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羊角の蛇神像 私の中学生日記②

引き裂かれた兄弟

一時保護所には集会室という広い部屋があった。
私たちはそこで食事を摂り、テレビやビデオを観た。
なぜかよく南こうせつのCDがかかっていて、「妹よ」や「神田川」をすっかり覚えてしまった。

ある夜、集会室で泣いている子どもたちがいた。高校生と中学生の男女だった。
2人の姉と弟の、3人兄弟である彼らは、元々いた児童施設が閉鎖されることになり、引っ越し先の施設を調整する間、保護所に入っていた。
彼らの背景は知らないが、普通の家庭における兄弟とは違う絆があったのだろう。仲の良い兄弟たちだった。
次の施設でも3人で暮らすことが彼らの願いだったが、それは叶わなかったようだ。
大人たちがそういう決断をくだした時、彼らは絶望の中で泣くことしかできないのだった。

私は高校生の時に児童施設に入所したし、大人になって福祉に携わったので、彼らがばらばらの施設に入った事情もわかる。

施設は、入所した児童の年齢や支援度によって収入を得る。その収入は施設の維持や職員の給与となるため、ある程度児童が入所していないと経営ができない。
そして、施設には定員がある。児童が多ければ多いほど収入が増えると思うかも知れないが、定員超過は補助金の減算対象となるし、職員の負担が大きい。何よりも、そこで暮らす児童の生活の質が下がる。
こういった背景があるため、3人分の空きがある施設が見つからない、そういうタイミングもある。

同学年の子どもたちが一度に学校を卒業してひとり暮らしや共同生活(グループホーム)を始めるなど、タイミングが合えば、彼らが揃って施設に入ることができたかも知れない。

あるいは、支援上の何かしらの理由で意図的に離れ離れになったのかも知れない。例えば依存度が高過ぎて社会生活に支障があるとか、不適切な関係があるとか。

とにかく13歳の私は、同じ年頃の兄弟が引き離されるというつらい現実を目の当たりにしたのだった。
そういう、ドラマなどでしか観たことの無い現実が、本当にあるのだ。

先生 その1

一時保護所には、子どもたちの世話や教育に当たる先生たちがいた。個性的な先生たちとのいくつかのエピソードを紹介する。

男性の先生が3人いて、彼らのことはよく覚えている。

A先生は、眼鏡をかけた端正な顔立ちをしており、水泳で鍛えた見事な逆三角形の体格を持つマッチョだった。しかし、頭髪が薄いことを自虐的に話すし子どもたちからも「ハゲ先」と呼ばれていた。
明るくてさわやかで話が面白かった。
今思えば3人の先生の中で、A先生は最も子どもに優しく適切な職員だった。

ある時、A先生が「さいたまんぞう」の話をした。
岡山県出身なのになぜかさいたまんぞうという名前で、なぜか「なぜか埼玉」という歌を歌っている。

奇面組に出てきそうな名前が面白くて、男子しかいなかったその場で中学生らしい冗談を私は言った。

女の人だったら「さいたまん子」やね

先生は日焼けした顔を少し赤らめたあとで、私の頭を拳骨で殴った。痛かったが私たちは笑った。
そういう時代だった。

先生 その2

ニキビのようなでこぼこのあるでっかい角張った顔で、メガネの奥に冷たく澱んだ目の光るB先生は子どもたちに恐れられていた。
彼はよく冗談を言い、特徴的な話し口調が面白かったが、その本性が残忍だと子どもたちは知っていた。

ある晩、自分が注意をした女子に反抗的な態度をとられた彼は、ひどく怒り、その子に暴力を振るった。
殴る蹴る、引きずり回すの暴力が数十秒間続いた。
その子は泣きながら「ごめんなさい!」と何度も懇願した。

そういう時代だった。

家庭や学校で体罰は当たり前のものだった。
あるものはその時代の体質の中で、それでも子どもたちの将来を憂い、心を痛めながら手を上げた。
そうしてあるものは、その時代にうまく溶け込み、自らの嗜虐心を満たすのだった。
頬を打たれ、拳骨を喰らいながら子どもたちはいつもそれを見極めていた。
汚い大人が誰かを私たちは知っていたのだ。

今の世の中であれば、体罰そのものが許されないだろう。しかし、当時、A先生の拳骨には愛や人間みを感じた。
凍りついた時間の中で傍観したB先生の暴力は、歪んだ獣性を帯びていた。

先生 その3

Cという職員は顔が寺尾聰に似ていて、飄々とした、穏やかそうな空気をまとっていた。
厳しい叱責や体罰を積極的にするタイプの人間ではなかったと思う。

しかし私はCのことを誰よりも憎んでいた。今でも憎んでいる。

次回はCが私に放った呪いの言葉について書く。

羊角の蛇神像 私の中学生日記③へ続く。

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