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夏の歌

【療養日記2023 8月14日(月)】

 週末は出かけづめで今日は疲れも取れず、朝のウォーキングだけして日中は家で休んでいる。昨夜から腰も痛み坐薬を使うかどうか迷っているくらいだ。

 昨日MrMaxに行ったときに最近よく見かけるネッククーラーを試しに一つ買い、冷凍庫で凍らせてウォーキングで使ってみたがあまり効果的ではないなというのが感想。首が締め付けられるだけでそれほどの冷たさも感じない。

 もう一つダイソーで眼鏡の上からかけられるサングラスというものを見つけて買ったが、お出かけには使えずともウォーキングの時くらいには役に立つなと思った。ただし今日は朝からかなり曇っていてもっと晴れた日に試す必要があるかも。


 今日はこの時期になるとふと思い出す夏の歌の中で「どうしてこんなに夏ってのは」と思ってしまうような名曲を思い出したのでそれについて書いてみる。紹介するのは三曲。

夏まつり/井上陽水

 五十代の自分にとっては夏の歌で印象深いのはどれも昭和の歌だ。そうなると誰もが思い出しそうな井上陽水の「少年時代」は除外されてしまう。あの歌は確か平成2年の歌だ。もちろん誰もが知っているとてもいい歌なことには間違いない。

 井上陽水の夏の歌というと自分はどうしても「夏まつり」という歌を思い出す。夏とは思えないマイナーコードの曲で、このコード進行はさだまさしのお家芸だろうというような響きすらする(そういえばどちらも九州出身だけど、関係ないね。)

人生はひと昔 暑い夏
おまつりはふた昔 セミの声

夏まつり/作詞・作曲 井上陽水

 よく10年をひと昔というのでこの歌の中でのお祭りの思い出は少なくとも二十五歳以上の人の記憶でないと筋も通らない。それだけ遠い記憶として歌われる、遠い昔の夏祭りの思い出が過ぎてしまって取り返せない悲しさを歌っているようにも受け取れる。知らない人がこの歌を聴いたらいい歌なのだがドン引きしてしまうかも知れない。しかしとても心に染みる。

 この歌を聴くとふた昔前の夏まつり、幼い妹の綺麗な浴衣の色彩、移動は自転車、お祭りの時に特別にもらえる大事なお小遣いなど、細かいところから夏まつりの全体像の輪郭を刻み上げる。そして最後は静かに終わっていく。まだ若き井上陽水のストレートなほどの奇才ぶりを余すところなく発揮した夏の歌だ。

 またこの歌はオリジナルの「陽水II センチメンタル」(1972年)でも、のちにリリースされたベスト盤「明星」(1996年)でも次の曲は「紙飛行機」という曲で、「夏まつり」の余韻をそのまま引き継いだ「紙飛行機」のイントロは前曲の空虚さをグッと引き立ててくれる。前曲の雰囲気を受け止め次の物語へと誘うアルバムの中に於けるイントロの巧みな技は見事としか言えず、言ってしまえば前の歌のためにあるイントロと言っても過言ではない。

 あまりにも見事に物悲しさを引き継ぎ増幅させているためメンタルの弱い人や感受性の高い人はちょっとこの連携は聴かない方がいいかも知れない。

まつりばやし/中島みゆき

 中島みゆきが好きな人または北海道の人で30代以上の人なら誰でも知っていると思われる歌。井上陽水の「夏まつり」以上にドン引きしそうな暗い雰囲気のコード進行を祭のお囃子のような鈴の音でテンポ良く歌い上げる。

 なぜに北海道の人なのかといとこの歌は今はなき北海道拓殖銀行のCMで使われたことがあるからだ。なのでおそらくは一定の年齢以上の北海道の人なら誰もが覚えていると思われる。

人は誰でもまつりの終わりを知る
まつりばやしに入れなくなる時を知る
眠り続けるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは二度とは来ないような気がする
もう紅い花が揺れても

