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《トラベルミステリー小説》  京都発鳥取・倉吉行き、振り子式DC特急「スーパーはくと」殺人事件   ユーモア鉄道ミステリー。カラス&マーロウの新冒険シリーズ・2  歳池若夫・著

              1

 男は、リュックの奥から小さな容器を取り出した。
 丸い蓋を開け、中から未使用の予備分の「凶器」を取り出す。
 両手にはぶ厚い生地の手袋をはめている。それが無いと、少しでも手元が震えてしまったら最後、自分が作った威力絶大の「凶器」によって、製作者当人の命が奪われかねない。
「ゆーっくりでしゅ。目をおっきく見開いて、落ち着いて慎重にやんなくちゃ。そんで、そーっと針先を摘まんで、根元からプッチンプッチン切り落とさないといけないんでしゅ……」
 おかっぱ頭の前髪を掻きあげ、右手に持ったラジオペンチを握り締める。左手にも大型のペンチを持っているが、そっちは凶器を挟んで手元を安定させるために使っている。
 やがて、一個めの解除作業を終えた。
 小型容器の中に回収した極小の金属針の数を勘定し、手抜かりがないかどうか確認する。
「よし、まず一枚は成功。周りにあった三十本の針は全部回収でしゅ。後はヤスリで接着剤の跡をゴシゴシ削ぎ落して、さらにボクの指紋をしっかり拭き取ってからサイフの中にポン。しばらくしたら、どこかの自販機で缶コーヒーでも買っちゃえば、証拠隠滅はコンプリートでしゅ」
 続いて、二個めの解除作業にとりかかる。額に装着した乾電池式ヘッドランプは、人に見つかるのを恐れて照度を最低限に落としている。漆黒の闇の中での作業は難しい事このうえない。
 ましてどんなに落ち着いてやろうとしても、元来の小心者、極小の金属片を摘まむペンチの先端は震えが止まらない。
「あーああ、情けないな。ボクはとんでもないヘマやっちゃったァ。あの時、車内でぶつかって来たバカな酔っ払いのせいで……いや、違うって。何もかもがあの女のせいでしゅ。あの女がみんな悪いんだッ。あの薄情者のクソ悪女(ビッチ)がボクの愛を裏切り、ボクのハートを土足で踏みにじったんだからッ!」
 叫ぶように毒づいたものの、声は近くの浜から届く荒波の音に呑み込まれ、眼下四方にある民家の人に聴かれる心配はない。
「うふ、うふふ。やっぱり、この場所に隠れて正解だァ。今の時間は、横にある山陰本線を列車が通らないのは時刻表見て調べてあるし、大きな観光施設じゃないから夜は警備員が来ないし、照明も全部消されているし。ダイジョーブ。ノープロブレム。ふふん。ボクは絶対に捕まんないかんね。捕まってたまるもんでしゅか」
 ラジオペンチの先がバチンバチン音を立てた。つい力を入れてしまったため、断ち切った金属針が跳ねて飛んでしまった。
「あ、やば」
 ヘッドランプの照度を上げ、足元を照らす。長さ2ミリしかない極細針だから、闇の中で見つけるのは容易ではない。
「やばい。まずいっしゅ。証拠になるもんは一つでも残しちゃまずい。切り取った針は全部回収して、ちゃーんと家に持ち帰って溶解処理しなきゃいけないのに」
 目を凝らし必死に探してみるが、なかなか見つけられない。
「あ、あそこにあった……」
 転落防止用安全鉄柵の外側、展望デッキの床板の端に、キラリと光る小さなものが見えた。
 男はリュックからガムテープを取り出して10センチばかり切った。
 端と端を繋いで輪っかにして右手に持ち、鉄柵の隙間に差し入れた。思い切り伸ばしてみるが、指先は金属針に届かない。
「しゅしゅうぅ、しゅぐぐ。ち、ちちっ」
 やむを得ず、男は安全鉄柵をよじのぼって乗り越える事にした。展望デッキの外枠部分に出て、補強された道床の端に屈んで足を踏ん張る。左手で鉄柵を握り、ガムテープを持った右手指先を突き出した。
「あとちょっと。あと3センチでしゅ。気合で手をぐいっと伸ばせば、逃げた針ちゃんを捕まえられまっしゅ……」
 足元がぐらついた。
「しゅわ?」おかっぱ頭の前髪がはらりと落ち、視野を塞ぐ。
 荒波の音と共に吹き上げて来た突風に煽られ、一部分を保存した鉄橋橋脚の古い鋼材がぎしぎし大きな音を立てた。
「ウソッ。危ないでしょ。ひぃ!」
 バランスを崩した彼の足は床を踏み外してしまった。鉄柵を持つ左手が滑った。
 そのまま、闇の中に泳ぐように飛び出してしまった。
「あう! 落ちるッ。ダメ。落っこちちゃう! ぎゃああぁぁ……」
 男は、山と山の谷間に設けられた旧余部鉄橋保存施設の展望デッキから真っ逆さまに転落し、41メートル下の公園のコンクリート通路に頭から激突して行った。

餘部鉄橋

              2

「おい、マーロウ、おぬし、『テツ王』ちゅう言葉知っとるか?」
 古くからの友人であり腐れ縁の相棒であり、永遠のガキ大将である烏谷由伸先輩が、揺れる車内で足をガニ股に踏ん張りながら訊いて来た。
 不肖の後輩で、イジられっ子キャラをなかなか卒業できない自称名……迷探偵の男川正朗が、吊り革にぶら下がりながら訊き返す。
「なんですか、それ? 最近新発売になったカップラーメンの名前ですかね?」
「あほう。食いもんやない。テツはアイアンや。金ヘンに失うと書く常用漢字。もっとも、金を失うのは縁起が悪い言うて、金の横に『矢』と書いてる社名の鉄道会社もあるみたいやけどな。そや、ワシが今ゆうてる『テツ王』ちゅうんは、汽車ポッポ、機関車や電車や貨車や駅やトンネルや鉄橋や時刻表ダイヤなぞを愛でる趣味をとことん極めた、『鉄道キング』という意味やねん」
「つまり、世間一般で言うところの『鉄ちゃん』てやつですね」
「それは十代や二十代の若い鉄道ファンを呼ぶ総称ぞ。これが三十代の分別あるオトナになると『鉄男』『鉄兄ぃ』『鉄子』になり、筋金入りの四十代五十代の老練テツになれば『鉄王』や『鉄帝』に昇格する。そや、このワシみたいないぶし銀の鉄道オタクの事やね」
 あと数年で人生半世紀を迎える烏谷由伸――カラスのおっちゃん、いや今や売れっ子「大人の絵本作家」に出世した高野山次郎先生はどんと胸を叩き、ぐわっはっはっはーと呵々大笑した。
 平日の朝の8時半過ぎ、JR京都線・東海道本線東行き新快速電車の車内は大混雑だ。
 通勤通学客でムンムンする人いきれの中で、大きなゴルフバッグと旅行バッグを両手に抱えた我らがカラス&マーロウ・コンビの顔には大粒の汗が浮かんでいる。
「しっかしうっとおしいの。五月なのに夏みたいな陽気やで。こんな時は、JR西日本も、電気代ケチらずに天井のエアコン全開にせいっちゅうの!」
 鋼鉄の厚顔無恥で宣う人気エロ漫画家兼テツ王氏の本日のいでたちは、白いTシャツに白麻ジャケット、裾を絞った洗いざらしのホワイトコットンパンツに白いヨットシューズといったコーディネート。
 ちなみに本日のヘアスタイルはというと、豊かなロマンスグレイを両耳の所で二つに束ねて、大昔の神代の倭人や埴輪などにあった古風な髪型――美豆良(みずら)風にキメている。
 彼の半径2メートル以内にいる人々は、この異世界から来たみたいな傲慢オヤジになるたけ近付かないようにしようと、身をよじって皆が息を詰めていた。
「はあ……これはいぶし銀のテッチャンというより、お下げ髪した関西の変なオッチャンだっての。それにしても、カラス先輩、勘弁して下さいよ。これから鳥取県へ旅行するのに、何で大阪駅から反対方向に行かなきゃいけないんですか? ちゃんと人数分の指定席は取ってあるんだし。何の酔狂で、こんな朝早い満員電車に乗り込んで、わざわざ特急始発駅の京都まで逆戻りするんです?」
「やかまし! 鉄道の旅の双六ゆうもんは、必ずスタート地点から始まるんや。途中駅から乗ったら邪道なんや。おぬしは『乗り鉄』の旅の神髄ちゅうモンを知らへん。このたわけモンめッ」
 白装束の異人の大声に、周囲の一般市民が一人二人と離れ出した。混雑した車内にできた空白の輪。風通しが良くなって、少し涼しく感じられるようになった。
「おうおう、ちょびっと空きはったで。満員電車に乗る時のコツはやっぱしこれやの」
「ったくもう。相変わらずハチャメチャやってるカラス大魔王閣下だ。……とか何とかやってるうちに、着きましたよ。京都に」
 哀しくも四十代前半にして既に脳天の風通しが良くなってしまった半人前ミステリー作家と、白装束を身に纏った傲慢ブラック漫画家が乗った新快速電車は、古都の玄関口の巨大ターミナル駅のホームに滑り込んで行った。

