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2021年12月24日(金)|平家物語の成立

『平家物語』の成立

 応安4年(1371年)、琵琶法師の覚一検校(かくいちけんぎょう。明石覚一)が、それまで語り継いできた平家の物語を筆録させた。これがいわゆる『覚一本平家物語』である。

 『平家物語』成立の具体的な過程に関しては、史料を欠いており詳らかでない。とはいえ、さまざまな「伝承」が重要な役割を果たしたことは疑いえない。それと合わせて、同時代の貴族の日記などの「文書史料」が果たした役割も見過ごすわけにはいかない。

 『平家物語』は「語られた伝承」と「書かれた史料」を組み合わせながら成立した、と考えるのが妥当であろう。

『平家物語』の原作者

 成立過程と同じく、原作者についても具体的な事実を示す史料を欠いており、仮説の域を出ない。

 一つには、鎌倉末ごろの成立と考えられている『徒然草』の所説が取り上げられてきた。同書の二二六段には「後鳥羽院の御時、遁世した信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が平家の物語を作り、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語らせた」と記されている。

 他の作者の可能性としては、各文献に依拠する形で以下の人々が挙げられている(多くは琵琶法師の伝承によるもので確証はない)。

『醍醐雑抄』によると・・・中山民部権少輔時長、源光行、吉田資経
『臥雲日件録』によると・・・菅原為長
『薦軒日録』によると・・・玄恵法印(改作)
『平家勘文録』によると・・・高野宰相入道、桜町中納言成範、憲耀法印ほか

「一方流」と「八坂流」

 物語の担い手となった琵琶法師の集団は「当道」と呼ばれる座を結成した。

 覚一の時代、当道座は「一方流(いちかたりゅう)」と「八坂流(やさかりゅう)」の二派に分裂し、それぞれ異なる『平家物語』のテクストを残すことになる。最も重要な相違は以下の通り。

【八坂系】・・・建礼門院の後日談は巻十一・十二間の相当年月の箇所に布置され、巻十二を平家嫡流最後の人である六代の処刑記事で終える。
【一方系】・・・平家断絶後、建礼門院(平徳子。安徳天皇の母)が隠棲する京都大原の寂光院に後白河院が御幸し、そこで二人が語り合う、という叙述を「灌頂巻」として独立させた。

 これらのうち、一方流のテクストが製版本として印刷され普及、こんにち「流布本」と呼ばれるようになった。

琵琶法師の役割

 『平家物語』がもともと語ることを目的に執筆されたものなのか、それとも作品が成立したのち、語りにのせる考案がなされて琵琶法師の手に渡ったものか、その間の事情も定かではない。

 とはいえ、琵琶法師が物語の中心的な担い手となったことは確かである。彼らは京のみならず、諸国を遍歴してその享受圏を広めていった。その様子は『一遍上人絵伝』『法然上人絵伝』『直幹申文絵詞』『慕帰絵詞』などの絵巻に描かれている。

 当時、琵琶法師をはじめとする盲人は、現世と霊界を媒介する特殊な能力を持つと信じられていた。

 非業の死を遂げた平家の人々が怨霊となり、現世に祟りをもたらすという民俗信仰に対し、琵琶法師による語りは亡魂供養の宗教儀礼として信憑性を持っていたのである。

『平家物語』の思想

 「平家はなぜ滅びたのか」という問いに対し、『平家』の作者は「一門を領導して権力の座を築きあげた平清盛の行動のなかにその要因がある」と解釈した。

 物語を構成している原理は「盛者必衰の理」「父祖の罪業は子孫にむくふ」という因果応報観。この二つの原理に基づき、平家一門を滅亡せしめたのは清盛の悪行であると説くのが『平家物語』の根底にある思想である。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。[中略] まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま伝へうけたまはるこそ心も詞も及ばれね。
『平家物語』祇園精舎
是はただ、入道相国[=清盛]、一天四海を掌ににぎ(ッ)て、上は一人をもおそれず、下は万民をも顧ず、死罪流刑、思ふ様に行ひ、世をも人をも憚られざりしがいたす所なり。父祖の罪業は、子孫にむくふといふ事、疑なしとぞ見えたりける。
『平家物語』女院死去(二)

参考文献

杉本圭三郎(2017[1979-1991])『新版 平家物語 全訳注【全四冊合本版】』 講談社学術文庫

※本記事は当参考文献の「解説」の内容を整理し要約したものです。

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