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第一章 価値と適合性 1 価値における相対性と客観性

〈価値〉は、ある対象の〈価値〉である。しかし、どんな対象が〈価値〉の問題を持つのだろうか。認識論的に容易に対象化されうるいわゆる〈物〉のほとんどは、〈価値〉を問題にできるであろう。忘れてならないのは、多くの物事とその変化を関係的に含む〈事〉も〈価値〉を問題にできる、ということである。たとえば、保守政治や社員旅行なども〈価値〉が問われうる。そこで、〈価値〉が問題となる対象を、一般的に〈物事〉と呼んでおこう。

一方、逆に、〈価値〉を問題とすることができない物事というものはあるのだろうか。これは、〈価値〉がない、ということではない。あるともないとも言えない、ということである。この問題は重要ではあるが、標準的な事例の分析があきらかになってからでないと、論じることは難しい。そこで、ここではとりあえず、〈価値〉を問題とすることができる物事だけを対象として考えることとする。

さて、たとえば犬を飼っていない人にとって犬小屋は〈価値〉がない。このように、〈価値〉がない、ということがある、ということは、また、〈価値〉がある、ということが、物事の恒常的な本質などではなく、むしろきわめて限定的な現象である、ということを示している。では、〈価値〉はどのように限定的なのだろうか。

この例からもわかるように、〈価値〉は、主体や状況に対して相対的である。物事に絶対的に〈価値〉があるかのように思えることがあるのは、主体一般や状況一般に対して、もしくは、すべての主体とすべての状況にとって〈価値〉がある(かのように思える)、ということであって、〈価値〉を付与する主体や、その〈価値〉を支持する状況なしには存立するものではない1。

ところで、〈価値〉が主体に対して相対的であるということは、〈価値〉が主観的である、ということではない。犬を飼っている人に対して犬小屋は〈価値〉がある、ということは、犬を飼っている多くの人々に聞いてみるまでもなく、客観的にあきらかである。というのは、犬を飼っている人に対して犬小屋が〈価値〉がある、ということは、〈価値〉を付与する主体が犬を飼っているということから、定義的に理解されることであって、ここにおいては、むしろ具体的な、犬を飼っている人は問題とはなってはいないからである。

さらに考えれば、犬を飼っている人、という定義は、主体の定義というより状況の定義であり、主観的な誤解がないかぎり、状況は客観的なものである。そして、〈価値〉が状況に相対的である以上、基本的には、状況が決定されれば、〈価値〉も決定されるのであり、その状況が客観的であるのだから、それに対応して〈価値〉も客観的に決定することができる、ということになる。ただし、状況は、一面においては主体的なものでもあるが、この問題は後に論じよう。

犬を飼っている人、という主体の定義がそのまま、犬を飼っている状況の定義でもあるのは、その主体が具体的な個人ではなく、抽象的な類型にすぎないからである。そこで、さらなる議論のために、概念を明確化しておく必要がある。そこで、抽象的な類型として想定されている主体や状況や物事を〈類型的〉、具体的な個体として特定されている主体や状況や対象を〈特定的〉と形容することにする。たとえば、犬を飼っている人、というのは、類型的な主体ないし状況であり、その人の飼っている犬もまた、類型的である。これに対して、たとえば、西郷隆盛、というのは、特定的な主体であり、その犬のタロウも特定的である。さらに、たとえば、西郷隆盛がなんらかの洋犬を輸入して飼おうと思っている場合、主体は特定的だが、対象は類型的である、ということになる。

1 たとえば、世俗を捨てた僧侶や、自己も持たぬ奴隷は、基本的に所有主体とはなりえない。現代においても、幼児や老人、禁治産者など、所有としての生活意志能力が認められていない者、限られている者が存在する。そして、さらには、国籍や免許など、領域や対象によって、詳細にこの所有能力は限定されている。たとえば、猟銃や運転には、免許が必要である。このような所有の特許や制限は、さまざまな権利の所有としてより本質的となる。

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