つれづれ日記
金曜の夜、会社の飲み会で酔っ払った後、近所の友だちと更に飲んで、それでもなんとなく家に帰りたくなくて、近所の野良猫と戯れていた時。
深夜2時。
私は、つかず離れずやっていた元カレとの関係に、ほとほと疲れ果ていた。
消耗しきった心で、気まぐれに絡んでくる野良猫をじっと見つめる。
猫は私の気持ちなどにはお構いなしで、構ってくれる様子は一切なかった。
この子まで…。
真っ暗闇にしゃがみ込む私を見て、自転車で通りかかった男の人が
「お姉さん、大丈夫?」と声をかけてきた。
ちょっといい感じのその人はで、一目でクラブ帰りが分かる風で、すぐそこの家に帰る途中だと言う。
「猫がね、いるの」と言うと
「空中を見つめる危ない女の人がいる思ったけど、猫かぁ」と優しく受け応えてくれた。
そのまま、朝までやっている近所の飲み屋さんで、飲むことになった。
他愛もない話を延々と繰り広げ、私の元カレがいかにヒドイ奴かとか、兄嫁がしっかりしてなくて不安だとか、スーパーはどこがおススメとか、そんな話。
趣味の話になると、同じ音楽フェスに行ったことが判明したり、仕事の話の流れから、出身大学が同じだということもわかり、年が2才しか違わなかったので共通の知り合いがいたり、そんな話で盛り上がった。
その日は酔っ払っていたせいもあったのか、3時間があっという間に経った。
帰り、白けて明るくなった近所の道を、家の前まで送ってもらった。
「あれ、ナンパしてきたのに家来なよ的なエロ攻勢はないんだ…意外といい人」と思いつつ、今日も色々と予定が入っているので、朝日をカーテンで遮って、早々に眠りについたのだった。
その日の夜、土曜日。
「暇なら遊びに行かない?」と、昨日の彼がクラブに誘ってきた。
趣味の音楽の話をしている中で話題に出てきた、そのジャンルを象徴する場所のようなクラブだ。
私は「行きたい行きたい!」と、二つ返事で応諾した。
彼が誘ってくれたこと、また会えるんだ…という気持ちも拍車をかけていた。
で、そのクラブは、まだ時間が早かったこともあったけれど、一時代前の盛り上がりがウソみたいに、店内はガラガラだった。
DJが悪いわけではなかったけど、何せ人が少なすぎだ。
人がまばらなフロアで踊るのは悪くなかったし、スピーカーの前にいると、乾いたシャープな音が、とても心地いい。
ガラガラの狭いフロアの片隅のソファに座ると、ふいに彼がキスをしようと顔を近づけてきた。
ビックリして、とっさに「彼女、いるの?」と無粋な対応をしてしまった。
彼はちょっと気まずそうに、でも堂々と「このタイミングでそれ訊く?」と困ったような苦笑いだ。
私は「ああ、そういう感じね、そりゃそうよね」と、半ば諦めのような気持ちで、瞼を閉じた。
元カレとの関係に悩んで自暴自棄になっていたから、本来そんなキャラじゃないのに、享楽的な遊びをしたかったのかもしれない。
少し半開きのわたしの口元に、彼の唇が重なった。
後ろ向きに高い崖から堕ちていくような感覚が体中に走り、甘美な背徳の香りに酔っていくのがわかった。
二流映画のヒロインのように堕ちぶれていく自分が快感で、誘われるがまま、ホテルに行くことになった。
元カレの浮気に苦しみ続けていた私は、浮気された本命の気持ちを知っている。
彼女さんに申し訳ないなと思ったけれど、それよりもどんどん堕ちていく自分が大切だった。
きっと後で傷つくと予感していたけど「まあいっか」と軽く流して、気づかなかったことにした。
そのクラブから家まではさほど遠くない。
なのにホテルに誘ったのは、自宅に彼女の痕跡が沢山あるからだと言っていた。
昨夜、エロ攻勢がなかったのは、それが原因だったのかと妙に納得。
帰り道、さりげなくバッグを持ってくれたり、くだらないコトも逃さず、あれこれ私をいじってくれる。
元カレには言われたこともない「可愛い」という言葉も沢山浴びせてくれる。
チャラい男の人に縁がなかった私は、気を遣ってもらったり、優しくされたりするのは苦手なんだけど、彼からお姫様のように扱われるのは、とても居心地がよかった。
そして、そのチャラさは本物なのか、色んなことがとても上手だった。
甘い言葉とやさしさで、私の心を満たすなんて、彼にとっては赤子の手をひねるようなものなのだろう。
だから私はわかっていた。
この気持ちよさを真に受けて、心を開いてしまってはいけないことを。
甘い言葉や、その場限りのやさしは、決して信用してはいけない。
人様のものを自分のものにしたいと思ってはいけないのだ。
だって、私は浮気された女の絶望を知っている。
今していることの罪深さを心の底から自覚していた。
その2日後。
凝りもせずにまた2人で飲みに行った。
カフェで一緒にマンガを読もうと誘われ、罪悪感を抱きつつも、踊るような心で、いそいそと待ち合わせ場所へ向かった。
仕事終わりの割と遅い時間、近所のお店で意図せず深酒をしてしまい、2人ともほろ酔い加減で、手をつないで夜道の散歩をした。
歩きながら彼は
「俺もうすぐ結婚するんだよね」
と告げた。
その瞬間は妙に冷静で「ああ、結婚することを決意した人なんだな」と理解したあとに「そか、私と遊ぶのはマリッジブルーからなんだ」と妙に納得してしまった。
そして「こんなチャラい感じの人が結婚を決意する瞬間って、どんなだったんだろう」と素朴な疑問が浮かんだ。
