書評#7-② 穂村弘『短歌のガチャポン』

前回扱った『短歌のガチャポン』に、より踏み込んだ内容について語っていきたいと思う。前回の記事のリンクを以下に貼っておくので、まだ読んでおられない方はご一読頂きたい。

本当はメロンが何かわからないけどパンなりにやったんだよね

砂崎柊

前回、本書に選ばれた短歌の中で私にとってもっとも心に響いたと書いたのが上の一首である。

付記した感想の中で、私は「弱さ」という概念について言及した。

自分が弱い人間であるという自覚があるから、私は他人の失敗や悪事には寛容になりたいと思っている。「弱いままでいたい」ということを私は常に考えている。
無機物に対してもそのような気持ちでいられる読み手の心が素直に美しいと思った。

前回記事より抜粋

この文脈における「弱い」がどのような意味領域を受け持つかについて深く語らなかったため、それとこの一首を安易に関連させたことに飛躍があると感じた方も多いかもしれない。申し訳なく思う。

私は最近この「弱さ」についてよく考える。あるいは、身の回りに起きた種々の事柄を「弱さ」という概念で照らして得られる像についてよく考える。
短歌に興味を持ち始めたのも、そのような思索活動の一環であるとすら言えるかもしれない。
この記事で詳しく述べていきたい。

「弱い」

私がこの言葉を無修飾に使うとき、そこには「希薄である」とか「淡い」というニュアンスを持たせている。
では何が希薄で淡いのか。それは、他者との関係性である。さらにイメージに寄せて語るのであれば、他者どうしのものを含めた人間の関係性の網目から「浮いている」状態が近いかもしれない。

人間の関係性の中でもっとも普遍的なものは「社会」だと思う。社会が厳密にどういうものなのか、それを必要十分に言い表そうと思うと大変だが、ひとまずは「約束事を中心とした人間集団の関係性」とでも定義しておこうと思う。
俺はお前を殺さないからお前も俺を殺すな。ものの交換には貨幣を仲介せよ。子どもができたらしばらくは養え。
約束事がない「社会」を私は想像することができない。こういった約束事を守れないか、守れるにしても意味を理解することができない人を、私は社会という人間の関係性において「浮いている」と呼んでいる。

私が「弱い」という言葉を使うときにとりわけ念頭に置いているのが資本主義社会への適応性、つまり、上で挙げた「約束事」の2番目の例である(「貨幣を仲介せよ」というだけでは資本主義社会を十分に言い表せられていないかもしれない)。
今やお金なしには「生きる」ということが担保されない。というか、現代の「お金」の意味が「数量による『生きる』ことの保証」に完全にすり替わっている。
お金を稼いで物を買って飢えを凌いで寝床を確保して明日を迎えること、これが今日における「生きる」ことの意味である。
よって「お金を稼ぐ」ことが「生きる」ことの第一のステップとなる。ではどうやったらお金を稼げるのか。それは当然、自分の能力を社会に還元することによって、である。そして能力を社会に還元するとは、巨大な約束事を維持する歯車になるということである。
つまり、お金を稼げないということが直ちに約束事を履行できないことーーひいては社会で「浮いて」しまうことに繋がってしまう。特定の文脈で能力を発揮できないというだけで、である。

誰のための詩か

短歌の話に戻る。
私は、「メロンっぽくなれ」と言われたひとつのパンに、約束事を履行することに追い込まれた現代人の姿を見た。そして、それを上手く「出来なかった」、「弱い」人間の姿を見たのだ。
そして、その弱さを責めるでもなく、『パンなりにやったんだよね』と頑張りを見ようとする作者の姿がこの上なく琴線に触れたのである。これが飛躍であるということはもちろん承知している。

「詩」なんてものは、詠めてもこの約束事で保証された世界で生きるのに何の役にも立たない。これは、詩人が自ら言っていることである。
そうだとするならば、詩は弱い人間のためにあるはずだ。

少なくとも一部はこのような考えを持って、私は『短歌のガチャポン』を手に取った。


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