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「翻訳できないわたしの言葉」で感じたこと考えたこと

※サムネイル画像は東京都現代美術館の展示詳細ページから(広報物デザイン/小林すみれ)

こんにちは、Mikiです!
  私は日本人の父と台湾人の母がいます。生まれた国はシンガポールで、1歳ほどで台湾へ行き、3歳になる頃には日本へ来て、以来ずっと日本で生活しています。
  母語は日本語で家庭内の言語も日本語。幼小中高大すべて日本の学校で日本の教育を受けてきました。中文(中国語のこと)は一所懸命勉強し、大学では授業を取ったりして日常会話程度には話せるようになりました。ちなみに台湾語はいくつか単語を知っているくらいです。※詳しい自己紹介はこちらから!

  今回はそんな私が「翻訳できないわたしの言葉」という展示会で感じたこと、自分の生い立ちや経験に引き寄せて考えたことを振り返ってみたいと思います。
※アーティストの情報は展示詳細ページから引用しています
※すべての展示物について書いているわけではありません
※感想はあくまで主観的なものにすぎません


翻訳できないわたしの言葉

翻訳できないわたしの言葉
そこには様々な背景を持ったアーティストが「わたしの言葉」をテーマに展示をしている。

そんなタイトルと概要を知り、これは行くしかない!と、「自称:語学オタク」の私は東京都現代美術館に足を運びました。

”正しい”発音

  最初に見たのはユニ・ホン・シャープさんの映像。子どもにフランス語の発音を教えてもらっていました。

「正しいフランス語で発音できなくてどうするの!」と叱られた

というユニ・ホン・シャープさん。私は、中文の発音が上手くできなくて何度も直されたことを思い出しました。幸いにも私の場合叱られてはいませんし、発音の間違いは笑いの種になることも多く、ネガティブな経験はあまりありません。それでも、自分ではちゃんと発音しているつもりなのに「違う」と言われるのは結構クるものがあります。学べば学ぶほど、自分の発音は合ってはいるけどネイティブの発音じゃないなと思い知らされます。
  今はそれでもいいかと思うばかりか、それがいいんだと思えるようになってきていて、”正しく”発音できないと悩んでいた過去の自分に「よく頑張っていたね」と声をかけたくなりました。

ユニ・ホン・シャープ|Yuni Hong Charpe
ユニ・ホン・シャープは日本語を第一言語として育ち、現在はフランスで制作活動をしています。「フランスで活動しているのに『わたしは作品をつくる(Je crée une œuvre)』くらい、正しいフランス語で発音できなくてどうするの!」と叱られた経験から、フランス語を第一言語とする子にフランス語の発音を教えてもらう映像作品《RÉPÈTE リピート》を作りました。また、インスタレーション旧題Still on our tonguesは、地方言語が禁止されたフランスのブルターニュ地方と沖縄の歴史に取材したものです。外部から与えられる「正しさ」と、自分の身体から生まれる音や言葉について考えます。

展示内容と参加作家プロフィールより

血で言語は話せるようにならない

  次に見たのはアイヌのルーツを持つマユンキキさんと、在日コリアンのサジさんとの対話映像。
「血で言語は話せるようにならない」という言葉がとても印象的でした。

誰か:「なんで中文話せるの?」
私:「台湾とのハーフで…」
誰か:「なるほど!」

というハーフあるあるの会話も、よくよく考えたらおかしな話だと思うのです。
  確かに私には台湾人の「血」が流れており、”日本人”に比べれば中文に触れる機会は多いです。しかし日本で生活している以上「日本語」の習得は不可欠で、「日本語」を使いながらも「中文」を習得するのがどんなに大変なことか、私自身も実はよく分かっていなかったのです。
  「血で言語は話せるようにならない」と自分に対してもそう思えるようになり、中文が上手くない自分を許せるようになったのは、幼小中高大と日本で日本の学校に通ってきた後でした。”日本人”と同じように育ったのだし、「台湾人の母がいるという理由だけでは中文を話せるようにはならない」とやっと認められたのです。
「”ハーフ”なんだから中文を話せて当然」という呪縛があった私にとってそれは、辛くもありながらどこか清々しい事実でした。

「血で言語は話せるようにならない」

この考えは「私と中文」の関係性を考え直させてくれる大事なものです。
できなくて当然。だから勉強する。
改めてそう思うことができました。

話したくないと言っていい

  また、田村かのこさんとの対話で印象的だったのはマユンキキさんの「私は英語を話さない(話したくない)」という意思でした。

(何か特定の言語を)話したくないと言っていいんだ
自分で選択していいんだ…!

