すべてに価値も意味もないという救い

 誰かに呟いた言葉は、ただ自分を投影して、自らに言い聞かせているに過ぎない。何かに意味を持たせるのも勝手だし、祈ったり救われたりしたような気持ちになるのも勝手だ。大丈夫だよ、そのままで愛おしいよ。それは、本当は自分が与えられたかった、心だ。
 自己肯定感も元々抉られているから、自分が紡ぐ、心理カウンセラーのような言葉に、本質的な解決力などないと知っている。無価値な唇から出てくる言葉に、少しでも寂しさを溶かして救われてくれるのは、あなたたちの優しさであり、尊さだよ。決して私の力などではない。
 自己肯定感と他者の承認欲求を満たすことは、全くの別ものだ。だからこそ、自己を肯定も承認も、まして許容もできていないのに、「あなたの存在価値を私は知っているよ。だからそこにいるだけで十分なんだよ。」なんて、イノセントな声で伝えてしまう。その無謀さは言い換えれば精神的な自傷で、最後にべこべこに打ちのめされるまでで一揃えだ。誰かの(個人的な)カウンセリングをする行為は、どこからどうみたって、見捨てられ不安の結果だ。嫌いな人にも嫌われたくない。まして、こちらを頼ってくれる人からなんて、もっと見捨てられたくない。だからこそ、自分が言われたかった言葉をかき集めて、かき集めて、与えられたかった声音で伝えてゆくのだ。救おうだなんて大それたことは思っていない。それが、結局相手の一時の寂しさを少し溶かして、有耶無耶にするだけのものだと知っているから。何の解決もしないからこそ、そういうループを延々と続けていって、最後に無力感に疲弊するのだ。何度同じやり取りをしたところで、いつもあなたたちは同じところに戻ってくる。
 自己肯定感などというものは、読んで字の如く、誰かが与えてなんてやれない。誰か彼かからもらった、承認と称賛のかけらを、ひとつひとつ自分で集めて、あたためてゆくしかない。抉れてしまった部分をそうして埋めて、ようやく得られるのだ。かけらの大きさは、受け手の感じ方に比例していて、だから、私が尽くして伝えていった言葉の積み重ねより、愛おしい人に恋心を認められたその一瞬の方が、はるかに、あなたたちを生かすと知っているよ。

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