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ちょっとだけ前向きな言葉(165・166)

●自虐ネタで笑わせるうちが花。笑われたら自虐では済まされなくなる。

 自らを嘲る自虐ネタはある程度の人間関係の上で成立するユーモアだ。自分を全く知らない者には自虐ネタは通用しない。それはただ単に自分が惨めであることを敢えて伝える不可解な行為としか映らず、その状態では人を笑わせることもできない。問題は人を笑わせられないうちがいいが、知らない人にも笑われるということはそれだけ自分が低く見られていることの顕れでもある。

本当におどけ上手な人は説得力も並外れている

 そうなった場合、自分がそれ相当の人間で他人から軽んじられれている原因を探る必要があるが、それは同時に空恐ろしいことでもある。自分の知らないところで自分の評価が蔑められている可能性が否めない。

 また自虐ネタも大概にしておかないと歯止めも効かず、やはり自分を低く見立てる原因にもなる。そうなってしまったら既に自虐では済まされない事態に陥っていることと同じだ。
 

●死は誰にでも平等に訪れます。平等に感じないのはタイミングの問題でしょう。


 死は人間にとって避けられない運命である。言うなればこの上ない必然と言っても過言ではない。誰であってもいずれ死という終焉が訪れることは避けられない。この点では、死は人間にとって平等な存在です。

 しかし、誰もが同時に死を迎えるわけでもなければ、死を迎えるまでの期間も様々、また受け入れる死がどのようにやってくるのかも千差万別だ。若くして亡くなる場合もあれば、高齢になって大往生する場合もある。さらに、病気や事故などの要因によっても死のタイミングは変わるものだ。もっとわかりやすく言えば安らかに死ぬのか、苦しんで死ぬのか、その違いだけでも大きな違いである、

お迎えが平等かどうかは誰にもわからない

 したがって、死を感じる度合いやその平等さについては、タイミングが影響していると言えるだろう。たとえ死が平等に訪れるとしても、それが早すぎたり、突然であったりする場合、人々はそれを平等に感じることなど到底できるものではない■

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