どんどん曖昧になって忘れてゆく(そう望んだから)

 溶けて全部わからなくなる。境界が曖昧になってゆく。私で在る苦痛が少し和らぐ。その代わり、希死念慮がその色を濃くする。
 本当は。死にたいだとか消えたいだとか、そういうことではない。ただただ中身が私であることが堪らなく耐え難いのだ。後ろにできてしまった道や、おそらくこれから辿るであろう道、それから残った記憶と性質。そういう自分を構築する全てが耐えられない。自己肯定とか自己嫌悪とかの問題ともまた違って、許す許さないもどこにもなく、別段自身を好きだとも嫌いだとももう思えない。この中身が不憫で虚しい。それが一番近いように感じる。
 その耐えられなさを誤魔化すために、少しでも誰かの役に立とうとする。そうして臆病で死ぬことのできない自分の中身を正当化してみたりして、今度は浅ましさを足してゆくのだ。

 救いになってほしいと言われれば、その役を演じてみたこととあった。けれど、果たしてそれが救いになれていたのかはもう、ずっとずっと分からない。分からないまま、記憶は掠れて曖昧になって、溶けてゆこうとしている。あの頃を思い出せば痛んだ胸も、もう痛まず、残酷なほどにいたたまれなさも残らない。
 だからきっと、なれてなどいなかったのだろう。救いになったふりをしていた。おそらくそういう一時の、その場凌ぎであったのだろう。
 だから私は、別に誰か彼かからの救いなど求めていない。望んだこともあったようにも思うけれど、全部霞んでしまった。
 今の話をすれば、そういう傲慢な高望みはもうしていない。誰かに縋りたい思いも、期待してもらいたい気持ちも、褒められたい心も、誰かに頼られたり隣で生きたりすることを許されたい傲慢さも、全て諦念で丸め込んだ。そうして飲み下した喉の奥の奥、胃の中できっと黒くこびりついているのだろう。だからたまに胃が気持ち悪くなったりして、吐き出せない苦しさに胸元や腹部をさすってみたりする。「大丈夫大丈夫、私は大丈夫。がんばれ、がんばれ」そうやって胸の内で唱えて呪文をかける。誰かに頼ってはいけないし、無駄な迷惑もかけてはいけない。自分の足で立って、生産をし、何かに依存しない。強くなくても弱くてもいいが、何かに依存してはだめだし、甘えや赦しを乞う傲慢さも抱いてはいけない。
 「ひとりでしかいられないのは選択の結果なのだから、がんばれ」そうやって毎日自分を呪いながら、捨て去りたい中身を増幅させている。

 いつになったら私は私を忘れることができるのだろう? これまでのことも、持っている名前も、全部全部忘れてしまえるのだろう。本のページが終わるように、私の中身も早く終わればいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?