誰かの特別でありたいと祈った

 部屋の隅に積み上がった箱を潰し、紐で縛った。もう着ないであろう服や靴をビニール袋に詰め込んだ。いつのものか分からない葉書を、びりびりと細かく破いて、それもまた袋に入れた。あの頃あんなに欲しがっていたはずの髪留めは、いつの間にかどこかへ紛れ、知らぬ間に変色し、そうして今捨てられてゆく。終わりはいつも突然のようだけれど、本当はいつだって隣にあって、皆そのことを知っている。ただ、その曖昧さに想像力を欠かして、簡単に忘れてしまえるだけだ。くたりとした衣類を押し込み、袋を縛る。何枚目かも分からない新しい袋を開けようとしたとき、指先の油が持ってかれているのを感じた。何とか開いたビニール袋に、数回使われただけで興味を失われた、大量のメイク用品たちを入れてゆく。消費と浪費の境界はいったいどこだったのだろう。そうして、山のように積み上がった大事にできなかったものたちを、何度かに分けてゴミ捨て場に捨てた。最後にはがらんとした部屋が残って、私が私であったことも嘘だったように思えて、少しだけ嬉しかった。

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 「そんなに欲しいものがあるの?」
惰性と祈りで伸ばしすぎた髪を編んでいると、幼い子どもの声がした。ひとりきりの朝。誰かを招き入れた記憶も、誰かが入ってきた音もしなかったのに、まるで当然のように、背後から声がした。
「長い髪の毛で、何を祈るの?」
声はもう一度問いかける。変声期を迎える前の少年の声のようだった。編みかけの髪から手を離し、振り返る。そこには白い、小さな鹿が座っていた。長いまつげを瞬かせながら、赤い大きな瞳でこちらを見ていた。兎みたいな色合いの鹿が、私を観察していた。
「髪の毛は、願いをかけて伸ばすんだって、僕聞いたよ。」
私の返答を待たずに、彼が続ける。その口元は動いているようにも見えたが、声帯から音が出ているようにはどうにも思えなかった。
「だあれ?」
「名前は教えちゃいけないって先生に言われてるから、教えられないんだ。あ、今日はね、社会科見学で来たの。」
無邪気な声だった。
「で、お姉さんは、一体何を祈ってるの?」
純粋な好奇心。
「長い髪の毛が全て願掛けとは限らないよ。」
私の返答が意外だったのだろう。彼は目をまん丸くして、うーん。と唸った。
「でも僕、聞こえたよ。」
「何が?」
「お姉さんが必死に縋っている音。」
天界とやらにも、社会科見学なんてものがあるのだろうか。そんなことを考えていた。
「そう。」
「僕はまだ子どもだから、何を祈ってるのかは聞こえないけど、でも、音は分かるよ。」
好奇心を隠そうともせず、彼は続けた。
「ねえ、教えてよ。」
「教えたら、叶えてくれるの?」
彼は何度か瞬きをして、何かを決意したようにすくっと立ち上がった。美しい仔鹿は、立ち上がってもやはり小さかった。
「僕、まだ子どもだから、あんまり色々できないけど、でも、」
「でも?」
「お姉さんがどうしてもって言うなら、叶えてあげられるかもしれない。」

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 埃っぽい部屋に風を通すと、顎のあたりで切りそろえられた髪が揺れた。
「これで終わり?」
「うん。」
「じゃあ、行こっか。」
少し身体の大きくなった白い毛並みを撫でると、バチがあたるよと声が返ってきた。
「いいじゃない、全部なくなるんだから。」
「全部なくなるのに片付けるなんて、ほんと、おもしろいね。」

 もう来ない明日が、祝福で許しだった。

 

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