と衝撃を受けました。
  私にとっての英語は学校で習ってきたというのもあり「使わなければいけないもの」「使えるようにならなければいけないもの」ですし、中文も自分のルーツに関わるから「話して当然のもの」「話せるようになるべきもの」でした。数年前、どうしても中文を話したくない/話せない時期があり意図的に避けていたことがありました。当時は罪悪感がひどかったのを覚えています。英語は大学卒業後しばらく勉強しなくなっても特に何も思わなかったのに、母の母語である「中文」を避けることにはとてつもない罪悪感に襲われる。今でこそあの時中文から離れてよかったと思えますが、そう思えるようになるまでには時間も労力もかかりました。
マユンキキさんが英語を話したくない理由と私の理由は異なるものですが、「話したくないと言っていい」という考えはこれからの私にとって大切なお守りになりそうです。

マユンキキ|Mayunkiki
マユンキキは、アイヌ語で「(聞き手を含まない)私たちが話す」を意味する《イタカㇱ》というタイトルの作品を展示します。この作品は、言葉をめぐる対話を収めた2つの映像作品と、アーティストのセーフスペースとなる空間から構成されています。写真家の金サジとの対話では、本来第一言語になりえたかもしれない言語を改めて学ぶことについて、アートトランスレーターの田村かのことの対話では、自分が話す言語を自ら選択することの意義について話しています。マユンキキを作り上げてきたもの・人々・言葉を丁寧に提示するこれらは、ステレオタイプな「アイヌらしさ」ではなく、個人としての姿を通して一人のアイヌであるマユンキキに出会うためのものです。

展示内容と参加作家プロフィールより

複数の言語

次に見たのは南雲麻衣さんの作品。
  母親と音声日本語で会話する様子、友人と日本手話で会話する様子、そして音声と手話とどちらも用いてパートナーと会話する様子。
そのどれもが(月並みな言葉ですが)自然体に見えました。特にパートナーとの会話は音声と手話の切り替えといった感じではなく、紹介文の言葉を借りると「揺れながら選択をし続ける」のが見てとれました。
実は手話は少しだけかじっていたため度々学びたいと思うのですが、うまく話せなかったらどうしよう、とハードルが高いと感じてしまうのです。
しかし、

話す相手が変わると使う言語も変わる

  それはある意味当たり前のこと。指差しで注文ができるカフェや音声の文字起こし等、音声言語ではない方法でやり取りする方法も普及していっています。「手話を学ぶには手話以外使ってはいけない」と思い込んで勝手にハードルをあげていたのは私自身だったのかもしれません。

  ちなみに私は家族と話す時は基本的に日本語ですが、母と話す時は中文もよくしゃべるし、台日”ハーフ”の親友Yとは日本語も中文も織り交ぜながら話します。
  日本語(だけ)VS 中文(だけ)という二項対立ではなく、言語を「選択をし続ける」話し方、自分も無意識にしていたのかもしれない、とちょっぴり嬉しくなりました。

南雲麻衣|Mai Nagumo
南雲麻衣の作品は、3つの映像からなるインスタレーション《母語の外で旅をする》です。母親、友人、パートナーと、話す相手が変わるとアーティストが使う言語も変わります。南雲の日常は、言語と言語の間をさまよう旅の繰り返しなのです。幼児期に聴覚を失った彼女は音声日本語を母語として育ち、今は日本手話を第一言語としています。「複数の言語を持つと、本当に帰属しているのはどちらなのかを常に問われていると感じる。」と南雲はいいます。音声言語と視覚言語を二項対立として考えるのではなく、そのあわいで揺れながら選択をし続けることは、単一言語主義へのささやかな抵抗の実践なのです。

展示内容と参加作家プロフィールより

からだの声

  音声言語に視覚言語。次に出会ったのは「からだの声」でした。
私は大学時代に受講した「からだと言葉」という講座を思い出しました。

  • あの人に届け!と思いながら出した声は相手に伝わるのに同じ音量でテキトーに言った声は伝わらないといった実験

  • 無意識にしていた体育座り(三角座り)は実はからだの自由が利かない

  • だから体育座りではなく楽な状態で話を聞いてみる

などなど、「言語」に限らない表現について触れていました。
  しかし、それももう約10年前のこと。今では

「微かな声に耳を傾けたり、身体の些細な動きを意識したり」

ということが少なくなってきました。私はこの日、展示を見て回りながら、内容だけでなく行き交う人々にも神経を尖らせ、いつの間にか気を張っていたようです。触ってみましょうとあった和紙に恐る恐る触れた瞬間、肩の力が抜け、まるで温泉に浸かった時のようにホッとした感覚になりました。これは新井英夫さんのワークショップで、参加者に緊張をほぐすために触ってもらう柔らかい和紙だったのです。
  展示の内容や人の動き・流れに集中しすぎて、自分の疲れや緊張を看過していたと気付かされました。もっと自分の「からだ」に耳を向けようとちょっぴり反省したのでした。

