令和をサバイブする、清少納言。
平安時代に生きていたら、もうちょい社会に馴染めていたかもな。
30字くらいの心のはきだめをInstagramにつづりながら、テキストにあう画像をセレクトしていたときに、ふとそんな考えが舞いおりてきた。
たしか、大学3年の2月頃だっただろうか。
今でこそ、エッセイや内省などいわゆる自分の内面をさらけ出している人たちをフォローしては勇気をもらう毎日だが、
その頃は、自分の考えやモヤモヤを語っている人は、メンヘラ=病んでいる系とカテゴライズしていたような気がしている。
あくまで、わたしとわたしのまわりにいた周囲の発言を受けて、感じていた空気感にすぎないが。
この通り、心に浮かんだことを書き留めずにはいられない自分にとって、メンヘラではないと自分に言い聞かせながらも、SNSで発信し続けている「矛盾」した現状に、内心ヒヤヒヤしていた。
やめられない、とまらない
そんなコピーが添えられて、酒のつまみや三時のおやつに大活躍している、かっぱえびせん。30字のテキストを綴ることは、わたしにとっては、ビールを片手に無意識にかっぱえびせんをむさぼるようなもの。
なるほどな。令和という時代の風潮が、わたしのこの習性を受け入れてくれないだけであって、
紫式部や清少納言のように、自分の思いをどれだけ優れた言葉、かつ五・七・五という限定された文字数で綴れるかを重要視していたはずの平安時代に生きていたら、
むしろわたしは熱心に歌を詠みたい模範生どころか、マジョリティに分類されていたのか。生まれてくる時代を間違えてしまったな。
妄想は宇宙を超えて、結局はなんとも痛々しい解釈に落ち着いていた。とりあえず赤裸々に書いてみたが、何度振り返ってもやっぱり痛々しい。
限られた文脈で捉えると異端に思えることも、時間軸をはずすことで救われることもある。痛々しいながらも、こんな感じで、物思いにふける真っ当な意義のようなものも見出していた気がしている。
昔から、謎に百人一首に取り憑かれ、大会であいつに負けてたまるかと練習をしていたり、相手チームのあの子と月一くらいで文通をしていたりした。プリ画像という画像とテキストの素材や作品があつまるサイトをひたすらみる、そんな時代もあった。
いつの時代を振り返ってみても、いかにも平安時代でウケそうな振る舞いを、心から楽しんでいる自分がいた。いと、をかし。
ここ数日、言葉をいろんなところで放出するようになってから、あなたの言葉、いいね!と言ってくれる人が増えた。
こんなギリギリを彷徨いながら生きている思想をのぞき見してもらっているゆえに、リアルでも会おうね!楽しみにしてる!とも言ってもらえるのだから、とてもありがたい。
平安時代の自分も悪くないな。そう思いながら、noteの連続投稿3日目をむかえる。
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