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【Essay】私とあなたの identity politics、私と私の identity politics。

名乗りあげ、名付けられ、紡ぎ上げられていく。

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国家と民族の identity politics。

以前、東南アジアの地域社会論の授業で「国民形成における名乗りと名付けの相互作用」というレポートを書いたことがある。様々な民族集団が自らの市民権や政治的権利を主張する中、国家はその要求をどのように受け止め、制度化し、「国民」概念が形成されていくのか、授業で取り上げられていたミャンマーと自分の専攻地域であるタイを比較して書き上げた。評価は良かったものの、自分としてはまだ深められると思い、別の学期に開講された東南アジアの文化人類学にて、同じテーマを大幅に書き直す形でレポートを作成した。

それぞれの民族集団は自身の正統性や価値観への理解、そして政治的な権利を求めて活動する(名乗り)。国家は自分たちの視点からの「国民国家」の価値を維持しようとしながら、民族集団からの要請と擦り合わせ、枠組みを作っていく(名付け)。

今考えてみれば、自分はレポート執筆という機会を使って、タイの国民形成における「名乗り」の機能不全を論じたかったのだろう。

ただ、詳しくはここでは話さない。

それぞれの集団が自身の存在を、価値観を、権利を、関係性を主張し実現しようとすること、それを政治学者は identity politics と呼ぶという。もちろん、政治学という一学問の用語であるために、アカデミックの世界では厳密な定義もあるだろうし、当然ながら概念としての成り立ち、そしてこの言葉を使用する際の「お作法」が存在する。

しかし、この identity politics という言葉を一段、棚卸ししたとき、それは自分たちが誰かとの関係性を省みるときのスコープとなり得るはずだ。

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私とあなたの identity politics。

人は自分を貫きたい一方で、誰かと繋がっていたいと思う生き物だ。誰かと繋がるときの、その繋がり方は「関係」とか「関係性」とかと呼ばれている。考えてみれば、自分たちの周りにはいろいろな「関係性」が溢れている。親子、夫婦、きょうだい、親友、友達、恋人、知り合い、赤の他人。全てが区切られているように見える。全てに説明書きがつけられるように見える。本当にそうだろうか?

あなたは今、恋人と付き合っているとしよう。あなたの思っている「恋人」という関係性と、お相手が思っている「恋人」という関係性は、果たして同じだろうか?そしてあなた方がそれぞれ思っている「恋人」と、世間一般にそれとなく当たり前とされている「恋人」は同じだろうか?そもそも、「恋人」と「親友」の違いは?「友達以上恋人未満」って何?それぞれが抱いている「恋人」像をぶつけ合って、擦り合わせて、バランスが保たれたとき、初めて《恋人》同士になれるのかもしれない。

と言いつつも、私のあなたの identity politics が浮き彫りになるのは、付き合いたての恋人同士よりも、別れ際の恋人同士なのかもしれない。誰かと別れるときに、「あなたとは『恋人』なんていう陳腐な(!?)関係性を超えて、一緒にいたかった」と何回思ったことだろうか。恋人を超える関係性とは、別に夫婦だとかそういう意味ではない。ただただ、なんでも話してなんでも聞ける、そんな拠り所であってほしかったのかもしれない(僕の友人の言葉を借りれば、『超恋人』1? いやいや、いくらなんでも…笑)。でも「あなた」はそれを望んでいなかった。あなたは昔と変わらない「恋人」という関係性を「私」に求めていた。その関係性に、「私」はもう息苦しさを感じていたというのに。

と、一通り、私とあなたの identity politics を描いてみた。「私」の求める「関係性」と、「あなた」の求める「関係性」のせめぎ合い、その相互作用で、人との「関係性」は成り立っているし、崩れてもいく。

一方で、「関係性」を、ある誰かとの繋がりにおいて成り立つ自分と考えられば、ある「関係性」を求めることは、それは自分のある「あり方」を求めていることになる。今の自分のあり方と、今の自分のありたい自分、そして他の誰かに求められる自分のあり方。そのせめぎ合いは、もはや「私とあなたの identity politics。」とは説明できない。

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私と私の identity politics。

私にはなりたい自分がある。誰かに認められていたい自分。誰かのためになりたい自分。でも、それとは釣り合わない自分がいる。本当は暖かい布団の中で一日中寝ていたい自分。自分一人で悠々自適に暮らしていたい自分。

本当は海外に行って自分のやりたいことをずっと勉強していたい自分。その一方で、家族の一員として他の家族の面倒を見なければいけない自分。自分と自分のせめぎ合いは、誰かとのせめぎ合いよりも辛くて、苦しい。そういうものなのかもしれない。

その内なる葛藤に、自分は人を見出したい。他人の内なる葛藤に、自分を見出したい。それが、研究者を志す自分の原動力になっているのかもしれない。

そんな自分も、内なる葛藤を抱えている。すでに他の誰かが考えているような古臭いことをこれだけかければ分相応だと思っている自分、本当はもっと中身のある文章を書きたい自分。

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