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夢を見た

【療養日記2024 5月28日(火)☂️】

 バンコクのとあるホテルから突然連絡が来た。

 なんでも昔宿泊をした時に当時持っていたノートPCの部品が見つかりましたので取りに来てくださいと言う。

 バンコクに行ったのは今から四半世紀も昔、それも安宿を選んでいて思い当たりがない。あるとすれば最終日のこと。ドン・ムアン空港に直結したホテルに泊まった思い出があった。

 思い返すと当時、確かに重たいノートPCを持ってタイとラオスを旅して回った事がある。特にラオスは鎖国を解いた翌年の"Visit Laos Year" キャンペーンが行われていた年で、ビザ有効期限ギリギリまでラオスに滞在していた。PCは98ノートだったはずだ。

 ラオスからの帰り、メコン川を越えるミダパップ友好橋を渡ったタイ側国境の町ノンカイから夜行列車でバンコクへと帰る。

 疲れたので奮発して1等コンパートメントに乗ると、ニュージャージーから来たと言う人類学者の大学教授と部屋をシェアすることに。

 この教授が超がつくくらいの日本かぶれで、おそらく自分のフィールドだったのだと思うが日本人がやってきて大興奮。その日列車は夕方に出発したがひと晩質問攻めだった。ただし教授は日本語は話せなかった。

 こちらも米国には親戚がいるから行ってみたいなどと話をして退屈しない夜を過ごした思い出がある。後で知った話だがその親戚の一部はニュージャージー州に住んでいた。教授はこの後バンコクから日本へ行くらしく、それも人生二度目、しかも久しぶりで嬉しそうにしていた。

 翌朝バンコクのホアランポーン中央駅で教授と別れ、駅の中にある旅行代理店に行き、日帰りのツアーの情報を仕入れるつもりでいた。

 そこに巨大な荷物を持った白人の女の子がいて、同じようにツアーを探していると言ってしばらく話をしているうちに仲良くなった。

 結局ツアーには参加しないで一日バンコクをフラフラ歩いて回ろうと言うことになって行動を共にした。

 一日一緒に行動をしておきながら彼女の名前も聞いていない。知っているのは彼女はスオミ(フィンランド人)でフィンランドの北部にある田舎の町出身だということ。チェンマイに一ヶ月ムエタイ修行に来て帰るところだと言っていた。巨大な荷物を預かり所に預け身軽になって出発。

 僕もこの一日が旅の最終日で、翌日ドン・ムアン空港から日本に帰る予定だった。

 このスオミの女の子と行動を共にしていくつか気づいたことがあるが、東洋人が白人のしかも女性と一緒にいるととにかくジロジロ見られる。特に同じ日本人は好奇の目で見る。傍から見たらあの二人の関係は何なのか気になるのだろう。

 日本人はだいたい暑い国ではタオルを頭に巻いたり首に掛けたりするのですぐわかる。外国ではタオル=下着なので本来はみっともない事だが日本ではそんな感覚はまるでない。そんな日本の奇怪な習慣を見事なまでに海外に持ち出していることで日本人は傍から見てもすぐにバレる。

 と言ってもこれは四半世紀前の事で、今ではさらに強烈な中国人が海外の隅々にまで足を踏み込んではやはり奇怪な習慣丸出しで今日も歩き回っている。

 場所はもう定かではないがどこかの市場でお昼を食べているときに今日の宿の話題となり、常に突撃派だった僕は午後は宿探しだと言ったら、

 明日帰るんだったら私の泊まるホテルに泊まればいいよと言ってくれたのでそれも良いかなと思って午後も一緒にあちこち見て回ることにした。

 同じホテルに泊まると書くと読んだ人の中には部屋も同じかと思った人もいるかも知れない、確かにこの話を人にすると大半の人はまるでナンパ大成功のような捉え方をされるが、部屋は最初から別々のつもりだったし、実際に別々の部屋を取った。

 暗くなってからホアランポーン中央駅に戻り、荷物預かり所で彼女の巨大な荷物を再び見る。自分が丸々入りそうなくらいの大きなバッグ、よくこんなモノ見つけたなと思うし、この日一緒に行動をしていたときにも巨大な民族楽器を買っていて更に荷物は大きくなっていた。

 ドン・ムアン空港までは普通はバスで移動するが案外と鉄道も役に立つと言う情報を前日の晩コンパートメントをシェアした教授が教えてくれたのでバスに乗るつもりでいた彼女に「列車で行こう」と提案しておかげで楽に行くこともできた。バスなら大渋滞にはまる時間だった。

 彼女がホテルでチェックイン手続きをしている間、僕は空き部屋はあるかどうか問い合わせをし、部屋があったので早速チェックインをした。

 彼女は翌朝早いのでここでお別れねと住所交換をして握手しハグをして別れた。あの時渡したメモには住所ではなくメールアドレスだけ書いたのだが、そのアカウントは数ヶ月後に停止しなければならない事態に遭ってしまった。