新井英夫|Hideo ARAI
新井英夫は、障害や高齢や生きづらさから言葉を表出しにくい/身体が動かしにくい人たちと向き合う身体表現ワークショップを手がけてきました。それは人それぞれが心地よいと思う動きや美しさを尊重し、その人らしさを丸ごと肯定するものです。その源泉を新井は、だれの体にも存在する「からだの声」と呼びます。今回展示する《からだの声に耳をすます》では、微かな声に耳を傾けたり、身体の些細な動きを意識したりというワークを紹介します。現在、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病と対峙している新井の日記的即興ダンス映像も、身体と言葉のつながりについて考えるきっかけとなるでしょう。

展示内容と参加作家プロフィールより

人として出逢う

  そして最後は金仁淑さんの展示。滋賀県もブラジル人学校も私自身にはなじみのないもので、一体どういうところなんだろう?通う子どもたちにはどんな背景があるんだろう?と思いながら見ていましたが、正直全然分かりませんでした。分かったのは子どもたちが楽しそうに仲良く、時にいたずらなどして子どもらしく過ごしていることでした。でもそれは

「作品の中に登場する人物がどのような状況に置かれているかではなく、個性や魅力に着目して人として出逢う」

ことだったようです。
  生い立ちや現状ばかりに目を向けがちだった私に「人として出逢う」ことの難しさと大切さを改めて思い出させてくれました。

金仁淑|KIM Insook
金仁淑は、滋賀県にあるブラジル人学校サンタナ学園に通う子ども達との出逢いを、一人ひとりのビデオポートレートと見つめ合うことで体験する映像インスタレーション《Eye to Eye》(2024年木村伊兵衛写真賞受賞作)と、彼らと一緒に作ったアートブックをブラジルに帰った子に届けに行った様子を収めた新作《扉の向こう》を展示します。金仁淑は作品の中に登場する人物がどのような状況に置かれているかではなく、個性や魅力に着目して人として出逢うことに主眼を置いています。丁寧なコミュニケーションを積み重ねて制作される作品は、他者や自分自身と多面的に出逢うためのプラットフォームなのです。

展示内容と参加作家プロフィール より

わたしの言葉

  展示を見て回りながら「わたしの言葉」はなんだろう?とずっと考えていました。
母語ということであれば日本語です。でも、

  • 「ローバーブン(魯肉飯)」が中国人留学生に通じなくて初めて台湾語だと知った。

  • ずっと日本語だと思っていた「レンブ(蓮霧)」は台湾語だった。

  • 小籠包「ㄒㄧㄠˇㄌㄨㄥˊㄅㄠˉ」を日本語発音でしょーろんぽーと言うのに苦労した。

そんな小さな出来事を大事に大事に抱えています。

そう、私の母語は100%の日本語ではなく、日本語と少しの中文と台湾語(閩南語)から出来ているのです。

  私が今(技能的に)使える言語は日本語、英語、中文、韓国語。
  こうして自身の気持ちを言語化するのに最も使い勝手のいい「日本語」。
  「英語」は必要に駆られて使うことが多いから、まだ自分のものになっている感覚はあまり無いけれど、使える言語であることに違いはありません。
  「中文」は幼少期から触れていて、中文にしかない表現や中文を話す時の人格など、もう私の一部分です。
  そして大学で出会った「韓国語」は私を自由にしてくれました。母が台湾人という変わりようの無い事実。中文も台湾語も学ばなきゃいけないという気持ちがどうしても強いです。でも韓国語は自分の「血」に関係無い。学びたいという理由で学べた初めての言語だったのです。

  母語の日本語も、私の一部分である中文も、少しの台湾語も、コミュニケーション手段の一つである英語も、私に自由をくれた韓国語も、全部全部「わたしの言葉」。
すべて大事に大事に抱えて生きていきたい。

自分自身の「わたしの言葉」を大切に思う機会を提示したいと思います。

「翻訳できないわたしの言葉」展示詳細より

という、展示に込められた想いをしかと受け取ったMikiなのでした。

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