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アバターへ肉体属性の強制は人権侵害!?相互理解にはむしろVR - VRCC1を受けて

 VR・アバター文化の敵は反差別ではないし、反差別の敵はVR・アバター文化ではない。VR・アバター文化も反差別も、根元には共通して「自己実現の自由」を拡張/保障していこうという発想がある。VR・アバター文化は科学技術によって人類全体の領域を拡張することで、反差別は社会的な価値観や仕組みを改善することで、それぞれ違うアプローチで人類の自由拡張を目指している。自由拡張という元来の目的を忘れ、他者の自由を「気に入らない」と脅かすようになった瞬間に、思想は凶器に化ける。我々人類を苦しめているのは「人間の敵は人間で、倒さなければならない」という属人的な価値観だ。むしろVRには相互理解を進める力がある。ツールを縛るのではなく活用しよう - と私は思っている。

 NPO法人「バーチャルライツ」(SUKANEKI代表)は、VR市民と専門家の意見交流会「VR Citizen Conference #01 with xRAM」を4月24日に開いた。大田区議会議員でVTuberおぎの稔氏はじめ、AFEE代表坂井崇俊氏、法務博士VTuberじゃこにゃー氏らが出演。「VR文化と表現の自由」をテーマに議論し、YouTubeで限定配信。約150人が視聴した。

 配信では、日本国憲法制定により「表現の自由」が保障されたことからはじまり、2000年代まで根強かった制度による規制、10年代に見られた人権を根拠としたもの、直近でみられるプラットフォーマーによるものなど、近年の表現の自由を巡る経緯を紹介。次にVRやアバター文化が標的にされたSNS上の炎上問題を取り上げた。

 「欧米では、自分の人種や性別と違うアバターをまとうことは差別に当たるという指摘がなされつつあり、ヘッドセットの実名性SNS連携などの形で日本にも影響するのではないか」という懸念が示された。配信には専用のタグ#VRCC1 があり、私がこのことについて感想をツイートしたところ、おぎの議員にリツイートされ、200リツイート以上の拡散があった。

 VRやアバター文化を抑圧する可能性のある「生まれながらの属性しか使うな」的な発想は「肉体の属性をその人に押し付ける」という人権侵害的な考えと言えるんですよね。これはある属性がある人間が、その職業を選べないとかと同様の問題で、女性差別とかと同じもの。
#VRCC1

 おぎの議員のフォロワーの間に広く拡散はされたものの、反応した多くはVR文化とはあまり関わりがない政治的発言を好む層だっだ。個人レベルでの自由実現について語った発言であるにも関わらず、肯定的な内容には、特定の政治思想を持った人間全体を貶めるものが目立つ。

 私は人間の自由を拡張し、誰もがより創造的な人生を楽しめる世界を作りたいのであって、人類の派閥争いに巻き込まれたいわけではない。表現の自由派とフェミニスト、伝統を押し付ける保守派という派閥があるのではなく、人間の創造的な自由を尊重できる人と、できない人がいるだけだ。できないならば、できるようになればいいし、私もできる人が増えるように、考え方を広げる努力をしていきたい。そのために怪文書を書いている。

 VR技術により自由な存在になれるようになることは、「入れ物としての肉体」と、「自由な自分としての存在」を分離できるようになることを意味する。今までの技術では、肉体と存在は分離することが不可能だったので、肉体の属性がそのまま存在の属性となっていた。しかし、技術的に可能となった現代において、自己実現の要素として変更が可能となった属性や見た目を個人の意思とは無関係な肉体の性質により固定化し、強制することは、職業選択や学問の自由など自己決定権を、性別や障がいを理由として保障しないという差別的な取り扱いと本質的に変わらないと言える。我々には、自身の肉体そのもので自分らしく生きる権利もあれば、自身の肉体から解放されて自分らしく生きる権利もある。自由の幅を広げているに過ぎない。

 「入れ物の肉体の属性」を自由の主体としての個人から分離することは、現実世界においても履歴書から顔写真や性別、年齢の欄を無くそうという動きに現れている。これも欧米で広がりつつある反差別の動きであるものの、個人レベルでの職業選択の「自由の保障/拡張」を目指す方向性があるため、アバター表現の自由を抑圧する動きとは正反対にある。また、同性婚や夫婦別姓の実現、交通機関のバリアフリー化に向けた動きも、属性に囚われない個人の自由の実現に向けた動きだ。属性という概念が必要となるのは、個人レベルでの自由を保障するために、その属性に由来する不便な点を解消するため「配慮・支援する」という目的がある場合だけだ。 人類は「誰が言ったか」ではなく、「この発言により何を実現したいのか」をベースに考えなければ、不毛な戦いを終わらせることはできない。

 どのような属性の人間にも、自分自身のものを含めたあらゆる属性として存在する権利があるし、これを制限して良い理由はない。しかし、その属性になるのならば、その属性に対する理解とリスペクトは必要だ。自分の肉体の属性のまま生きると決めた人は、元来からあったその属性を大切にしながら生きているからだ。その人たちを攻撃する目的で属性をまとうのならば、「創造を尊重できない人」と変わらない。でも、「私は私の創造的な人生を生きるために、この属性と姿を自分の意思で選んだ」のだったら、これは最高のリスペクトだ。自分の好みで選んでも、あとから理解しようとすればいい。

 最近、VRChatにVoxelKei氏が「近視を体験できるワールド」を作った。視界がぼやけていて眼鏡をかけるとすっきり見える仕組みになっている。VRに「属性を選べる力」があるならば、「その属性特有の苦しみ」を体験できる力だってある。本人の主観に強く依存しないと表現できない「その属性特有の苦しみ」を、みんなで話し合いながら興味を持たれる方法で表現することができるのならば、これを活用しない手はない。もし、「その属性特有の苦しみ」の理解を進めるワールドと、誤解なく説明できる人がVRの世界に興味を持ってくれたら、一緒に体験イベントを開きたい。

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