 東海道本線西行きの6番線ホームへ行くと、立派な白顎鬚を生やした小柄な老人がベンチに座って二人を待っていた。
「おはようございます。はんなりご老公はん」
「やあやあ、おはようさん。今日もええ天気で良かったどすな」
「はいな。日本中どこへ行っても見事な五月晴れですぅ。まさに、絶好のゴルフ慰安旅行日和でござりまするぞ」
「そうどすな。いけずなカラス天狗が高野山のボンさんに化けてお題目唱えてりゃ、お空のお天道はんも騙されて上機嫌になるんでっしゃろ。ほっほっほ」
 地元京都の書店商業組合の重鎮である信貴之端利治翁が、黄門鬚を揺らしてよっこいしょと立ち上がった。
「ところで、烏谷はん、今日のあんさんのファッションは、カアカアうるさいブラック漫画家らしからぬ、上から下まで白ずくめの恰好したはりまんな」
「ええ。そうなんです。本日はワシら、イナバの白ウサギ号に乗って神話の国へ旅出つさかい、いっちょ、伝説に出て来る大国主命(みこと)のコスプレで洒落てみよ思たんですわ」
 いけず漫画家は本気のドヤ顔で、自慢の神代美豆良風お下げ髪に手を掛けた。
 後ろに控えていた、お下げどころかこちらはお手上げ状態の髪型の男川正朗が口を挟む。
「先輩、何ですか? 今おっしゃったイナバの白ウサギ号って?」
「おぬし、知らへんのか。因幡の白兎伝説やがな。ワニの背中をピョンピョン飛び跳ねて調子ん乗って、あげくに皮を剥がれてしまった哀れなベイビーちゃんや。ワニっちゅうのは、アリゲーターじゃなくて、ジョーズの鮫みたいな怪物だという説があるがの」
「その白ウサギに乗るって、どういう意味なんですか?」
「安心せい。誰も、これから行くゴルフのニギリでおぬしの身ぐるみ剥がしたりせんて。まして、その薄い頭の皮もな。……ほれ、来た来た。あれが今噂してた白ウサギ号や」
 カラス氏が指差す方向、東方の山科方面から列車が進入して来た。
 白ウサギならぬ青を基調にしたツートーンカラー。長いノーズがやたら格好いい流線型の先頭車。
 後続は銀色に輝くステンレス製車両。5両続く編成全体が車高を低めに抑え、ボディの裾をきりりと絞って重低音を轟かせるその姿は、まるで細長い車体をした高級スポーツカーといった趣だ。各車両のサイドには兎の目を意味するような赤いアクセントが入っている。
 これぞ、関西地方と山陰の鳥取県を結ぶ俊足特急「スーパーはくと」号の堂々入線シーン。
「これが、白うさぎ。そうか、『はくと』って『白兎』の事だったんですね」
「そや。因幡の国へ向かうスーパーラピッド・ラビットエクスプレス。でも、世の中には一部、『吐くど号』なんちゅうバチ当たりな呼び方するアホもおるみたいやけどな。その理由は、乗ってみればお判りですってか」
 日本神話に出て来る英傑の神に化けたカラス天狗はぐふふと含み笑いし、旅行バッグとゴルフバッグをよっこらせと手に持った。

スーパーはくと

 午前8時50分、定時に「スーパーはくと3号」は始発駅のJR京都駅を発車した。
 複々線の快速線車線に入り、ぐいぐい加速する。
 神様コスプレ男と東京から来たバカミス作家とヒゲのご老公の三人は、最後尾の5号車普通車指定席、進行方向に向かって左側に座った。
 座席はリクライニングの二人掛けであったが、コスプレ先生は慣れた手つきでレバーを操作し、前の座席を転換して四人掛けのボックス席に換えた。
「大阪からは、残るもう一人のゴルフメンバー……『ワンテツ』の奴が乗って来るんよ」
 窓際席に座ったカラス先生は、缶ビールやおつまみを手際よく窓辺に並べ始めた。男川正朗は彼の真向かい、進行方向に背中を向ける席に座っている。
「おうおう、マーロウ君。やっぱり素人やの。通の人間やったらその席には絶対座らへん。その理由はまだ教えてあげましぇーん」
「ええーっ、そんな、この電車の座席は広くてふかふかしてるし。車両も新幹線みたいに格好いいし中が綺麗だし、快適そのものじゃないですか」
「ちっち、電車やないって。これは『気動車』ゆうて、DC・ディーゼルカー。つまり、軽油を燃料にして走るバスと同じ構造した列車なんや」
「へえ。電車じゃないんですか? ディーゼルカーね。そりゃまた、どうして?」
「この特急『スーパーはくと』は兵庫県の国宝姫路城がある姫路駅の先、上郡という駅まではJR山陽本線を走るんやけど、そっから先は電化されてない区間を行くんや。しかも、その上郡からは『智頭急行』という路線を通る。智頭急は山陽と山陰の間に横たわる山間区間を貫いていて、ディーゼルカーしか走れない非電化単線路線なんでありまっし」
「つまり、ローカル線て事ですか」
「いや、そうとも言えん。智頭急行ゆうのは、平成6年に新設で開業しはった第3セクター鉄道で、線路はなるべく真っ直ぐに敷いてある。踏み切りもほとんど無い。道路ともほとんど立体交差や。急勾配の坂も少なく、山はトンネルで突き抜ける。おぬしの言う通り、まさに新幹線並みやな。だから、ハイスピードが出せる。自動車に例えるなら、高規格のバイパス道か高速道路を走るようなもんや」
「へえ、知らなかったな。それで、鳥取まではどのくらいの時間で行けるんですか?」
「京都から約3時間や。大阪からは2時間半。我々が最終的に向かう倉吉までは3時間半とちょっとで着く。ちなみに、瀬戸内側の姫路から日本海側の鳥取までなら、1時間半少々で突っ走る」
「結構速いんですね」
「そや。スーパーの称号が付いてはるくらいやし。それに、この特急『スーパーはくと』専用車両、智頭急行自慢のHOT7000系車両にも、すごい秘密があるんやで」
「何ですか? 秘密って」
「秘密は、秘密やね。自ら体験して知るべし。ちなみに、HOTという車両記号は、智頭急が走る区間の兵庫県、岡山県、鳥取県のそれぞれの頭文字のイニシァルを合わせた符牒なんやて」
「へええ。詳しいですね。さすがは事情通のカラス大師匠、『テツ王』を自称するだけありますね」
「えへん。ワシってペダンティストなんや。歩く知識と文化の泉や。その昔、伊達に本屋経営してたんやないで。結局最後はツブしてもうたけどな」
 かつて大阪難波でコミック専門書店烏谷書房を営んでいた元社長現・人気エロ漫画家の男は、からからと啼くのだった。

 そうこうするうち、スポーツカーみたいに恰好いい特急列車は、早くも最初の停車駅新大阪に着いた。
 ホームに立つ大勢の旅客。始発の京都発車時点で空いていた車内は半分近く席が埋まる。
「新大阪は新幹線との接続があるよって。東京や名古屋方面から来て鳥取を目指す人は、新幹線に乗って、だいたいこの新大阪かまたは先の姫路でこの列車に乗り換えるみたいやな」
 5両編成の列車は、青と白と銀と赤の装いを水面に映して淀川鉄橋を渡る。
 次の停車駅は、関西地方のハブ・ステーションJR大阪駅。滑り込むように3番線に入線。
 ここでも「スーパーはくと」を待つ乗客の長い列が出来ていた。ほとんどはスーツ姿のビジネスマンだ。
「あ、いたいた。ワンテツの奴、お約束の『小鯛の笹漬け』をしっかり持ってはるわ」
 カラス氏の元同業者でポン友だという羽犬塚哲夫が、ゴルフバッグを肩に担ぎ、両手にビニール袋をぶら下げて車内に入って来た。
「やあやあ、おはようございます。信貴之端組合長閣下も、天下の官能漫画家先生もご機嫌ようです。お江戸からわざわざお越しのバカミスのセンセもご無沙汰さんです。いやぁ、男川正朗はんが書かれはった本はしっかりウチの店にも置いてまっけど、相変わらず全然売れてまへんなぁ」
「おう、ワンテツ。よく来たの! まあ座れ。そんでもって、ほれ飲め飲め。駆け付け10杯と行こうや」
 官能漫画の大家が度数45度のテキーラボトルを振り回しながら喚く。もうビール程度のアルコールでは満足行かなくなっているようだ。足元には空になった缶が何個も転がっている。

「カラス先輩、相変わらず飲むピッチ早いですね。……それにしても、この羽犬塚さんが持って来てくれた『小鯛の笹漬け』って、マジで美味いですね」
 のんべカラスのペースに引き摺られ、男川も若狭湾名産の珍味を肴に、グイグイ杯を重ねてしまっていた。
「うい、ひっく。……ところで、今日これから僕らが行くのは、鳥取県にある『さんちょう温泉』って所でしたよね」
「あほ! ちゃうわ。さんちょう温泉やなくて、三朝と書いて『みささ』と読むんやがな。鳥取県が世界に誇る名湯中の名湯だっちゅうの」
「失礼しました。みささ温泉ね。そこに行くには、この特急列車で終点の倉吉って所まで乗るんですよね」
「おうよ。倉吉は県庁所在地の鳥取の西にある静かな街や。地図で見たらワンコが駈けてる姿に似てる鳥取県の、ちょうど犬の背中あたりにある地方都市。ちなみに、JR倉吉の駅は、昔は『上井』という名の山陰本線の駅やった。本当の倉吉の中心市街地は山陰本線から南に離れた内陸にあって、そこには、かつては『国鉄・倉吉線』という盲腸ローカル線が伸びていたんやで」
 聞かれてもいないのにカラス大先生は鉄道廃線跡の知識をくどくど語り始める。酔っ払うと、『テツ王』はクソッタレの『鉄爺ぃ』になってしまうのだ。
「はいな。鳥取ええとこでっせ。名湯に入って、美味いもん食ろてワイワイ騒いで、そんで翌日は、皆なでガチガチのニギリ鉄火場ゴルフやるってわけですわ」
 ワンテツ氏が音速でビールを胃に流し込みながら言った。彼は梅田地下街にある中規模チェーンの書店で店長をやっているという。
「そや。普段忙しい書店人や漫画業界人にとって、年に一度のゴルフ慰安旅行の正しいスタイルや。ちなみに、美味いもん食べての後にはコレもあるで……」
 神話上の英傑に化けた男が下品に小指を立てた。コテコテ関西人店長がガハハと合いの手を入れる。
「さいだす。いやんいやんの慰安旅行ときたもんや。明日のゴルフは、官能漫画家先生も皆さんも、たぶん腰が回らんがな」
「何ゆうか。ワシの自慢のドライバーは疲れ知らずやで。先っちょなんか、チタン合金製やがな」
「あらま。そら、あんじょう飛ぶでっしゃろな。んでも、OBんなって後で痛い思いせんよう、クラブヘッドにゴムのカバー着けて振らなあきまへんで。ほっほっほ」
 柔和で温厚な紳士のはずの信貴之端ご老公までが、赤い顔で超お下劣ギャグを飛ばす始末。
 これはとんでもない温泉ゴルフ慰安旅行になるんじゃなかろうかと、男川正朗は一人慄くのであった。

