才能の飼い殺し
何故、外国人は多種多様な人材が大勢排出され、日本には排出されにくいのか僕なりの見解を導き出す。
この題にした理由は、ブラジルへ留学した際感じた人々の多種多様さ。個性豊かで、良い意味で他人の目を気にせず生きている人々と接し、ふと疑問に感じた。日本との違いは何処なのか。「文化の違い」の一言で締めくくるのはあまりにも退屈だ。今回は大きく2つに分けて話を進めたい。
「究極な寛容と他者への無関心」
先ず、究極の寛容について考える。
日本では他人に迷惑を掛けるなという教育をされる。僕はその教育の模範解答のように他人の目を気にして生きてきた。まあ僕の場合サッカー以外の私的な所でその潜在的能力が発動されていた為、特に生きにくいなどとは思わず日々を過ごしていた。全ての場面で他人の目を気にして生きている人、そして部分的に他人の目を気にして生きている人。僕は無意識だが、今となっては仕事でのパフォーマンスに良い影響をもたらしてくれる。他人を気にしているうちに身に付いた「観察力、洞察力」が平均より高いと感じ、実際評価にも繋がっているからだ(平均とは感覚的)。
さて議論に戻ろう。日本の様に他人に迷惑をかけないことが美徳とされている国に生まれた子供はどうなるか。量産型列車に乗り、他人の目で行動が左右される窮屈な人生を歩むであろう。そして極少数の珍無類は、自らの足で未開の地へ踏み出すのだ。この極少数の珍無類は、日々の疑問に対し脳をフル回転させ、正しい回答が発見出来るまで、失敗を繰り返し成長していく。量産型列車に乗った人は、間違っていても恰も多数の方が正解であるかのように教えられ、しかもタチが悪いのが本当は正解である極小数の珍無類をも社会的抹消していく。
これが今の日本社会であろう。今まで良いとされていた人が一言気に触るような発言をしただけで、頭の悪い多数で袋叩きの様に批判し社会的抹殺をする。考えてみれば分かることだが日本の根深い思考はそう簡単には変わらない。
ではインドの教育を例に見てみよう。
迷惑を掛けないことが美徳とされている日本では、直接的に迷惑を掛けられていなくても、「迷惑を掛けた人を許してはいけない」「迷惑を掛けた人を社会的に制裁しよう」という考えに繋がってしまう。この他者からの迷惑も迷惑と思わない「究極の寛容」が、本当の自分として生きていける社会にするには必要だと考える。「究極」と付けたのは寛容だけでは今の日本人には足りないと考えたからである。
次に、他者への無関心について考える。
これは良い意味での他者への無関心ということだ。見方によっては違うのでは?と思うかもしれない。「馬鹿と天才は紙一重」とよく言われるが、その微妙な差異だ。「寛容」とは、別の観点から見たら、他者への無関心になる。
よく日本人は冷たいなど聞くが、そう言うと日本人は他者への無関心が多数なのでは?と考えるかもしれない。少し捻った考えをすると、他者への関心があるから相手の粗探しをし、見つけた途端蟻の様に群がって獲物を食う。物事の本質を考えず、「みんな批判しているしとりあえず批判しよ」と軽い気持ちで加担する。そんな愚かで醜いことしか楽しみを見出せない人達に、もっと熱中できることを探しなさいと言いたい。この様な環境下で、多種多様な才能が華開くのは厳しいだろう。
そして、外国の人々は「他者への関心」も同時に持ち合わせている。
それは、共に全力で喜んだり、見知らぬ人でも巻き込み騒ぐ、喧嘩を止めに入ったり、困っている人がいたらすぐに人が駆け寄る。日本では、無情が恰もカッコいいと思われる。そのどれもが外国人とは違うのだ。
結論
このどちらも皆が身に付けるというのは現実的ではない。戦後からの学校教育、家庭教育で植え付けられた根深い思考なのだから。
今回、少々日本人のことを批判的に見解したが、僕は日本人が大好きだ。だからこそ真剣に考え導き出した。ブラジルへ留学し、改めて日本という国が自分には合っているなと実感した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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