 ここまでは夢に附帯して引きずられて蘇った僕の記憶で、本当のことだ。この先は今の記憶を蘇らせたやたらとリアルな夢である。

 そのホテルから連絡を受けてまるで近くの食堂に定食でも食べに行くかのような軽い感覚で妻にもひと言も言わずにバンコクへ。その間のことなどあまり覚えていないが、一つだけしっかりと覚えているのは羽田からバンコクへ向けて出発したこと。当時と違って今は杖をつく生活をしているが最近になってやっと夢でも杖をつくようになってきた。杖をついて飛行機に搭乗したことだ。

 あの時はバンコクの玄関口だったドン・ムアン空港も国内線空港に格下げになった、それなのになぜドン・ムアン空港に来たのか謎だし、空港として認識した場所はおそらくどこか別の空港、それこそJFKなのかイスタンブールのアタチュルク空港なのかも定かではないが、イミグレを通過するとすぐホテルに来ている。

 連絡をもらった者だと名乗ると係員の男性がやってきてやたらとフレンドリーに応対する。こちらも本来ならばバンコクへ来たのであれば一刻も早く街中に飛び込みたいが、通された場所は空港が一望できるラウンジだった。

 係員の彼が「こちらがその部品です。」と差し出したものはまるで見覚えのないPCカードだった。今のノートブックでは見かけなくなった外型拡張デバイスの類で、SCSIで外付けHDDと接続させるRS232C端子のようだった。この令和のご時世そんなもの使わないし、海外旅行に持って行くモノでもなかった。

 当時は海外旅行中デジカメのデータなどが肥大すると現地のKINKO'Sに駆け込んでCDなどに焼いて保存したものだ。

「これには見覚えがないし、この近くにKINKO'Sもなかったでしょ。」

 自分もなかなか訳のわからない事を言っている。係員が、

「そうですか、それではこれは記念にお持ち帰り…」
「いや、いらないです。」


 とキッパリ断る。普通ならこれだけの会話をするためにわざわざバンコクにまで行かないし、こんなことで呼びつけられたのだとしたら怒って航空機代くらいは出してくれと言っているはずが妙に心穏やかでいられるのも不思議だ。

 すると後ろからホテルのクルーが数名、食べ物とフルーツを持って来てお召し上がりくださいと丁寧に配膳をしてくれた。よく見るとただのパッタイだった。

 その後は食事をしながら係員と歓談していた。最初はバンコクの町へと行きたかったがそれもどうにも良くなって帰ることに。

 するとどう見てもラオスのシン(民族衣装)を着た女性のクルーに別の部屋に連れて行かれて、

「お客様がお泊まりになった日に日本からいらしたお客様がお忘れになった物です、よろしかったら好きなだけお持ち帰りください。」

 と訳のわからない事を言い始めた。見れば衣類やアクセサリーの中にイベントで使ったであろう小道具やボード、それも学校で使うようなものまでたくさんある。

 一番多かったのは衣類だがその次あたりにSwitchやDSらしきゲームデバイスが転がっていた。僕がこのホテルに泊まった時にはまだそんなものはなかったはずだ。

 他にも人一人入ってしまいそうなスーツケースやMacもあって、Macとスーツケースをもらい、一時預かりにしてもらっていよいよバンコクへ行こうとしたところで夢から覚めてしまった。


 妙にリアルな夢だった。あの時バンコクに行けば会えそうだった人が頭の中をよぎる。それはスオミの女の子だったり、ニュージャージーから来た教授だったり、好奇の目で僕のことをジロジロ見る頭にタオルを巻いた日本人観光客だったりと様々。猥雑で陽気なバンコクのカオサン通り。しぶしぶドン・ムアン空港まで出向いて漸く気分が上がってきたところで夢は終わってしまった。

 もう今はホアランポーン中央駅もないらしい。ラオスは中国出資の縦断鉄道が開通し悉く中国化してしまったと聞く。ドン・ムアン空港も国際空港の座を他所の新しい空港に明け渡し今現在はLCC専用空港になったという。

 25年も前の東南アジアで見たものは今や全てが幻想のように思えてくる。

 当時タイの観光キャンペーンのCMでまだ5人いたTOKIOが言っていた。

「タイは若いうちに行け。」

 ああそうだったな。若いうちに行っておいて良かったな。あの頃の感受性で思いっきり刺激を受けて短い滞在だったけど楽しかった。今となってはどうだろう、

 タイは自分が歳をとりすぎて遠くなってしまった。

 ラオスは昔のラオスではなくなってしまいやはり遠くなってしまった。

 それでも一度自分の目で見て感じて来られたのは一生の思い出だった。

 今朝の夢はそんな埋もれてしまった記憶を無理矢理引っ張り出してくれたものなのかも知れない■

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