               3

 因幡の白兎特急「スーパーはくと」は、六甲の山並みを右車窓に見ながら快調に飛ばして行く。
 まもなく神戸の三宮に到着しますとのアナウンスが流れた。
「速いのう。さすがは5両編成で合計3550馬力のコマツ製エンジンや。JRの新快速にも阪急や阪神の快速特急にも負けてへん。うん? あれ、あいつは……? げほほっ」
 カラスオヤジが、柿の種のピーナッツを喉に引っ掛けた。
 5号車指定席の車内に、三宮から一人の男が乗って来たのである。
 スーツ姿の太った中年男。ずんぐりと短い猪首に派手な原色の縞模様のネクタイ。絵に描いたような悪党キャラの人物。
「あー、あかん! あかんあかんの阿寒摩周国立公園ってか。こんな所であんな奴に会うなんて」
「出ましたぁ。カラス兄ぃのツマンない定番あかんギャグ」
「ほっとけ。あーああ、参った参った。今日は暦の上で仏滅か三隣亡かいな」
「えっ? あの太った人、カラス先輩のお知り合いですか?」
「ああ、あいつはな、猫山拓二という奴でな、職業はヤミ金融。えげつない商売やってる奴や」
「先輩と仲がいい人じゃないみたいですね」
「ああ、仲がいい悪いどころか、ワシの最大にして最悪の敵よ。以前にワシが難波で書店やってた時、あいつにエラい目に遭わされた事がある。奴はケチでガメつくて業腹で、名前をもじってネコババ男と言われとるわ。ネコゆうよりハイエナかドブネズミ。名前も顔も見たくないクソ野郎や」
 数年前まで苦労人だった元弱小書店経営者は大声で吐き捨てる。
 ネコババ金融業の男性は、指定切符を手に自分の席を探していたが、注がれる敵意の視線に気付いて、カラスの目とガチンコしてしまった。
 しかし臆して立ち止まるでもなく、会釈も目礼もせず、涼しい顔して横を通り過ぎた。自席を見つけて腰を下ろした。その席は男川たち四人の席から数ブロックくらいしか離れていない所にある。
「あの人、知らん振りしてるみたいです」
「せやな。ワシも声なぞ絶対かけんで。それにしても、こんなすぐ近くの所で、奴が吐いた息が混じった空気を吸わされんのが心苦しいわい」
「まあまあまぁ。カラスの本屋の元社長もとい今や出世街道まっしぐらの高野山センセ、そないガアガア毒づいてないで口元緩めて。グラスをグイッと呷って。飲んで飲んで。ほらほら、楽しく陽気に、ビバ、アミーゴス」
 羽犬塚店長がなだめすかし、漫画家先生の持つ紙コップにテキーラとビールをドバドバちゃんぽんで注いだ。

 銀色のステンレスボディに瀬戸内の陽光が映える俊足特急列車は、須磨海岸沿いの山陽本線を一気に駆け抜けて行く。
 明石海峡大橋を横目に見たあたりで、真っ赤な顔の羽犬塚店長が立ち上がった。
「アミーゴ。俺、トイレ行ってくるわ。もう下のタンクがパンパンやわ」
「ほうかい。よし、じゃ、ワシも行こ。ワシ、酒飲むといつもウンコしとうなるんや」
 ヨッパライ関西人と、お下劣漫画家先生が共に席を立つ。
 カラス氏は、例の太っちょ猫山氏の横を通り過ぎる時にあからさまに顔をそむけて行った。
「なんともはや、高野山先生のおっちゃんは、以前大阪で書店を経営してた時に、あのラスボス猫みたいなヤミ金の人に相当痛い目に遭わされたみたいですね」
「そうどすな。ま、烏谷はんもずいぶん苦労したはるさかい。人には言えへん話が心の内にあれこれあるんでっしゃろ。それはそうと」
 一人残った信貴之端翁が、まっ白鬚を撫でながら男川の顔を見る。
「お江戸からお越しの色男はんに、私が訊いていいものかどうかずいぶん迷ったんやけど……」
 老人は口の中をもごもごさせた。
「は? 何です?」
「つまりその、今夜の三朝の温泉宿の事なんやけど。幹事を任された私は、とりあえず四人の相部屋を頼んだんやけどな。……やっぱしマズいやろね。烏谷はんと男川はんの二人は別室にしてあげな。うんうん」
「はい?」
「つまり、今夜の宿の部屋は二つに分けて、薄毛のネコはんと相方のカラス天狗は、私らと別の部屋を用意してあげなあかん思とるんどす」
「へ!?」
 男川は脳天から声を出してしまった。何を言われたのかすぐには理解できなかった。
「つまりでんな。可愛い後輩君とセンパイはんの熱々カップルは、二人だけの世界にしてあげなあかんゆうとるんどす。外野の連中は、他人の恋路を邪魔しちゃあかんあかんの阿寒湖のマリモってもんどす。うんうんうん」
「ひ!」
 男川はブッ飛んでしまった。座席の上から2、3センチ体が浮いてしまった。
「ちちちち、違います。違います! とんでもありません。僕らはそんな関係じゃありません! まったくの誤解です。三回も四回も五回も言いますけど、それは大誤解もはなはだしいです!」
 ありったけの否定の言葉を光速で口から発した。全身からアルコールがさあっと引いて行くのを感じた。
「ぼ、僕と烏谷由伸さんは、ただの後輩と先輩の間柄です。それ以外の何ものでもありません。詳しく説明いたしますと、昔、烏谷由伸さんの勤めていた東京の有名劇画作家の出版プロダクションで、当時は僕も後輩社員として籍を置いていたという事です。そのプロダクションは大学の体育会系みたいな社風だったので、以来、退職してそれぞれ別の道を歩む事になった今でも、そのままセンパイと舎弟分というコミュニケーション関係を続けているという次第です」
「そうなんどすか。申し訳ない。いや、お二人が年がら年中仲良くボディタッチ……いや、ドツキ合いばかりしたはるんで、つい私は邪推してもうたんどす」
 ご老体は頭をちょこんと下げた。
「いやはや、もしもお二人がそおゅうご関係やったら、この私は、今夜どないしたらよかろか考えてしもたんどす。温泉宿の大部屋で、お熱いBLカップルの夜を、こんなしわくちゃ爺いや酔いどれ野暮天男が横におって出歯亀するんはいかがなもんか、とまあ余計な事考えてしもたんどす。いや、失礼失礼。怒らんといて。忘れてちょんまげ。ほっほっほ」
 大真面目な顔で言った後、髭の信貴之端翁は水戸黄門みたいに大口開けて笑い飛ばした。
 男川も泣き笑いして怒りを誤魔化した。多量のアルコール摂取がご老公の日頃の理性と品性を狂わせてしまったのだと、自分に言い聞かせる事にした。
「よっ、何や? 恋人がどないしたって?」
 白装束のお下げ髪が戻って来た。
「恋人いない歴ウン十年の優しさだけが売りの迷探偵マーロウ氏は、未だに寂しいボッチ生活。そや、信貴之端のおやっさん、こいつに嫁さん世話してやれんもんかいな。四十男がいつまでも独り身続けてっと、そのうちマジでBL小説や漫画の主人公にされてまうで」

 鳥取・倉吉行き特急「スーパーはくと3号」は姫路に停車。
 新幹線からの乗り換え客が何人も乗り込んで、車内は座席が七割方埋まった。
10時45分、兵庫県西部にある山陽本線上郡に到着。
 小さなローカル駅だが、山陽山陰連絡特急列車は3分間停車する。
「ここや、ここが上郡。こっからがスーパーエクスプレスのハイライトシーン。この駅から白ウサギは山陽本線と離れ、いよいよ非電化単線の第3セクター智頭急行線に入る。そして、右に左にピョンピョン飛び跳ねる」
 真っ赤な顔したテツ王先生が意味不明の事を言い始める。

 10時48分、屋根上の排気管から碧煙をもうもうと噴き上げながら、ディーゼル特急列車は上郡駅のホームを離れた。 
 ポイントを抜け、一気に加速して行く。先程までよりスピードが上がった感じがした。
「けっこう飛ばしてますね。速いですよ」
「そやろ。でも、驚くんはまだ早いで。このHOT7000系車両は、まさにウサギの皮被った狼なんやから」
 カラスのおっちゃんがまた意味不明な事を宣う。

