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女性を表現すること。女性として表現すること

私がFaceAppで女性化を始めたのは、岸田メルさんがやっていたのを見たのがきっかけだった。自分もこんな風に可愛くなれたらいいなと思った。さらに私を惹きつけたのは、女性化についての岸田さんのコメントだった。「自分の中の女の子として表現したい気持ちが、女の子の絵を描く動機になっていると思う。女性化もそれと似ているかもしれない」そんな内容だったと記憶している。
私もFaceAppで女性化するずっと前から、女性としての表現をしてきた。それを振り返ってみたいと思う。

1991年頃から、私は当時の友人達とTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)をやっていた。TRPGとは、数人のプレイヤーとゲームを進行するゲームマスターによって行われる「役割を演じるゲーム」のこと。ゲームマスターが用意したシナリオの中で、プレイヤー達は自分のキャラクター(プレイヤーキャラクター(PC))を演じる。PC以外の登場人物(ノンプレイヤーキャラクター(NPC))は、ゲームマスターが担当する。
PCは、プレイヤーと同性である必要はない。またゲームマスターは異性のNPCを演じなければならない(さもなければ一方の性しか存在しないゲーム世界になってしまう)
ゲームの舞台は、剣と魔法の世界と呼ばれるファンタジーの世界やSFがほとんどだった。そのような「異世界」ならば、例えばアニメの登場人物を(過剰気味に)真似て演じることも可能である。モノマネの延長ならば、「女性を演じている」意識は自然と薄らぐ。
しかし、現実世界を舞台にしたゲームも存在する。若い女の子のキャラクターを演じるとなれば、それなりの生々しさも生じる。異世界モノであっても、誰かの恋人役を演じることもあるし、シリアスな恋愛シーンで「リアルな異性」を演じられなければ、ゲームもしらけたものとなってしまう。
私も最初のうちは、ギャグに寄せたモノマネの女性表現をしていたように思う。しかしTRPGのプレイ歴が長くなり、より深いストーリー体験を求めるようになると、PCやNPCもリアルなものになっていった。時にはプレイヤー同士、プレイヤーとゲームマスターとの「擬似恋愛」さえ経験した。その瞬間は亡国の姫君や女子高生として、本気で恋愛を楽しんでいたのだった。

毎週日曜日に行っていたTRPGの定例会が5年を過ぎた頃、友人たちは当時流行していた対戦格闘ゲームに関心が移していった。私は興味が持てず、定例会から離れることになった。
ちょうどその頃、私はフランス語を習っていた。あるCDに収録されていたフランス語の歌がとても気に入り、歌詞カードを見てもどう発音するのか分からない。近所の書店でフランス語の入門書を買い、発音の練習をしているうちに、本格的にフランス語を勉強したくなった。そこで、地元の文化センターのフランス語講座に参加したのだった。
文化センターの決まりで講座は2年で終了した。紆余曲折を経て、同じ講師にレッスンを受けていたところ、講座をやっていた文化センターで、フランス語で歌うシャンソンの講座を始めるという話を聞かされた。レッスンと掛け持ちで週2回は無理だと思っていたのが、いつの間にか参加することになっていた。クラスを引っ張るのにフランス語が出来る生徒が欲しいと講師が文化センターの担当者に伝え、私が勧誘されたのだった。
シャンソン講座の方は終了後、有志による自主グループとして継続することとなった。講座入会時の経緯もあって、メンバー最年少の私が代表を務めることになってしまった。
メンバーがリクエスト曲を持ち寄って、全員で合唱するのが講座でやっていた頃からの決まりだった。メンバーのほとんどが女性だったため、リクエスト曲も自然と女性目線の歌になる。シャンソンは男性の歌と女性の歌が区別されていることが多く、異性が歌う場合には歌詞の一部が変更される。フランス語に馴染みの薄い日本人で、そこまでこだわりを持つ者は多くはない。しかし、たとえ歌であっても、「私のこと」を男性が女性形で表現するのは、文法上自然でないのは事実であるのだ。
フランス語を自分の第二言語だと考えていた私にとって、女性の歌を歌うには「女性に扮する」必要があった。歌詞の内容も、男性に声をかける商売女の嘆き節だったり、口の上手い男の誘いをスマートに交わす女の独白だったりする。歌詞の意味が理解し、そこ込められた思いを表現しようとすれば、自然と「女性として表現する」ことになる。実際、男性である講師が、ある歌を歌って欲しいとメンバーから希望されて「男性の僕が歌うのはおかしい」と断ったことがあった。
日本のシャンソン界は、美輪明宏さんの影響もあってか、ステージで男性が女性に扮して歌うことが不自然とは見なされていないように思う。あくまでも趣味で歌っているアマチュアに過ぎなかった私も、長くやっていればコンサートに出演する機会を得ることもあった。客のいないリハーサルは普段の歌のグループとほとんど変わりはない。しかし客席が埋まり、照明が焚かれ、共演者たちが見違えるようなドレス姿になったとき。彼女たちに見送られて、スポットライトの中で私を見つめる大勢の顔と向き合い、ピアニストに合図を送った瞬間。私はもはや男でも女でもなかった。
その歌のグループもある事情で辞めることとなった。講師が男性が女性の衣装で歌うことは否定的だったせいもあって、ドレスを着てステージで歌うことは憧れのままで終わった。

2016年にTwitterを始めたのとほぼ同時に、小説をネットに投稿するようになった。高校生の頃は文芸部に所属しており、その後も書いては続かず、しばらくしてまた書き出しては辞め……を繰り返していた。その間に考えていたプロットを作品に書き上げた後に新しい作品を書き始めても、やはり続かない。練習を兼ねて書いてみた作品では、主人公を女性にしてみた。すると、不思議なことにキャラクターが動き始め、私は彼女の会話や行動を書き取って物語にした。
同性は主観的になり過ぎ、異性を書く方が客観的になれて筆が進む。創作ではよく言われることである。また、男性の書く女性は男の頭の中で理想化された女性像で、リアリティを欠くとも言われる。しかし、とにかく私は、私の作り出した女性の言葉を聞き、それを書き続けた。
2019年から、ある短編小説の朗読の動画配信に作品を応募した。採用されたのは3回だった。自分が産んだ娘を守ろうと決意する母親、同棲している恋人を待つ女性、10代の女の子同士の友情の話だった。男性目線の話も応募したにも関わらず、採用されたのはすべて女性が主人公の作品だった。
それらは取り立てて優れていたとは思えない。ただ、そこには読む人の心に響く何かがあったのだろう。たとえそれが、子どもを産むことのできない男性が感じている母親としての自覚であっても。

女性として表現することとは。
女性でない身でありながら女性として自分を表現したいという憧れをも含めて、体の性を超えた「たましい」が生み出す思いなのだと私は思う。少なくとも私は、そう願って生きてきた。そして近いうちに、私はその憧れと願いをもって、新たな「女性としての表現」を行なうつもりである。
それはTRPGやシャンソンや小説で表現してきたことと共に、リアルな体験として、私の人生に加えられることだろう。

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