第4章 旧約聖書 (『名誉と恥の宣教学』)
前回の記事はこちら → 第3章 名誉と恥の文化の外見(『名誉と恥の宣教学』)
はじめに
今回は、旧約聖書に見られる「名誉と恥」に注目していきます。
そもそも聖書は、名誉と恥が支配する世界のなかで記されました。
そのため聖書には、旧約であれ新約であれ、「名誉と恥」の問題が多く取り扱われています。
はっきり表現されていなかったとしても、その根底に、名誉と恥の価値観が前提とされている場合もあります。
今回の投稿では、旧約聖書の人たち――アダムとエバ、ダビデ王、ルツに見られる「名誉と恥」に注目します。
アダムとエバ――最初の「恥」
「恥」は、旧約聖書最初の書物である創世記、しかもその冒頭から登場しています。
人間の恥は、彼らが最初に置かれた「エデンの園」から始まったのです。
まず前提として、人間は「名誉」ある存在として造られたということができます。
偉大なる神によって、「祝福」「土地」「食物」「動物に名をつける特権」「妻」を与えられるほど尊い存在として、人間は造られたのです。
裸であっても、恥ずかしくないほどでした(創世記2章24節)。
しかし、神の言いつけに背いたことにより、この楽園に「恥」がもたらされます。
恥の感情を得た彼らは、いちじくの葉で「腰の覆い」を作って局部を隠します(3章7節)。
この事件に関して、西洋の神学は「罪」を強調してきました。
「これは罪の出来事だ」として、罪(とそこからの救い)だけに注目して片付けてしまったのです。
それにより、原初の人間が経験した「恥」が見落とされるようになってしまいました。
ダビデ――神の「名誉」を汚す行為としての姦通
次に、イスラエルの王ダビデの例を取り上げましょう。
彼は他人の妻と不倫をおこない、しかもその人妻の夫を間接的に殺害しました。
神はこの事件を見過ごさず、預言者ナタンを遣わしてダビデを叱責します。
さて、このダビデの行為に対して、西洋の神学は「これは律法(神の定めたルール)への違反だ」と見なしてきました。もちろん、この見方も間違いではないでしょう。
しかし、預言者ナタンのことばに注目してみると、異なる側面が浮かび上がってきます。
預言者ナタンは、律法への違反に訴えるよりも、「恥」に関わることばを用いてダビデを叱責しているのです。
「どうして、あなたは【主】のことばを蔑み、わたし[=神]の目に悪であることを行ったのか。[…]今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。」(第二サムエル記12章9、10節)
ダビデは「神を蔑んだ」者として、神をあなどり、神を見下した者として断罪されたのです。
すなわち、第一の問題とされたのは、ダビデの行為が「神の名誉を汚すものであった」ということです。
ルツ――身分の逆転としての「贖い」
聖書では、救いを表すことばとして「贖(あがな)い」という表現が用いられます。
この「贖い」の主題が取り扱われているのが、旧約聖書のルツ記です。
ルツ記では、贖いが「恥から名誉への地位の逆転」をもたらすものとして描かれています。
登場人物のひとりはナオミという名の女性。物語冒頭、彼女は夫と息子たちを失い、やもめとなります。
そしてその息子の嫁として登場するのが、ルツという外国人の女性です。彼女もまた、自分の夫(姑ナオミの息子)を失い、やもめとなります。
家族が生活の中心となる集団主義社会において、夫を失うことは致命的でした。
家の名を残すことができず、年老いたやもめとなったナオミ(またルツ)は、名誉からは程遠い存在となりました。
しかし、「買い戻し(贖い)」の権利を持つ親類の男性ボアズに出会うことで、彼女らに転機が訪れます。
ボアズがルツを自らの妻として「買い戻した(贖った)」ことにより、ルツとその姑ナオミは窮地を脱しました。
しかもルツとボアズの間には男の子が生まれ、近所の女性たちは「ナオミに男の子が生まれた」(ルツ記4章17節)と祝います。
(現代の感覚でいえば、生物学的な母親はルツであり、ナオミは祖母ということになるでしょう)
さらに、同様にやもめとなっていたルツに対しても、名誉となることばがかけられます。
「その子[=ルツとボアズの子]はあなた[=ナオミ]を元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁[=ルツ]が、その子を産んだのですから。」(ルツ記4章15節)
ここで、ルツは「七人の息子にもまさる嫁」と呼ばれています。なんと名誉なことばでしょうか。
さらに驚くべきことに、このルツの子孫から、のちにイスラエルの王となるダビデが誕生することになります(ルツ記4章17節、22節)。
かつてナオミとルツは夫を失い、名誉からは程遠いやもめとなりました。
しかし物語の最後で、彼女らが、のちに王となるダビデの家系に名を連ねていたこと、極端な言い方をすれば、名誉ある王族に連なる女性たちであったことが明らかになるのです。
贖いを主題とするルツ記は、「恥から名誉への身分の逆転」の物語なのです。
神との壊れた関係を表す「恥」
これまで、旧約聖書の人たちが経験した「名誉と恥」について見てきました。
ここで一つ、注意すべきことがあります。
それは、恥を「感情」や「心理」の問題として片付けるべきでないということです。
「恥」は単に気持ちの問題というのではなく、「神との壊れた関係」を表す重要な概念です。
その証拠に、旧約聖書では、神に背いたイスラエルの民を「遊女」と呼んで叱責している箇所があります。
「あなた[=イスラエルの民]の心は、なんと燃え盛っていることか──【神】である主のことば──。厚かましい遊女のするようなこれらのことを、ことごとく行うとき。…」(エゼキエル書16章30節)
誰かを「遊女」呼ばわりすることは、究極の侮辱でした。
罪を犯し、神との関係を壊した人間は「恥ずべき存在」として叱責されたのです。
「名誉と恥」 解釈の図式
最後に、聖書の「解釈」について一言してから投稿を閉じたいと思います。
聖書を「罪→赦し」の物語として読む人が多くいます。もちろん、聖書が「罪→赦し」のパターンを取り扱っているのは事実です。
一方で、旧約聖書を注意深く読むと、別の図式も浮かび上がってきます。それは「恥→名誉」のパターンです。
深い恥を負うことになった人々を、神がそのまま捨て置くことはない。神はその人の身分、立場、名誉を回復してくださる。
旧約聖書を「名誉と恥」の視点から読み解くと、そのようなメッセージを受け取ることができるでしょう。
つづく → 第5章 イエス①(『名誉と恥の宣教学』)
【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “4 Old Testament,” pp.67-90
【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が強く反映されている可能性があることもお断りしておきます。
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