 そして――
「……先輩、僕はちょっと飲み過ぎたみたい。ちょっとフラフラして来ました。何か気持ち悪いです」
「そっか。そやろな。トイレは隣の4号車や。食ったもん戻すのはいいけんど、洗面所は汚すなよ」
「はい、ちょっと行って来ます」
 立ち上がって、青い顔の男川は歩き出した。
 ――と、グラリと車体が傾いて、
「うわっと!」
 男川はバランスを崩し、真横に倒れてしまった。通路側の席にいた独りの若い男性乗客の膝元に頭から突っ込んだ。
「痛てて! あっ、す、すみません! ごめんなさい。申し訳ありません!」
 男性にのしかかった状態になって、必死に頭を下げる。
 すぐに喉の奥からこみ上げてくるものがあって、口に手を当てた。
「ううっ、吐きそう。ごめんなさい。お詫びは後できちんと申し上げます。とりあえず失礼します」
 起き上がって脱兎のごとく駆け出した。
 運悪く、隣の4号車のトイレは使用中。
 湧き出るゲロを唇のダムで防いだ男川正朗は、目を白黒させながら通路を走った。
 次の3号車のトイレ。あかん! 使用中だ。ダムの決壊はもうすぐ。急げ! 走れ。走れッ!
 2号車のデッキに飛び込んだ。トイレは……がびーん! 使用中。あうう、もはやこれまでか……
 見れば、デッキの隅にゴミ入れの容器が設けられている。
 間一髪、男川は頭を突っ込んだ。
「あいい、う、えぇぇ、おおぅ、かきくく、げっ、げえええっ」

 ひととおり、胃の中を全部空にしてから、洗面所へ行き、口をゆすいだ。
「大丈夫ですか?」
 涼しい声が一陣の風になって酔いどれ男の耳をくすぐる。
 目の前の鏡を見れば、背後に小さな人影が。
 振り向いた男川正朗の前に、グレイの制帽を被った制服姿の妖精が現れた。
「お客様? 大丈夫ですか?」
 妖精は、静かな湖水を湛えたような瞳で男川の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫です。すみません。ゴミ入れを汚しちゃった」
「いいんですよ。こちらこそごめんなさい。この列車はよく揺れるでしょう。ご気分を悪くされるお客様には大変申し訳なく思います」
「い、いえ。列車の揺れじゃなく、僕が酔っ払っちゃったのが悪いんです。昼間っからお酒ガバガバ飲んじゃって、醜態さらしてみっともないです」
 言ってるうち、体中のアルコールがしゅわーっと蒸発して行くのを感じた。体中の毛穴が膨張し、脳や心臓の動脈の中で、遅かりし青春の熱き血潮が激流になって迸って行く。
 それほど、眼前にいる若い女性は言葉に形容できないほどの美しさと太陽のような強烈な磁力を持っていたのである。
「あ、貴女は……もも、もしかして、こ、この列車の車掌さん、で、です、かぁ?」
 男川の舌はもつれ、声が鼻から出てしまった。
 目の前にある花の蕾のような唇から、笛の音のような美しい声が返って来る。
「はい、わたしは『スーパーはくと3号』の智頭急行担当車掌で、曽根と申します。本日は当社の列車にご乗車いただきまして、ありがとうございます」
 絶世の美女妖精が、大迷惑乗客に対し丁寧に腰を折る。
 男川の胸はキュンと音を立てた。
「こ、こちらこそ、乗せていただいてありがとうございますです。これは快適な列車です。速いし、車内は綺麗だし、それに車掌さんも綺麗で素敵だ」
「は?」
「いえ、何でもありません。では、失礼いたしますますます」
 火照った顔にぱんぱん気合を入れ、男川正朗は背筋をしゃんと伸ばした。宙を泳ぐようにして場を離れた。
 現金なもので、すっかり酔いも醒めて頭の中は清涼爽快。気分は最高である。

 5号車の自席に戻る途中、やらねばならぬ事があった。
 先程車内でひっくり返った時に迷惑をかけた男性に、改めて謝罪しなければならない。
 男川は男性の席を探す。相手は、おかっぱ頭をした少し変わった雰囲気の青年だったはずだ。
 目指す席はすぐに判った。でも、席の主がいない。
 シート上にはリュックが置かれ、旧式アナログカメラ用の35ミリネガフィルムケースが数個転がっている。足元にはジュラルミン製のカメラバッグとカメラの三脚。どうやら、この席にいた例の男性は相当なこだわり派の「撮り鉄っちゃん」らしい。
 彼はトイレか洗面所にでも行っているのだろう。
 待ってても仕方ないので、男川は自席に戻る事にした。
 その時に気付いたのだが、男性のいた席の通路を挟んで反対側に、例の太ったラスボス猫がいた。一人で二人分の座席を占領し、股を大きく開けてふんぞり返っている。趣味の悪い大きな靴が床を踏みしめている。
 居眠りしているのか、悪徳金融業者氏は目を閉じていた。

 自席に戻った男川正朗は、早速カラスの相棒に耳打ちする。
「先輩、僕見ちゃったんですけど、この列車には、すっごく可愛い美人女性車掌が乗ってますよ」
「ホンマかいな。どれ、今どこにおるん?」
「向こうの2号車にいました。もうすぐこっちにも来るでしょう」
「どれどれ、ワシ、行って見て来るわ」
 超能動的なエロ漫画家大先生が立ち上がった。美女と聞くと、マッハのスピードで走り始めるのがこの人なのだ。
 
 しばらくして、カラス大先生が戻って来た。一人ではない。ちゃっかりと美女を同伴している。
「皆の衆、紹介するで。ミス『スーパーはくと』の曽根津由美さんや。つゆみさん、うんうん、美しい響きの大和撫子の名やの」
 連れて来られた女性車掌(カレチ)は、困った顔しながらも、フェロモン出しまくりの可愛い笑窪を頬に浮かべている。
「お客様、本日は智頭急行『スーパーはくと』にご乗車ありがとうございます。皆さん楽しそうですね。これからゴルフに行かれるんですね。頑張って下さいね」
「わおおっっ。本当だ。チョー可愛いぃぃッッ」
 ミス智頭急行の妖精の顔が朱に染まる。
 男川の顔を見て、制帽をちょこんと下げて軽く会釈を寄越した。男川も自然に湧き出た笑顔を返してあげた。
 デレデレ顔の書店店長が唾を飛ばす。
「ええですのぅ。わて、こんなアイドル女優みたいに綺麗で素敵な車掌さんがいらはる列車なら、何度でもリピーターになって『乗り鉄』しますよって」
 同感だと男川も思った。
 妖精カレチは満面の笑みで応える。
「そんな……でも、うれしいです。ウチの社長にありがたく報告しておきます。それじゃ、皆さん、失礼します。何かありましたら、遠慮なく呼んで下さい。わたしは4号車の業務室におりますので」
 制帽の下にある栗色に染めた髪を翻し、花のような香りを残して踵を返した。

 そうこうしているうち、特急「スーパーはくと」はいくつものトンネルをくぐり、いくつものカーブを曲がった。
 スピードは全然落ちていない。山間部のローカル線を必死になって走る姿を予想していた男川は、その余裕ある健脚に驚かざるを得ない。
「何か、この列車、カーブにさしかかる時に車体が大きく傾くみたい。そう、ちょうどまるで遊園地のジェットコースターに乗っているみたいな感覚だな」
 向かいに座る悪魔のテツが目を輝かせる。
「ようやく気付いたんかい。そや、この特急列車の秘密はここにあるんや。このHOT7000系車輌は、振り子式という特別装置を持った気動車なのでありまっし」
「なんですか? そのフリカケだかブリッ子だかって?」
「ブリっ子やない。振り子式。カーブの時に車体を内側に傾ける特殊装置や。左右に頭を揺らす振り子みたいにな。そうやって遠心力を相殺してカーブを曲がって行く。例えるなら、バイク乗る時のハングオン・ハングオフ姿勢みたいなもんや。だから、この列車はたいていのカーブならスピード落とさず高速で走り抜けられる」
「僕が気持ち悪くなって吐いたのもそのせいですかね。つまり」
「せやな。慣れてないと船酔い状態になる人もいるらしいで。特に進行方向に向かって背を向けて座ってたらイチコロやねん。『吐くど』号とはよくゆうたもんやな」
「カラス先輩はそれを知ってて、今まで僕に黙ってたわけですね」
「イエス・アイ・ドゥー。何事も身をもって知るのや。新進気鋭のミステリー作家を気取んなら、まず体張ってネタを収集せなあかん。日々修業せなあかん。あかんあかんの霧の阿寒湖。あ、違た。霧の摩周湖だったわな」
 遅い歳でデビューしてとんとん拍子に成り上がったアカン漫画家が、大御所みたいなデカい面して胸を張る。
 毎度の事なので、男川正朗は腹が立つどころか、相も変らぬイジられあかんキャラの自分を自分で笑うしかない。

「……皆様、ご乗車ありがとうございます。あと3分で大原に到着いたします。大原は剣聖宮本武蔵を生み出した歴史の里、美しい美作(みまさか)の街でございます」
 妖精車掌の歌うような肉声アナウンスが天井のスピーカーから降りて来た。沿線の観光ガイドまで盛り込むのは、地方の第3セクター鉄道ならではの粋なサービスであろう。
「ええのええの。ここは宮本武蔵の古里かいな。そうか! つゆみさんは『おつう』さんって事や。もしかして、美しい美作の国に住む妖精の曽根津由美さんは、かの有名な武蔵の恋人の女性の末裔なのかも知れんの?」
 