最後に彼は「もっと出会うのが早ければな」と安っぽいセリフを投げかけた。
恥ずかしいような、でも嬉しくて、だけどものすごく無責任だよなと思った。
そして私は「今まであなたを支え続けた彼女を大切にしろ」と涙混じりに力説していた。
彼に説教しながら私は、私と結婚することを決意できなかった元カレに、そのメッセージを訴えていたのかもしれない。
マリッジブルーの男と、元カレを引きずる女。
ものすごく不健全な構図だ。
こんな話をした後なのに、私たちはホテルでまたセックスをした。
彼に抱かれるのは、すごく気持ちがいい。
私を抱きながら彼はずっと、女の子が気持ちよくなるような言葉を、のべつ投げかけてくれる。
…チャラ過ぎだろう。
チャラくて売約済の男を好きになっても、何もいいことはない。
理屈ではわかっているけど、感情をコントロールできるほど、私は器用じゃない。
この晩あたりから、気づいてしまった。
わたしは恋に落ちていると。
翌朝はどちらも仕事があるので、2時間睡眠で朝7時にはタクシーに乗った。
シートで何も言わずに手をつないでいることが、この上もなく幸せだった。
なにこの安っぽいドラマみたいな展開。
なにこの甘酸っぱい不倫の香り…。
こんな背徳の恋だけど、思いっきりのめりこんだら、元カレを忘れられるかな…とか、
あわよくばこの人と付き合ったりできないかなとか、訳の分からない気持ちで理性はすでに吹っ飛んでいた。
火曜の夜は、今度はLINEでやりとりをした。
音楽や読書の趣味が合って、昔のマンガや音楽の感想を話したり。
やりとりをすればするほど、私の好き好きモードは高まり、たった2晩一緒にいただけなのに、彼のことをどんどん好きになってしまう。
女の身体は単純だなと我ながら呆れたけれど、バカな私は気持ちをコントロールできなかった。
水曜の夜、「猫と仲良くなれない」とメッセージを送ってみた。
凝りもせず近所で猫にちょっかいを出していたのだ。
姿勢を低くして、目線を合わせたり、はずしたりしながら、少しづつニャンコとの距離を縮めて、写真を撮って送った。
「こないだより猫の扱いうまくなったなw」と返信がきた。
なんか嬉しかった。
でも、そのやりとりの中に、私は小さな変化に気づいていた。
今まで私のことを名前で呼んでいたのに、いつの間にか苗字で呼ばれていたのだ。
そんな些細なことに緊張感を走らせるくらい、彼のことで頭がいっぱいになっていた。
土曜日の夜、私から「お散歩に行かない?」と誘ってみた。
「いいよ。でもこれが最後」と返事がきた。
その言葉に強いショックを受けたことを、鮮明に自覚した。
家の前で待ち合わせをして、その辺をふらふらと散歩。
歩きながら彼は「もし万が一、次に会うことがあっても、その時はもう結婚してると思う」と言った。
結婚って、そんなにすぐだったんだと初めて知り、もう抗えないんだなと悟った。
だって、知り合って1週間の私が「婚約者を捨てて私と付き合って!」とは、どうしたって言えない。
いかんせん関係が浅すぎる。
いつだったか「大人の恋愛には片思いってないでしょ。どちらかに脈が無い時は、片方の感情が盛り上がらないように遮断するから」と言っていた。
その話を聞いて「ああ、今、私は遮断されているんだな」と思った。
だから、私が好意を持っていることを伝えることはできなかった。
その日がきっと最後だと分かっていたのに、ずっと当たり障りのない話をした。
学生時代にやっていたバンドでファンレターをもらったとか、どうでもいい話。
本当はもっともっと、今現在のいろんな話をしたかった。
私がその人のどんなところに魅力を感じているのか、伝えたかった。
でも、そんな話にはならなかった。
普通に会話はできるのに、肝心の話題はうまく切り出せなかった。
水槽の中で口をパクパクしている金魚のような気分で、言いたいことがあるのに言えないもどかしさを、冷たくて透明な水の中で味わっていた。
「何かを伝えたい」と思っているのに、何をどんな風に伝えればいいのか、全くわからなかった。
家の周りの街を大きくぐるりと一周歩いて、私の家の前で散歩は終了だ。
最後に、共通の話題に出てきてたマンガを、その人にあげた。
「これ、俺一生読むわ。読むたび思い出すよ」と彼は言った。
チャラい、相変わらず安っぽいと思ったけれど、すごく嬉しかった。
そして、とても悲しかった。
「おやすみ」と手を振って、路地の先へ消えていく彼の後ろ姿を、見えなくなるまで見守った。
ずっと見ていたら、ふいに振り返って、少し大きめの声で「おやすみ!」と言うと、大きく手を振った。
急に切なくなって、苦しくなって、何も言うことができなかった。
走り出して抱きつくことだってできたかもしれないのに、そんなことをできるほど、相手のことを深く知らないのだ。
ふと足元を見ると、いつもの猫が足元にいた。
深夜3時くらい。
最初に声をかけられた時の子かどうか分からないけど、私と猫の距離は確実に近づいていた。
この間はそっぽを向いていたのに、今回はじっと見つめ合うことができた。
気持ちが安らいで、ちょっとだけ苦しさが和らいだようだった。
しばらく猫と道端に佇んでいた。
当たり前だけど、私に声をかけてくれる人が通りることは、もう二度となかった。
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