まつりばやし/作詞・作曲 中島みゆき

 この引用の部分を読んでもどんなシチュエーションか容易に想像できる。中島みゆき本人は父親が死んだ時の様子を歌にしたものだと後に語っていて、同じ思い出から作られた歌にもう一曲「雪」という歌を引き合いに出している。

 この歌の独特な世界観は祭ばやしを見て過ぎた過去を思い出しながらもその祭ばやしが過去を受け入れず、ただ横を通り過ぎていく様子を強烈に印象付けている。一つの祭りの中で過ぎた日を偲ぶのではなく、徹底的に除外をされてそこにはもう二度とは帰れない悲しさを押し付けて艶やかに通り過ぎていく。その艶やかというのは歌の中終始鳴り続ける鈴の音だ。ある意味これほど残酷な歌もないなと思う。

 この歌が入っている「あ・り・が・と・う」というアルバムは他にも「遍路」、「女なんてものに」、「
ホームにて」、「時は流れて」などシングルカットにはならずとも初期の中島みゆきの代表的な歌や押さえておくべき歌が数多く収録されている。

 「まつりばやし」と言うこのインパクトの強い歌をよくCMで採用したものだと思うのだが、思えば拓銀そのものもこのまつりばやしのように時代を通り過ぎて行った。その頃拓銀の信じられない終わりを誰が想像できたであろうか。インパクトだけでCMを作り、それが将来の自らの姿を物語る歌だったというのもなんとももの悲しい。

夏休み/吉田拓郎

 最後はある年齢層より上なら誰でも知っている歌。前の二曲とは違って雰囲気が明るい歌ではあるがこれもまた夏の終わりを歌った寂しい歌だ。

 吉田拓郎の代表曲の一つに「祭りのあと」という歌がある。この歌の方が先の二曲と相通ずるものがあるのだろうが、吉田拓郎の夏の歌といえばこちら、夏休みだ。

 この歌は夏によくあるものを色々と登場させ、それが全ていなくなってしまったというような内容の詩で夏が去って行った印象を強烈に焼き付けている。あまりに強烈すぎて夏だけでなく全てにおいて無くなってしまった印象から吉田拓郎の反戦歌ではと言われることもある歌だが、そこまで深読みしたら歌の良さも感じにくくなってしまいそう。

スイカを食べてた 夏休み
水まきしたっけ 夏休み
ひまわり 夕立ち せみの声

夏休み/作詞・作曲 吉田拓郎

 引用した歌詞は最後の節のもの、この最後の行は全て夏ならではのもので、ここで夏を強烈に印象づけそれを畳み掛けるように体言止めにしてあるのがこの歌詞の最も優れたところだ。この歌は「夏休み」という言葉による体言止めも多いがそれ以外の言葉で最終行を引き締めているところに注目すべきである。

 この三行だけでも夏休みがすでに過去のものになって今は振り返るだけという様子が伝わるが、最後のいかにも夏の風物詩というキーワードを三つ羅列させることでその喪失感は計り知れぬほどに印象深くさせている。

 自分がスイカを食べた思い出も、水まきをした思い出も過去の記憶でありながらひまわり、夕立ち、せみの声というのは夏が来るごとにまたやって来る。その二者の違いを最後の一行の体言止めでクッキリと印象づけをさせた上で帰らぬ思い出と繰り返す夏の関係を表現しているのだ。

 詩の仕組みについては解らずとも、誰もがこの詩を耳にして夏休みの思い出を振り返っているのだなと想像できる。そしてこの歌は難しいところが何もなく、子供でも寂しい歌だとそのまま受け入れられるだろう。そこが先に紹介した「祭りのあと」とは大きく違うところだ。

 その後も夏になるといろんな歌が流行るのだが今紹介した三曲くらいインパクトの強い歌というものもないのではと思う。

 今度は平成以降の夏の歌を探してみようかな。この後の歌は万人受けはするだろうがインパクトの薄い歌が多いなと思うものだ■

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