の姿と全く同じものを見せ、追体験させることにも引かずに取り組んでいる。と言えるだろう。

それを追体験させた上で、痛め付けるのではなく心を少し開くほうが良いワークになるという修正方法を示し、
これからも生きて行くベラと私たちの人生は、年季を収めた後もさらに知性の面で、人間性の面で、成長できるのだとしているのは励まされる。

ミートゥ関連映画に作品賞が無いという居心地の悪さに決着がつかないかなぁ

着地はなかなかにふわふわだ。
ベラは自らも父方の因子として残虐性を持ち、顔面を殴ったり、カエルを握りつぶすことに楽しみを見出していたけれども、アレクサンドリア行きで知性を獲得し、痛め付けられる経験を経たのちは
「誰も殺したくない」という境地に至る。そして、残虐な元夫を、殺さず脳を挿げ替えて矯正する。なかなかにファニーで飲み込みづらい結末だ。

女優を主役に据えられる娼婦文学、というものの主眼の1つがヌード、セックスシーンを見せることであることから、エマ・ストーンは身体を張ってこれに挑み、見るものがむらむらしないファムファタール映画、という新しい表現基準を示した。
新基準は、物語が18世紀から引きずってきた「妾としてのイイオンナ像」を訂正しており、これに沿わない「イイオンナ像」を厚顔無恥に続けることはなかなか難しいのではないか。くさびを打った功績は大きく、「哀れなるものたち」によって、ミートゥ関連映画に作品賞が無いという居心地の悪さに決着がつかないかなぁ、と思うのだ。

この映画の良さである滑稽さは、新基準が作られる苦痛を飲み込ませるには必要な糖衣なのかも知れず、苦痛をよく噛み締めてぜひ
正当な評価
を俳優と作品に与えてほしいと願うのである。

モーパッサンが悪い

物語上の女性キャラクターの性的・人格的魅力を担保するために、娼婦になる話という型(かた)がなんで多いのか長年不思議だったのだけど、
18世紀に「王侯貴族が競って才色たぐいなき愛妾をかかえ、娼家は大繁盛した」という
お金の落ち方を背景として
『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』(1731年、繊細な心理描写からロマン主義文学ともされる。米国ルイジアナ州を舞台とした小説でもある)が誕生し、
欧州の奔放型の娼婦文学の母型となったそうである。
しかも、「不実さ」が空前であり女性そのものを表した様だと、仏国のモーパッサンが価値を裏書きしていたのだという。

それがあったばかりに、安易に、性的魅力と愛すべき奔放さという稀有な設定が、物語や女優に付与されてきた。日本で言うと「さくらん」とかね。それは安易過ぎないのか?という疑問は置いておいて、フランスの娼館で修行しているからセクシーなイイ女であるとする修飾語は、もう捨てていい頃合いだ。

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