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自分のはなし 前編

初めまして。

Lamaと申します。

コロナがなければ今頃北京在住の駐妻、、、
でしたが
こんな状況なので、中国に戻ることをやめて、日本に帰ってきました。

今回は帰国子女→留学生→駐在員→駐在妻と、
私のたどってきた歴史を共有したい思います。

少しでも参考になれば嬉しいです。

私は小学校5年生(11歳)まで日本で育って、その後高校1年生の途中(16歳)までアメリカのNew Jersey州というところに住んでいました。

私が子供の頃は、英語は中学生からやる科目と言う感じで、今みたいに赤ちゃんの頃から英語に親しみましょう!みたいな空気ゼロの時代。
父の駐在が決まってから慌てて翻訳家のご近所のおばさんに英語を習ったものの「ハロー」と「サンキュー」、「ディスイズアペン」くらいしかわからない状態でいきなり現地校に放り込まれました。

ローマ字は国語の時間に習ったけど、アルファベットはまだ怪しいレベル。
当然教科についていけるわけもなく、毎日英語の勉強です。


私が住んでいた町は日本人が比較的多くて、英語があまりできない韓国人や他の国の子供が少々いたので、人種が違って全くのアウェイ感ということはなかったけど、逆に英語ができる日本人・アジア人の子たちにものすごい劣等感を感じていました。
お腹をよく壊していたけど、今思えばあれは子供なりのストレス信号だったのかもしれません。

でも英語をやるしかない。

私に選択肢はありませんでした。

とにかく必死で勉強してました。
アルファベット、筆記体、幼稚園児向けくらいの
ものすごい簡単な読み物の本からのスタートでした。
知らない言葉は全部調べるので辞書は必須。
当時は電子辞書もなかったので、分厚い英和辞典を持って学校に通っていました。

何を言っているか理解できるようになってきたのが半年ほど経ってから。
それでもまだ自分の言葉は発せられません。

だんだん話ができるようになったのは1年経ったくらいから。
同じように韓国から来たばかりの女の子と友達になり、
家に帰ってからも毎日何時間も電話でおしゃべりしていました。

アメリカにいく前はクラスのリーダー的な存在で勉強もできたのに、今は落ちこぼれで、クラスの中では空気のような扱い。

言葉がわからないことよりも、
自分のセルフイメージと現実のギャプが本当は苦しかったのかもしれない。
韓国人の親友とは母国にいた時いかに自分が輝いていたか、毎日そんな話ばかりして慰め合っていました。

きっとこれが功を奏したのでしょう。
3年目くらいからは辞書が必要ないくらいになりました。
英語ができない子向けのESLクラスに入っていたのが、全て一般のクラスに出席することになり、そこで成績優秀者で表彰を受けました。

今はどうかわかりませんが、当時のアメリカの学校って、毎学期の成績でAがたくさんあった子はみんなの前で表彰されるんですよね。とてもいい制度だなと思う。日本はスポーツで頑張った子は運動会でヒーローになれたり、表彰されるのに、抜群に勉強できても全然褒められない。絶対に勉強も表彰すべき。

話を元に戻すと、成績優秀者の表彰は実は渡米2年目くらいから何度も受けていました。でもESLにいたから、「あの子は贔屓されていて実力ではない」って思われてたし、はっきりそう言ってきた子もいた。だから本当に悔しくて、ESLを抜けて初めて取ったHonor Rollでたった表彰台が本当に嬉しかったことは今でも忘れられません。

アメリカで過ごした4年目、5年目は本当に楽しかった。ハイスクールに入って新しい友達がたくさんできて、入っていたマーチングバンドでフロリダに演奏旅行に行ったり、今の自分からは何も出てこないけど、当時はスペイン語で日記も書いていたし、車が運転できる年上の友達と夜遊びしたり、シェイクスピアを読んで、ギリシャ神話と日本の神話との相似についてエッセイを書いたり、すごく刺激的な青春時代を送りました。

THE  END

そこで終わってしまったのです。

父の駐在の任期が終わり、日本に帰ることになりました。

当然私は帰りたくなかったけど、そんな選択肢はありませんでした。

日本に帰ってからしばらくは毎日DayDreamingという感じ。
編入した学校は国際教養科という特別学科で帰国子女がクラスの半分くらいいたので、普通科にはないアナーキーな雰囲気にかなり救われたものの、アメリカの全てが懐かしくて、帰国子女の他の友達とは英語で話したりしてました。

でも、日本の学校の勉強も大変だった!!

高校1年生からの途中入学です。

化学の授業も、古文のクラスも私にはちんぷんかんぷん。

担任の先生のご配慮で、毎日私だけ居残りで化学と古文はマンツーマン授業を受けていました。社会は「現代社会」という緩い科目だったのと数学はなんとか追加授業を免れました。

ということで、受験勉強が始まります。

英語だけは当時の高校生の中では負ける気がしないレベルだったのですが、とはいえ数学が絶望的でした。定期テストの点は取れるのですが、応用が効かないんですよね。
高校3年生の夏、数学だけは一生懸命勉強したつもりが、二学期最初の実力テストで玉砕しました。
心が折れるってこういうことだなと思うくらいショックでした。
才能だけじゃなくて要領悪い努力だったかもしれません。

結局3年生の12月に国立大学の推薦入試にギリギリの成績評点4.3以上を家庭科の先生や体育の先生に拝み倒して獲得し、小論文と面接を経て無事合格することができました。

大学では世界中に旅したり留学したりしている先輩方に刺激を受け、1年間の北京留学を決意。英語は話せるから、中国語を話せたら、地球上の人口の半分くらいと会話できるという単純な理由でした。

1999年に留学した当時の中国はまさにこれから発展しようという段階で、貧しい国でした。

携帯もなく、近くの大学にあったネットカフェで

ピーヒョロロロ~

っとログインするのに5分くらいかかりながらメールを見たり、まだ当時の人民には高級だったマクドナルドに行くのが息抜きでした。

肝心の行った留学先は日本人留学生しかいない学校でした。しかも語学を真面目にやる、というよりもなんとなく日本の受験勉強から逃げてきたようなやる気がないメンバーがほとんど。
語学は努力と環境、という刷り込みがある私にとってこれは致命的な問題でした。ここにいても成長できないとすぐに転校を決意して学校を探しました。

インターネットもほぼない時代の中国、北京の北半分くらいを自転車で1ヶ月近く爆走して、留学生科はないかと直接押しかけて転校先を探して回りました。

無事、二学期目からは日本人がほとんどいない学校に替わり、(北朝鮮とパキスタンからの留学生がミサイルの研究していた(笑えない))もそこでなんとか当時の中国語検定(HSK) 8級に合格してから帰国することができました。

この後のお話はまた続きで。

Ciao!

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