 下り特急「スーパーはくと3号」は第3セクター智頭急行大原駅のホームに滑り込んで行く。
 歴史ある街の観光駅とはいえ、乗降客はまばらだ。
 と、突然、5号車の車内通路でドタッという音が聞こえた。どこかで人間が倒れた音?
 ほとんどの乗客が音がした方向に首を伸ばす。
 車内通路で、一人の若い男が床に腹ばいになってもぞもぞ首を動かしていた。
「何? あいつ何やっとん? 別に列車はそんな大きく揺れておらんやんけ。あのマッシュルーム・カットのアホは何で大袈裟に通路に倒れてんね?」
 男川正朗は、おかっぱ頭を振り乱す若い男性の顔に見覚えがあった。
「あの人、さっき、僕が電車の揺れで倒れてのしかかってしまった青年ですね。今度は彼が同じようにぶっ倒れて、周りの乗客に迷惑をかけています」
 おかっぱ君はゴキブリみたいに床の上を動き回っていたが、やがてぽんぽん膝を叩いて立ち上がった。
「しゅうぅ。んん……しゅしゅっ、ちっ」
 某有名SF映画に出て来た宇宙一の魔人みたいに口からシューシュー息を吐き出し、ズボンについた汚れを払って自席に戻る。足元に置いたカメラバッグを開いて、中から取り出した旧式アナログカメラ用の35ミリフィルムケースをいじり始めた。
 見ていた宇宙一傲慢な鉄道の魔人が看破した。
「あーあ、嫌やな。あれぞ一番嫌われる『撮り鉄』やで。列車の写真を撮る時にルールを無視して線路に立ち入って、運転士に警笛ボタンを何度も押させるタイプや」
「いわゆるひとつの『困ったちゃん』の人ですね」
「あん。年がら年中ブツブツ文句を呟いてるモノローグ大好き男や。四六時中誰かを恨んでいて、つまらん事で逆恨みして激昂する。さっきひっくり返って奴にのしかかったおぬしの迷惑行為なんか、えらい恨まれとるで」
「嫌ですよ。苦手なんです。ああいった人。でも、仕方ない。僕が悪いんですから。はい、もう一度きちんとお詫びに行って来ます」
 男川は立ち上がり、おかっぱ青年の席へ歩み寄った。
「もしもし、あのー、さっきはごめんなさい。うっかり倒れちゃってご迷惑お掛けしました。ちゃんとしたお詫びを申し上げるのが遅くなりましてすみませんでした」
 腰を45度に曲げ、神妙に首を垂れる。
 青年はぎょっとして、身を硬くした。
「しゅ、しゅん……」
 手にしていたフィルムケースを隠すようにジュラルミンバッグに入れ、蓋をバチンと閉めた。
 何も言わずにそっぽを向く。テメエなんぞとは口も利きたくないという意思表示のようだ。
「すみません。本当にごめんなさいね。以後きちんと気を付けます。勘弁してくださいね」
 再々々度頭を下げ、男川は踵を返した。一応筋は通したつもりだ。
「カラス先輩、あの一見して魔界住人のオタク風青年、かなり怒ってるみたいです。全然口を利いてくれません」
「そやろ。あの手は怖いで。ネチっこいで」
「困っちゃったな。どうしよう。何かお詫びの粗品でも持って行きましょうか。それで許してもらうってのは?」
「いんや。ほっとけ。ああいうのは構わないでいるのが一番やって」
 魔界に造詣が深いカラス先生は冷たく言い放つのだった。
 
 青と白の流線形先頭車がタイフォン一声、大原駅ホームを離れる。
 次の停車駅は第3セクター智頭急行の終点にしてJR因美線との接続駅智頭である。
 11時28分、定刻に列車は鄙びた山間にある智頭駅の小ぶりのホームに滑り込んで行った。
 ここからは、運転士と乗務車掌がJRの職員に交替する。
 任務を終えてホームに下りた智頭急行のキュートな妖精が、車内の男川たちに手を振って来た。男川たち四人も窓越しに手を振った。カラスのお下げ髪おじさまは投げキッスまで送ってあげた。
 2分停車ののち、「スーパーはくと3号」は発車オーライのタイフォンを鳴らした。
「あと30分弱で鳥取に到着やと。速いもんや。さすがは山陽と山陰をショートカットで結ぶバイパス路線ってか。昔のJR播但線経由のオールド・キハ181系特急『はまかぜ』やったら、今の時間はまだ城崎の手前くらいをトロトロ走ってたんに」
  
 JR郡家駅を発車。床下のコマツ製SA6D125H型エンジンが唸りを上げる。  
 男川は席を立ち、トイレに行く事にした。
 自席に戻る途中に、例の困ったちゃんの撮り鉄青年の席を見たが、姿はなかった。それまであった荷物も無い。彼は先ほどの郡家駅か一つ前の智頭駅で下車したのだろう。
 男川は、席のちょうど反対側にいる太っちょ金融屋氏に目を向けた。
 相撲力士みたいにどっしり腰を沈めた猫山は、首を曲げて自分の足元を見ている。膝とつま先がしきりに貧乏ゆすりしていた。

 振り子式特急列車は険しい山間部を抜け出て、緑広がる因幡平野をハイスピードで突き進む。
 県庁所在地の鳥取が近づき、列車内には穏やかな空気が流れ始めた。大声で喋ったり席を立ったりする人はいないが、話し声があちこちから漏れ聞こえて来る。四人掛けボックス席のおじさんカルテットは、呑み疲れなのか皆こっくりこっくり船を漕いでいる。
 やがてJRの男性車掌の車内アナウンスがあり、鳥取駅での乗り換え列車案内を告げ始めた。
 5号車の車内は慌しくなった。乗客の多くが立ち上がって、バッグや土産袋などを荷物棚から下ろし始めた。

 ――その時、事件は起こったのだった。
「キャー!」
 女性の物凄い悲鳴が5号車に轟き渡った。降車の準備でざわめいていた車内が瞬時に凍りつく。
 悲鳴の主は車内の中ほどにいた中年の女性だった。荷物を下ろそうと通路で背伸びしていた。
 彼女の足元で、大柄のスーツ姿の男性が座席からずり落ちて、床にへたり込んでいる。男性の顔はどす黒く変色し、生気がまるでない。唇が半開きになり、舌先がぺろりと飛び出していた。
 悪徳金融業者猫山拓二の心臓と脳と血管と筋肉は、その時点ではまだ微動をしていた。生きる努力をしていた。
 その動きは十数秒後に止んだ。
 床にがっくり崩れ落ちた太っちょの体から、生命の残滓が陽炎のように立ち昇り、すぐに消えて行った……。

               4

 事件の起きた「スーパーはくと3号」は鳥取駅に長時間臨時停車し、遺体の搬出や乗務員乗客への事情聴取が行われた。
 結局、同列車は運転を打ち切る事になり、乗客は旅の行程途中で足止めを食らわされる羽目になった。

 鳥取駅構内にある県警鉄道警察隊分駐所の前のコンコースは、今、大パニックのカオス状態である。
 同列車に乗車していた旅客全員が集められ、姓名と住所、事件発生時の自分の乗車座席位置などを捜査員に訊かれている。ほとんどの乗客は不承不承従ったが、中には、捜査員に食って掛かる人もいた。
「何でやねん。今頃は温泉に入って美味いモン喰ろてええ気分になってたはずやのに、楽しい慰安旅行がメチャクチャやないかい。どないしてくれんのや」

