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「オタクに優しいギャル」とTikTokとメタバース

▲私はギャルではないが、行動様式としてはそうかもしれない


 「オタクに優しいギャルに一緒にいてほしい」という声がある。解釈はさまざまだが、内気で陰鬱で自分に自信が無い人間が、陽気で自信があり、お洒落でコミュニケーションに長けた人間に内面を見て承認してほしいというニュアンスのようだ。私もコミュニケーションが得意ではなく、自分に自信が無い人間なので理解できる感覚だ。オタクに優しいギャルに一緒にいてもらうためにはどうすればいいのか。簡単だ。自分がオタクに優しいギャルになればいい。

ギャルとオタク

 ギャルは、もともと若い女性を表していた外来語が転じて、ファッションやライフスタイルが突飛と見なされながらも、それらが同世代にある程度文化として共有されている若い女性たちを指す場合にも用いるようだ。そこから更に発展し、現代では文化として捉えられている。オタクはもともとサブカルチャーを愛する人間を指していた言葉が、紆余曲折を経て社会性やコミュニケーションに難がある人間を指すようになったものの、近年では再び何らかのコンテンツの愛好者という意味で使われている。どちらとも生活様式と、それを身に付けた文化、アイデンティティとしてのニュアンスもある単語だ。

 「優しい」には「優しい顔立ち」などの優美の意や、思いやりがある、「環境に優しい」など刺激が少ない、悪い影響を与えない、さらには「優しい操作」など簡単という意味もある。概してその存在を認めつつ尊重し、排除しないようなニュアンスが含まれているようだ。「一緒にいる」状態は「同じ場所を共有する」「同一な」「共に」などの意味がある。

 「オタクに優しいギャルと一緒にいる状態」とは、オタクという生活様式をもつ人間を尊重する、ギャルという生活様式をもつ人間が同一の状態にあることをいう。他人は簡単に裏切る。しかし、自分だけは、自分が裏切ろうと思わなければ、自分自身に素直であり続ければ、絶対に一緒にいてくれる。オタクに優しいギャルと一緒にいるいちばん確実な方法は、自分自身がギャルであることである。

ギャルは自分最推しオタクである

 さて、ギャルになるにはどうすればいいのか。まずはギャルの生活様式を研究することである。研究することは存在を認め、理解し、愛する姿勢だ。「推し」という概念があるように、愛することはオタクのすることだ。オタクとは愛する姿勢だ。究極的には「植物になりたい」「空気になりたい」と自分の外側にある対象に向けて、極度に自分の存在を滅ぼしてでも愛していく。ギャルのオタクになればいいのだ。

 ギャルは、ときに他者から受け入れがたいこともある特異なファッションやメイク、行動を取ることがある。これは「自分は最強だ」と、極限にまで自分自身を愛して素直になり、それを自分自身の身体を使って表現しているからだ。もはやそこに他者の目や承認は必要ではない。「かわいい自分は最強」である。オタクが自分の外側にある対象に対して愛を注いで薄い本を出版して表現するように、ギャルは自分自身に愛を注いで、自分自身を表現する。ここに「愛があふれて表現する」という一致点が現れる。ギャルは自分へのオタク、オタクは他者へのギャルである。

 ギャルの行動様式を研究したオタクがすることは、自分がギャルになることである。ギャルという自分の外にあった愛の対象を、自分自身で表現してしまう。同時に、ギャルに向けられていた愛は自分自身に向けられる。その瞬間、自分自身を愛するがあまり「かわいい自分は最強」と自分の存在で自分を表現するギャルが爆誕する。自分はオタクであり、ギャルであり、全てを愛する「オタクに優しいギャル」が誕生するのだ。

オタクのギャル化はもう当たり前

 さて、現実的な方法でギャルになるにはどうすればいいのか。現実にギャルのファッションをすることに抵抗感がある人もいるかもしれない。そこでVRメタバースを使ったアバター表現の登場だ。VRChatでギャルになればいい。Boothで気に入ったアバターを購入するなりして、研究したギャルのファッションを、アクセサリーや服、メイクのテクスチャで表現する。ヘッドマウントディスプレイを被り、VRのなかで鏡や自分の身体を見れば、自分はギャルであるように感じる。

 次に、ギャルの行動様式を取り入れてみよう。しゃべり方やしぐさに始まって、最近のギャルのようにTikTokを始めればいい。最強にかわいい自分を表現をしたら、縦長動画で余すことなく見せたくなるのは、もはやギャルの精神だ。流行の曲を探して、ダンスを練習し、TikTokに投稿する。現在、少なくない人間がVRアバターを使ってTikTokにショート動画を投稿している。オタクがギャルになることが当たり前な時代は来ている。

肉体がどうした?お前はギャルだ

 私はギャルではないものの、ずっと女の子で在りたいと思って生きてきた。10代の子向けのファッション雑誌「Seventeen」を定期的に購読し、InstagramやTikTokなど、最近の女の子がやっているソーシャルサービスを始め、研究し、アバターのスタイルや行動、表現に取り入れてきた。最強に女の子をしているかわいい自分は最強である。リアルの方の服装にも流行を取り入れ、女の子としてのリアルの状態のクオリティも同時に上がってきているように感じる。どこまでも自分を女の子にしていきたい。その方が人生が楽しい。

 肉体なんて関係ない。人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ。一度しかない短い人生、私は私をやっていく。私は私だ。しかし、まだまだ研究は足りていないことも感じる。これからも時代を追い続けてどこまでも女の子をやっていきたい。自分の憧れと、自分ら見た自分の現在と、他者から見た自分自身が一致し続けるように。

 アバターは表象でしかないが、行動様式までギャルになってしまえば、もうそれは事物としてのギャルである。現在の私も、私の憧れるギャルも、それを見た人間も、私をギャルだと感じる。それはもう存在としてギャルである。

 果たして、心までギャルで武装したオタクに、オタクに優しいギャルは必要なのだろうか?

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