書評#7 穂村弘『短歌のガチャポン』

ジェイラボの活動の一環として、『短歌のガチャポン』を読んだ。800字書評も書いたので、興味のある方はこちらもご一読されたい。

はじめに

本書は現代短歌の先頭をひた走る歌人たる穂村弘が、有名無名・時代を問わず選んだ異なる歌人による100首の短歌と、それらへの穂村弘自身の短い解説が載せられた歌集である。

私はこれまで、短歌のみならず、俳句、詩などいわゆる「ポエム」と呼ばれるものを一切嗜むことなく生きてきた。
特に忌避したつもりはないのだが、しかし私はこれまで自分自身を論理世界の住人として位置づけてきたふしがある。そんな私にとって非論理の体系(非論理なのに「体系」というのは変な気もするが)のように見えるポエムはあまりにも馴染みがなかったのかもしれない。
だがよく考えてみれば、例えば私は音楽を聴くのが好きだ。ポップスには歌詞がついており、それは見方によっては詩として読めなくはないはずである。また音楽自身も非論理のように思える文化のひとつである (音楽に論理があるかどうかに関する私の意見は書評#5『作曲の科学』で軽く述べたので、ここでは深く語らず、「ように思える」という曖昧な記述で済ませておく)。

なのにポエムに触れることがなかったのは、それが思春期特有の「恥ずかしい」行動の表出の代表例であるという、極めて表面的な理解が張り付いていたからかもしれない。

私の恋人は文芸と言われるものを好んでいる。最近短歌にも興味を持ち始めたというので、一緒に読もうと買ったのが本書である。

短歌とは何だろうか

例によって、まずはこれが私にとっての第一の興味である。この問いへの答えを出すことが私の短歌を消費する上での最大の目的と言ってもいい。

短歌に興味を持ち始めてまもない自分の考えを、備忘録的に初めに書いておくことにする。

短歌とは、まずは文字を用いた芸術、つまり文学のひとつであることは認めたいと思う。
「芸術とは何か」というのは私がいま興味を持っていることのひとつであり、答えるのは難しいが、現時点では「『美しいとは何か』という問いへの答えを言語によって表現する」ことだと理解している。しかしこれでは例えば宗教画を描く芸術家のモチベーションを充分に言い表せていないと指摘を受けたこともあり、確かにそうだと思ったので、言語化として完全だと主張するつもりはない。暫定的な答えがこれだというだけである。
そしてこれも暫定的にではあるが、文字を用いた芸術が文学であると理解している。
この意味で、短歌とは各人の持つ美意識を文字によって表現したものであるから、それが文学であるということは言えそうである。

短歌のもっとも基本的な要素として挙げられるのは、やはり31文字という制限が加えられていることである。
これは「七五調」が日本の詩歌において心地よいとされるリズムであることに端を発している。これも「美しさ」を求める心意気のひとつとして解釈できるだろう。 

あえて制限を加えて面白みを見出す、というのはスポーツと似ているところがある。例えば、ボクシングはただの路上の喧嘩に「手のみを使う」というルールを加えることに競技性を見出したと言える。
短歌にそういった競技性があるかは分からないが、あえてルールを敷くことでその外側への思いを馳せる、言わば「余白を楽しむ」部分がそこには大いにあるのではないかと思う。

つまり、短歌とは、「31文字の制限の中で『美しいとは何か』を表現する」ということだと私は考える。

良いなと思った歌

本書で紹介された短歌の中で私が面白いな、良いなと思ったものを挙げ、思ったことを書いていく。

前科八犯この赤い血が人助けするのだらうか輸血針刺す

金子大二郎

「血は争えない」と言う。「血を分けた兄弟」と言う。今は過去の偉人によって遺伝子がその本質的要素だと科学的な説明がついているが、昔は血こそにその人の生き方が刻まれていると考えられていた。「前科八犯」の男は、犯罪を重ねてきた自分の血が人の助けになれるのだろうかと疑問を抱いている。
輸血とは「give」の行為である。私はそこに一定の善性があると信じたい。さらに言えば、人助けするのはあなたの「血」ではなく、あなた自身なのだと伝えたい。

今日君が持ってる本を買いました。もう本当のさよならなんだ

福島遥

読書好きの恋人どうしが本を貸し借りするのはよくあることである。読み手と「君」とは恋人どうしだったが、何かの弾みで別れてしまった。
「読み終わったら貸してね」と言っていた君の本を購入したことで、もう二度と元の関係に戻れないことを改めて噛みしめたのかもしれない。あるいはもう戻らない覚悟を決めた、決めるために本を買いに行ったのかもしれない。

ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい?まようパレット

やすたけまり

飼育小屋の中にいるニワトリの姿をスケッチする小学生の姿が思い浮かぶ。パレットに白と赤の絵の具のチューブを絞り、はたと気づく。ニワトリと自分の間には網があるではないか。これは書かなければならないのだろうか。
考えるとはありのままの世界にフィルターをかねるということである。分断とはつねに各個人が主体的に行うことである。

本当はメロンが何かわからないけどパンなりにやったんだよね

砂崎柊

本書の中でこの歌が一番心に響いた。
「メロンパンってどこがメロンやねん」というのは私も思ったことがあるが、この発想はなかった。パンはメロンのことなんて知らないし会ったこともない。それをいきなりパン職人に「メロンっぽくなれ」と言われても出来るわけはなく、じぶんの出来る範囲のことを頑張ったのだろう。
自分が弱い人間であるという自覚があるから、私は他人の失敗や悪事には寛容になりたいと思っている。「弱いままでいたい」ということを私は常に考えている。
無機物に対してもそのような気持ちでいられる読み手の心が素直に美しいと思った。

おわりに

「短歌とは何か」を考えようと思って読み始めたのに、ひとつひとつの歌に深く考え込んでしまった。
私は小説を読むのが好きだが、作家にはなれないだろうと思っている。すべてを論理というルールの範疇で捉えてしまうから、私には「素直に思ったことを語る」ということが難しいのだ。
今回読んだ歌人のひとりひとりも、論理というルールの範囲内では決して見えてこない、私には想像もし得ない眼鏡で物事を見ているのだろう。
私は歌人にもなれなさそうだ、となぜか悲しい気持ちになった。

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