 そうこうして1時間ほど経った後、やっと乗客は開放される事になった。
 しかし、事件の起きた5号車の乗客の一部だけは残される事となった。その中には、男川正朗と烏谷由伸たち温泉ゴルフ慰安旅行四人組も入っている。
「おい、待て! どうしてワシらだけ帰してくれへんのや。ワシら無実の善良な高額納税者やで。潔白のイナバのまっ白ウサギやがな。人を外見や言動だけで判断したらアカン。アカンアカンのアッカンベー。おい、早よ帰せや!」
「まあまあ、まあ、そげん吠えんと」
 捜査班のチーフらしい、福笑いみたいなアンシンメトリー顔の中に全然笑ってない細い目をナナメに配した私服刑事が慇懃無礼に言い放つ。
「皆さん方には大変申し訳ないのでありますがー、何ちゅうても、これは人間一人の大切な命が失われた重大事件でありまして、今しばしご辛抱いただきたいんですわ」
「ワシら関係ないやろが。別に、あんな奴がどうなろうと知ったこっちゃないわい」
 その言葉に、刑事の笑ってない目に稲妻が走る。口調が少し強くなった。
「知ったこっちゃないって。そげな事言うお宅さんは、大阪にお住まいの烏谷由伸さんでしたな。烏谷さんは、今回亡くなった猫山拓二さんと面識があったはずですがの?」
「いや、知らん。ワシは知らん……」
「よう言いよる。知らんはずないでしょうがー。被害者の猫山さんの持ってた手帳のアドレス欄に、お宅さん烏谷由伸さんの名前がしっかり載ってましたがな。しかも、お宅さんの名前と一緒に何やら金額らしい数字と日付まで書き込まれておったが。事件の起きた今回の『スーパーはくと3号』の乗客の中で、猫山さんと接点を持つ人間は烏谷さん、お宅さんだけだいや。そげん非常に参考になる人に簡単にお帰りいただくほど、鳥取の警察は甘くないですけ」
「ふふん。奴は金貸しや。しかも真っ黒い悪徳町金業者。確かにワシも以前に大阪で本屋をやってた頃は、奴に金を借りた事がある。そやさけ、奴のエンマ帳に名前が載ってたって事や。ただそれだけの事だわい」
「それだけ? えなげなもんだ。烏谷由伸さん、お宅さんは列車の中で、亡くなった猫山さんの悪口をさんざ吠えてたらしいですな。すごい剣幕で。それは周りにいた他の乗客から裏が取れてますがの」
「そ、そら、悪口しか言えんほど奴の評判が悪いからや。奴に出会って、奴にニッコリ微笑む人間なぞこの世におるわけない。ワシかて、奴が列車に乗ってきても、最初から知らん顔してたわ。もしも奴が馴れ馴れしくワシに声掛けて来ても、こっちゃ、問答無用で奴に唾を引っ掛けてやったわい」
「ほほう、つまり、烏谷さん、お宅さんは猫山さんに対して何やら特別の感情をお持ちだったというわけだがー」
「おい! 冗談やないで! そのガーガー鼓膜に突き刺さる失礼な言い方は何や。のっけからワシを容疑者扱いかい。よし、弁護士を呼んだる。ワシはごっつスゴ腕の大阪の弁護士を知り合いに持ってるで」
「どうぞどうぞ。結構ですがー。でも、大阪からだと、最終の『スーパーはくと』に乗ってもらっても、鳥取への到着は夜中になりますけ」
「くそっ! そんなら黙秘する。もう一切何も話さんッ」
「そげん態度は、お宅さんの立場を不利にしますけど、よろしいか?」
「……」
 重要参考人濃度が一気に跳ね上がってしまったカラスのおっちゃんは押し黙り、口を横一文字にしてしまった。
 たまらず、そばで黙って聞いていた永年の相棒が口を挟む。
「あ、あのー、刑事さん」
「ん? 何です」
「僕は男川正朗と申しまして、カラス先輩――烏谷由伸さんと今回一緒に鳥取に旅行にやって来た者なんですけど、ひとつ質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「被害者の猫山さんは何で亡くなったんですか? 列車の中であの人が倒れた姿を見た時、なんか尋常ならざる恐ろしい感触を受けたんですけど」
「それは、当方としてはまだ捜査中でベラベラ一般の方に話せるものではないのだがー。まあええが……少しくらい話しても。いや実は、亡くなった猫山拓二さんは特殊な薬物・毒物に体が冒されてしまったんです」
「毒物?」
「ええ。ヒトの循環器系に作用する強い薬物です。血液中に取り込まれると、血球を瞬時に凝固させて、心臓血栓を起こさせて数分後に死に至らしめる。ほんの僅かな量で人間を何人も殺害できる、サリン並みの恐ろしい猛毒です」
「その猛毒を、猫山さんは飲まされたんですか?」
「いや、飲んだんじゃなく、皮下注射です。非常に変わった凶器を使ってね」
「凶器?」
「そう。捜査中の資料で外部に見せるのは本来マズいんじゃがー。まあええが……少しでも捜査情報を得るためにも。ええ、変わった凶器ちゅうのは、これなんですけの」
 斜眼の捜査員は、透明プラスチックケースを一同の前に差し出した。中には一枚の百円硬貨が入っている。
「それって、お金ですよね?」
「ですな。百円玉です。猫山さんが上着のポケットに入れていたもの。でも、よう見ると細工されてるのが解る。……あっ、気ぃ付けてつかーさいよ。ヘタに触ったら、ガイ者と同じ目に遭いますけッ!」
 ケースの中の百円玉には、周囲のギザギザの部分に長さ2ミリくらいの針がたくさん植え付けられていた。金属用接着剤で貼り付けたのだろう。ちょっと見ただけでは針の存在が判らないよう工夫してある。実に巧妙かつ陰湿な殺人兵器であった。
「つまり、被害者が所有していた百円硬貨の周りに毒物の漂着した針が植え付けてあったわけです。猫山氏はこの百円玉を素手で触り、指に針を刺してしまったっちゅうわけです」
「ふうん。変わった凶器ですね。まるで、海外の某有名ミステリー小説に出て来た、毒針を仕込んだコルク玉みたいなものだ」
 男川は感心して、ある古典的本格ミステリー作品のネタを口に出してしまった。
 捜査員が目尻を鋭角に吊り上げる。
「ちょ、ちょっと、お宅さんは、えーと、男川正朗さんでしたかの。あなた、えなげな事言うちょるけど、お仕事は何されてる人です?」
「僕ですか? 僕は東京でミステリー小説なぞ書いてる者です」
「ミステリー小説ですと?」
 鬼目刑事は露骨に口元を曲げた。「ふふん。つまり名探偵さんが出て来るお話ですかの。我が鳥取県出身の人でも、アニメにもなってる少年向けミステリー漫画を描いている有名漫画家がいますがー。まあ、現実の事件ちゅうもんは、漫画や小説より奇なり、とはなかなか行けんもんです」
 男川も顔を思い切りひん曲げた。
「いえいえ、地元が生んだ偉大なクリエイターの人の作品を揶揄しちゃいけませんって。ところで、被害者の猫山さんはこの毒針百円玉をどこで手にしてしまったんでしょう? 特急『スーパーはくと3号』が鳥取到着のひとつ手前の郡家駅を出るまで、あの人は普通に座席に座って平気な顔をしているのを僕は見ました。彼を毒針百円玉で殺害しようとしたら、途中の郡家駅から鳥取駅までの約10分間以内に行わなければならない。猫山氏乗車の5号車の車内で、この時間内に席を動く人は誰もいなかった。という事は、凶器の百円玉は何時どこで、どこにいた人間から渡されたんでしょう?」
「やれやれ、名探偵さんは漫画やテレビや小説の中だけでご活躍していただきたいもんですの」
 鳥取警察の刑事は口元に薄ら笑いを浮かべた。角度を緩めた目は少しも笑っていない。
「別に、百円玉は直に相手に手渡ししなくてもええんです。事前に被害者の財布かポケットの中にでも入れてしまえば、時限爆弾のように、いつかは被害者本人が触る事になりますがー」
「でも、猫山さんに事前に接触した人は誰もいませんでしたよ。あの人の隣の席は三宮の乗車時からずっと空席だったし、あの人が途中で席を立ったのを見た事も無かった。他の乗客や車内販売なんかであの人に声をかけた人も誰もいなかったと思うし」
「声を掛けた人間がまったく全然いなかったわけじゃない。切符を拝見と声を掛けた人物がおったはずですがー」
「えっ? 列車の車掌を疑っているんですか?」
「可能性の問題です。あの特急列車の車掌は、始発の京都から上郡まではJRの男性車掌が乗務していて、そこから先は、バトンを受けた智頭急の若い女の子だったようだし」
「彼女は関係ないでしょう。いくら何でも」
「関係ないかどうかは我々の調べる領分です。列車の車掌なら、乗り越し清算なんかで小銭のやり取りがあります。例の仕掛け百円硬貨を手渡す機会が出来ます。まして、その女性車掌とは、皆さん方はとても親密な関係だったようだし」
「親密って、僕ら、今日初めて車掌の彼女と出会ったばかりなんだけど」
「しぇたもんだ。何か、あんた方は車内であの女車掌とえらい仲良くしてたらしいがー。周りにいる人が羨むくらい。皆さん方の近くにいた乗客から聞き取りましたがの」
「そんな、仲良くって、彼女……曽根津由美さんがすっごく人当たりが良くて美人で可愛いかったから、いろいろ楽しくおしゃべりしていただけです。健康で健全な男だったら、誰でも彼女とは仲良くなりたいと思うはずです」
「ま、いずれにしろ、それは後で調べさせていただきますけ」
 完全な四角四面顔になってしまった私服刑事は口を閉めた。
この調子では、今頃は、あの美人妖精車掌の身にも同じような厳しい追及の言葉が投げ掛けられているのかもしれない。
 男川は曽根津由美嬢の湖水のように澄んだ瞳が泣き濡れている様子を想像し、義憤を感じてしまった。
 官憲の横暴を非難しようと口を開いたところで、隣にいるカラスの尖った嘴に先を越された。
「あの娘は関係ない。どうしてもゆうんなら、このワシ一人どこへでも連れて行け」
 正義の味方、高野山次郎先生が堂々言い放った。
「そうよ。正直言って、ワシが猫山拓二を殺したいほど憎んでいたのは事実や。とにかく奴は意地汚い奴やった。人に貸した金なら例え火葬場で骨と一緒になった十円玉五円玉でも回収するような外道やった。道に落ちてる小銭を探して、いつも下向いて歩いているクソ人間やった。そやって見つけた小銭でいつもポケットん中がジャラジャラ音立ててるチンカス野郎やった。因果はめぐるのや。銭の亡者が文字通り銭に殺されるとはな。まさに人生の皮肉か。奴は、まさに正義の鉄槌を喰ろたんや」
 堂々と胸を張り、「あ、でも、ゆうとくけど、百歩も千歩も万歩も譲って、ワシが犯人やったら、こんな手の込んだネチっこい真似せぇへんで。ワシならば、男らしゅう堂々と真正面から勝負に行くわい」
「なるほどなるほど……その辺のカバチは、ここでなく本署へ行っていっぱい話してくれたらよかね。それじゃ、申し訳ないが、烏谷由伸さん、ちょっと鳥取警察署までご足労願いますかの」
「くっ。ワシを連行しようってか。令状はあるんかい?」
「いや、あくまで任意ですがの。あなた、たった今、真正面から男らしゅう堂々と捜査に協力するっておっしゃったもんで。ま、必要あらば、書類はすぐにご用意いたしますけ」
 刑事が立ち上がった。四角い顔が溶鉱炉みたいに燃えたぎっている。
お下げ髪したカラスの重要参考人も前歯をぎりりと噛み締め、憤然と立ち上がった。

 男川は爪を噛みながら、さっきからじっと考えていた。
 何か引っかかっている物がある。それは出口までもう少しの所にあるのになかなか出て来ない。
 絶体絶命の相棒が、溶鉱炉刑事に引き立てられるようにして部屋を出て行く。
 その時、ドアの端に蹴つまずいてしまい、白装束のおっちゃんは大きくたたらを踏んでしまった。「うわっと! わわわ……」
 前にいた刑事の背中にのしかかり、そのまま二人はもつれるようにして廊下の床に倒れ込んだ。
「何するッ! おい、こんダラズ、抵抗するかッ。公務執行妨害で輪っぱ掛けんぞ。こら!」
「な、何言うとん。ワシ、ただ足引っ掛けてコケただけやないかい。抵抗なんてするわけないわ。離せや。離せっての。ああ、痛っ、くそっ! 今日は本当に厄日や、仏滅やぁ」
 床の上で刑事に組み伏せられ、腕を捩じ上げられてしまったカラス先輩がばたばた暴れている。白麻ジャケットの胸ポケットから零れ出たボールペンやスマホが床に散らばった。
 男川の頭の中を電光が駆け巡った。
「そうか。解った!」
 男川は叫んだ。
「解りましたッ。犯人が誰か判りました! 刑事さん、待って下さい。無実の烏谷由伸さんに乱暴しないで下さい。その手を離してやって下さいッ!」
 
               5

 宵闇迫る因幡平野に敷かれた二本の鉄路を、上り京都行き特急「スーパーはくと14号」がハイスピードで快走している。
 4号車のグリーン室では、ゆったりふかふかシートに腰を落ち着けた四人の男たちが、キリッと冷えたビールで乾杯をしていた。
「美味いッ! 五臓六腑に染み渡るでえ。いやあ、今回は実に楽しい慰安旅行やった」
 昨日の白ずくめから一転、くだけた普段着の黒いサッカーユニフォームシャツに着替えた高野山次郎先生ことカラスのおっちゃんが、ゴルフ焼けの顔をさらにアルコールで赤く染め上げた。
 白い顎髭の老人が応じる。
「楽しいゆうか、例によって波乱万丈でおま。烏谷はんと一緒におると、あたしゃ人生が退屈にならんで、実に有意義どす」
「でも、はっきりゆうて、周りにおる人間は疲れまっせ。年がら年中凶悪事件や殺人事件に巻き込まれはったんじゃ、私ら脇役陣バイプレーヤーズは神経参ってまうがな」
 苦笑いしながら、赤ワインをラッパ飲みして砂丘名物「砂たまご」を齧る梅田の書店店長。
 ドヤ顔のカラス大兄は缶ビールをぐいっと呷る。
「何ゆうとるん。人生は一冊のエンタメ小説やで。一ページ毎に次々に山場が来るんや。ありがたく読んでくれはる奇特な読者を飽きさせてはアカンアカンの悪漢ノワール。なあ、主役を張る名探偵マーロウ君!」
 横にいる永年の相棒で恋人みたいに仲がいい後輩の背中をどんとどついた。
 男川正朗は、頬張っていた名物高級駅弁を喉に詰らせて目を白黒させた。
「……美味いです。この鳥取駅の『特選笹かに寿し』はすごくイケます。だいたい普段からカニなんて高いもの食った事ないし。それに、貧乏小説家の僕は、こんなグリーン車なんて乗るのはめったにないもんで、ちょっと落ち着かないです」
 正直に感激を吐露した。四人分の豪華な弁当代とグリーン車料金は、なんと、あの鳥取警察が公費で落としてくれたのだそうだ。
「いやぁ、四角いガーガー刑事もイキなもんでっせ。夕べはパトカーで三朝の温泉ホテルまで丁重に送ってくれはったし。しかも、ウーウーサイレン鳴らして、赤信号ブッチ切って走ってくれはったんやから」
「当たり前や。そんくらいしてもらなワシの腹の虫収まらん。何ちゅったって、このワシは、理不尽にも留置場にブチ込まれる寸前やったからに」
 冤罪逮捕を免れた赤顔カラスが憤然と嘴を尖らせる。彼が着ている黒いサッカーユニフォームシャツの胸には、Jリーグ公式エンブレムである羽を拡げた伝説の三本足の神鳥がプリントされてある。
「まあまあまあ、カラス天狗改め八咫(やた)のカラスに昇格しはった大先生、済んだ事はすぐに忘れまひょ。人生は山あり谷あり、一篇のハードボイルド小説ですがな」
 紙コップに度数80のウォッカをなみなみ注いで、大阪のコテコテ書店店長は、兄弟分である元同業者に差し出した。
「ハードボイルドやなく、オヤジギャグ乱発のバカミスちゃうか。ワシなんて、所詮はワトスン役の狂言回しに過ぎん。脇役のくせに主役を食っちまった、なんて陰口言う奴おるけんど」
「なんの、三本足のカラスの先生は人格者であらしゃいます。ワトスン役でも、主役のように光り輝くんどす。でも、大先生自身が名探偵になってしもたら、誰もワトスンになり手がないどすえ」
 鳥取名酒「千代むすび」をちびちび口に運ぶ関西書店商業組合の重鎮氏が締めて、グリーン席の一同はガハハと大笑い。 
 男川も笑いながら、昨日午後のあの後の事を思い出していた。

              6

「犯人が誰か判りました! 烏谷由伸さんに乱暴しないで下さい! 離してやって下さい!」
「何だと? 犯人が判っただと? だらずげな事ゆーたら、やったんぞ! え、コナン君」
 溶鉱炉刑事の炎立つ目が、ミステリー作家兼名探偵の顔を睨みつける。
 男川正朗はたじろぎながらも、炎と対峙した。
「コナンじゃなくて、僕はマーロウですって。そんな事より、犯人は、事件の起きた『スーパーはくと3号』の5号車に乗車していた若い男です! そいつは、鳥取の手前の郡家という駅か智頭駅で下車して逃げています。今すぐ緊急配備をして捜すべきです!」
「若い男?」
「ええ。目印はおかっぱ髪とジュラルミン製のカメラバッグに三脚。濃い鉄道ファンといった感じの一癖も二癖もある雰囲気の男です」
「どこの席にいた乗客だ?」
「被害者の猫山さんの真横、車内の通路を挟んで反対側の席に座っていた人物です」
「何でその人物が犯人だと言える?」
「列車の中で、ある時、車内の中央通路に倒れて這いつくばっていたからです。振り子式特急が大原の駅に到着する寸前に、そのおかっぱ頭青年が大げさな感じでよろけてブッ倒れて、床に腹ばいになっているのを僕は見ました。周りの人は、彼が列車の揺れで転んだのものと思っていたかもしれないけど、その時は大原駅に停車する寸前で、振り子式車輌はそんな大きく揺れてはいなかった。そう、おかっぱ君は、その時わざと倒れたに違いありません。故意に通路の上に這い蹲って、床面や座席の下を覗いて何かを探していたんです」
「何を探してたって?」
「まさに、自分が落として紛失してしまった凶器の毒針百円玉ですよ。それはきっと、僕がそれより前に走行中の揺れでうっかりおかっぱ君の膝元に倒れた時に、衝撃で容れ物からこぼれ落ちてしまったものなのでしょう。彼は、ジュラルミンのカメラバッグの中にいっぱい旧式アナログ・カメラの35ミリ用フィルムケースを持ってました。そのフィルムケースって、凶器になった毒針仕込みコインを収納するのにちょうどいいサイズの容れ物なんです。おかっぱ氏はその後に席を外してトイレか洗面所に行っていたようですが、たぶん、フィルムケースの中に収容していた予備の毒針コインの枚数でもチェックしてたのでしょう。おそらく残存凶器の枚数を勘定しながら、次に自分が取るべき行動をあれこれ思案していたはずです」
「ちゅう事は……その若い男は、何らかの意図と目的をもって毒針百円玉を用意していて、それを意に反して列車の床に落としてしまったというんか?」
「そうです。彼はかなり焦ったでしょうね。といって、あからさまに身を屈めて探すと他の乗客に怪しまれるので、列車の横揺れで倒れたフリをして、通路の床面に腹ばいになっていたわけです」
「それで、その男は、車内の床から、その問題の凶器百円玉を回収できたんか?」
「いいえ、出来なかったようです」
「そらまた何でだが?」
「それは、その少し前に、僕が列車の横揺れで倒れて彼にのしかかってしまった時に、まさに車体が振り子のごとく傾いていたため、床に落ちた百円玉が予想外に遠い所、つまり、通路を挟んだ反対側の猫山拓二さんの席まで転がってしまったからだと思います。もしかしたら、自分の足元に届いた百円玉に気付いた猫山さんが、自分の靴の裏でこっそり隠してしまったのかもしれない」
 男川は、股を広げて大きな靴で床を踏ん張っていた猫山の姿を思い出していた。
「何と! それじゃ、被害者の猫山拓二氏は……」
「そう、何も知らずに拾っちゃったんですね。素手で。まさかその百円玉が周囲のギザギザの部分に猛毒を塗った針が仕込まれている恐ろしい殺人兵器とも知らずに。でも、彼はすぐには拾わなかった。鳥取駅到着間際まで待って拾ったのは、誰にも見咎められないようにして自分のポケットに入れる算段だったんでしょう。猫山氏は、道に落ちてる小銭を見つけて自分の懐に入れてしまうのが得意技だったみたいです」
「そや。あいつはネコババの天才なんや。自業自得やッ」
 カラスのおっちゃんが怒鳴った。見豆良ヘアーの無実の潔白先生は、床の上に転がってフテ寝している。
「……むむむ。なるほどなるほど。理屈は通るがの。それでまた、その若い男は何でそげな手の込んだ猛毒兵器を所持してたんだ?」
「さあ、『スーパーはくと』の乗客を無差別に殺戮するつもりだったのか。それとも特定の人間を狙ったのか。もし特定の人間を狙ったのだとすれば、一般流通貨幣を悪用した点から考えて、列車の中で小銭をやり取りする相手、つまり車内販売の人か車内検札の車掌さんを狙ったんじゃないでしょうか……」
 男川正朗は言ってから、例の智頭急行の美しすぎて可愛らしすぎる女性車掌の顔を思い浮かべた。
 彼女の吸い込まれるような深淵の瞳は、時に深い恨みを周囲から買う事があるのかもしれない。
 現に、曽根津由美嬢と仲良く会話をしていただけで、男川と烏谷たち四人は、他の乗客の妬っかみを受け、警察にチクられて悪い印象を持たれてしまったではないか。
 あのダークサイドのおかっぱ頭青年も、常人なら何とも思わない些細な事に一人で逆上し、異常に捻じ曲がった特殊な感情を心に抱いてしまったのかもしれない。

 その後の警察の調べでは、結局、緊急手配がなされた例のおかっぱ頭青年は、夜のうちに、現場から少し離れた場所にあるJR山陰本線餘部駅に併設された旧余部橋梁の鉄道遺産施設から飛び降りて、自らの命を絶ってしまったという話である。
 彼は予想外に早い捜査当局の追跡を知り、もはや逃げられないと覚悟したのだろうか。遺書や釈明の書置きなどはなかったが、旧式鉄橋一部分保存の展望デッキの上に置かれたジュラルミンバッグには、幾つもの旧式アナログ35ミリフィルムケースが残されていたらしい。
 中には、男川正朗の指摘通り、猛毒仕込みの百円硬貨や切り取った毒針の破片が入っていたそうだ。
 調べを進めると、おかっぱ君は理科系の大学の化学研究室の大学院生だった事が判明した。猛毒は大学の研究室から無断で持ち出したものらしい。   
 彼は超の字の付く「撮り鉄派」鉄道ファンだったらしく、カメラバッグの中に残されてあったデジタルカメラには、何枚もの写真データも記録されていた。「スーパーはくと」のHOT7000系をはじめ、鉄道車両の写真に混じって、列車の車掌や運転士を写したものも何枚かあった。
 そうして、心の闇の部分が充分解明されないまま、犯人と断定された鉄道大好きの魔界青年は永遠に口を閉ざした。大昔のシロクニやデゴイチやEFゴハチやロクサンや、新幹線0系や300系が走る異世界の国――妖かしの彼岸に一人で逝ってしまった。

餘部鉄橋1

              7

 鳥取発上り関西方面行きの最終特急列車は快走を続け、因美線と智頭急行の分岐駅智頭に到着した。
 JR乗務員から智頭急行職員に交替し、俊足特急列車は、闇に沈んだ山間地帯の隘路に踏み出して行く。
 間もなく、天井のスピーカーから女性の声が聞こえて来た。
「……皆様、本日は智頭急行をご利用いただきまして、まことにありがとうございます。この列車は、上り三宮・大阪・京都行きの特急『スーパーはくと14号』でございます」
「うおおっ、あの声は『おつうさん』や! 昨日あんな事件があったっちゅうに、休まずに今日もしっかり乗務してはるんやな!」
 やがて、おじさん軍団のいるグリーン車室内に、グレイの制服制帽姿の美しい妖精がやって来た。
「あららぁ、こんばんは。賑やかなおじさまたち、いえ、お客様方。本日もご乗車ありがとうございます」
「わおおっ、キュートな天使の車掌さん、待ってましたぁ!」
 酔っ払いカルテットが拍手で迎える。天使ははにかみながら小さな笑窪を頬に浮かべた。
「おつうはん、昨日は大変やったな。ガーガーうるさいお奉行様の吟味を受けて、悔しくて夕べは寝られへんかったやろに?」
「いえ、大丈夫です。普通にいろいろ質問されただけですから。でも正直言えば、少し震えちゃったかしら」 
「津由美はんも大変どすなぁ。こうゆう仕事してると、いろいろ変な輩に出くわす事があるでっしゃろ。辛くて嫌な目に遭う事もしょっちゅうでっしゃろに」
「ご老公はん、何言うてんね。わてらだって、その『変な輩』のカテゴリーに入ってるんでっせ」
「黙っとれ、梅田の本屋のスケベ店長は」
「すんまへん」
「あはは。皆さんはありがたい大切な普通のお客様です。はい。とにかくたくさんの人に智頭急に乗っていただきませんと。ウチは小さな第3セクター鉄道ですから。儲からなかったら赤字で廃止されちゃいますもの。うふふ」
 美しすぎて愛くるしすぎる女性車掌は口をすぼめて笑った。細くてしなやかな左手を頬の笑窪に当てた。薬指には、キラキラ光る指輪が嵌められている。
 気付いた男川正朗は、思わず口に出してしまった。
「あ、あれっ、それって、ダイヤモンドの指輪!?」
 天真爛漫の妖精はしれっと答える。
「あ、これ?……すみません。わたし、結婚するんです。来月」
「えええぇーっ! け、結婚……!?」
「はい。相手の人は、今この列車を運転している会社の同僚の運転士の人です」
 都会に帰る飲んだくれ四人組は目をまん丸にした。
「シェー! ナニソレ、憎いやっちゃのー。こんな可愛い天使を一人占めにする男がおるとは。まさかだけど、そいつは宮本武蔵の子孫やないやろな」
「うふふ、違います。でも、苗字は佐々木っていいます。名前はもちろん小次郎ではありませんけどね」
「そうかい。ちっ。ちち、し……幸せになってね。ワタシ祈ってますぅ。何はともあれ、おめでたいこっちゃ。うんうん」
 舌打ちを丸めて喉奥に呑み込んで、おちゃらけ八咫カラスは祝福の言葉を述べた。
「あいや、おめでとさんどす。津由美はんみたいな別嬪はんなら、素敵な花嫁はんになられますえ」
「そやそや。第3セクター鉄道の運転士と車掌さん同士の職場結婚。なかなかいい話でっせ。本当におめでとう」
 信貴之端老人と羽犬塚店長も破顔一笑だ。
「ありがとうございます」
「で、でも、昨日会った時は、そんな婚約指輪なんか指に嵌めてなかったのに……」
 最後に残った関東弁の独身四十男の口から出たのは、祝福の言葉ではなかった。
 制服制帽姿の妖精が慌てて左手を背中に隠す。
「あ、ごめんなさい。実は車掌業務はお客様相手の仕事だから、普段はこんな目立つ指輪は外すようにしているんです。会社からもそう言われてますし。でも、今日みたいに、わたしのカレ……婚約者の人が運転する列車に一緒に乗務する時は、この指輪をどうしても嵌めていたいんです。だって、わたしの一番大切な人が運転する列車は、わたしが車掌室にいて守ってあげたいから……」
 頬を赤く染めながら、妖精は殺し文句を吐いた。
 羽犬塚店長が歓声を上げる。
「かぁぁー! 負けた。彼女にそうまで言わす男がこの世におるなんて。コングラチュレイション」
「おめでとさん。幸せな家庭を築くんどす。いっぱい子供産んでの。あ、あかんあかんの阿寒湖。またアホな年寄りがセクハラやってもうた」

 喧噪の中、男はツラいよ顔の名探偵はひっそりため息をついた。
 ガックリ全身から力が抜けてしまった。目の前にいる幸せいっぱいの表情の女性車掌が憎らしく思えて来た。
 でも、人生四十数年、ひたすら叩かれ続けてオトナの分別が身に付いた男川正朗は、すぐに我に返るのだった。
 そう、彼女に罪は無い。
 曽根津由美嬢の輝く美しさ、吸い込まれような澄み切った両の瞳、天使のような可愛い仕草に幻惑された人間がいたとしても、それはその人間の身勝手だ。
 世の中のたいていの男は、常識人としての理性を持っている。それをコントロールできない邪な人間だけが、時にとんでもない暴走を起こしてしまう……。
 男川は、あの毒針仕込みコイン殺人事件の後に投身自殺してしまったという鉄道ファン青年の事を考えた。
 きっと、おかっぱ君は、以前に何度もこの特急「スーパーはくと」に乗る機会があったのだろう。
 その時たまたま乗り合わせたキュートで魅惑的な女性車掌に、彼は恋をしてしまったのだろうか。
 偏った一方的な慕情を「一途な愛」にすり替えてしまった彼は、心の中に描いた自分勝手な妄想をどんどん膨らませ、より大胆により過激に「脚色」してしまったのだろうか。
 そして、ある日、女性車掌の薬指に輝くダイヤモンドの指輪を見た時、彼の「純愛」は大きく捻じ曲がり、醜い歪な「殺意」に変質してしまった……

 男川正朗はぶるるっと首を横に振り、すぐに大きく頷いた。
 目の前にいる制服制帽姿の智頭急行女性車掌に笑顔を向ける。
「おめでとうございます。素晴らしいお話を聞かせていただきました。曽根津由美さん、お幸せになってください。心より祈念申し上げます」
「ありがとうございます。男川さんも烏谷さんも、信貴之端さんも羽犬塚さんも、智頭急行のまたのご利用をぜひお待ち申し上げます。特急『スーパーはくと』号へのご乗車、まことにありがとうございました」
 グレイの制帽の下の栗色の髪をはらりと揺らし、深深とお辞儀をして、美しい妖精は去って行った。

              8

 男川は再び大きなため息をついた。隣に座る人気官能漫画家先生に向かって声を絞り出す。
「カラス先輩、僕に、お酒下さい」
「な、なんや。おぬし。何テンパっとんね……そっか、さてはお前さん、あの娘に惚れとったな」
「はい。恥ずかしい話ですが、僕が勝手に舞い上がってました。自分で言うのも何ですが、この傷は浅くないです」
「おうおうおう。いい年こいて若い女の色香に惑わされおって。免疫力の無い万年純情独身男はイチコロってか」
「……美女とは、罪に問われぬ殺人者ですね」
「何や。何気取っとんね。おどれは詩人か。三流やけど。まあ確かに美女は男を惑わし国を傾け、この世に罪をぎょうさん作りよるわ。しかし、はっきり言えんのは、女の罪の何千何万倍ほど、男の罪の方が重いっちゅう事よ」
 人生の鉄人、大阪の下町が生んだ在野の哲学者は宣う。
「勝手に惚れて勝手にフラれて、勝手に自分が傷付いたと思い込んで、そんで相手を殺そうなんて言語道断や。そんなクソ外道は神に鉄槌食ろて当然だッ。巻き添えで死んでった奴も気の毒やけど、それはそれで別の罪を背負って旅立ったんや」
 伝説の導きの神鳥を胸に掲げたカラス氏は、きっぱり言い放つ。
「……それにしても、たかが小娘一人にフラれたくらいで、いい歳した大人が男の価値ズリ下げてどうすんね。そんなやから、嫁さん早く貰えゆうてんのや」
 ニヤリと笑った。いつもの破廉恥オヤジの顔がそこにある。
「ええか、マーロウ、男の価値ちゅうもんは、脳天にある髪の毛の量で計れるもんやない。しかし、量があるに越したことはないんやで」
 いつの間にか背中に隠し持っていた小さなボトルを前に出した。
「あっ! そ、それは……有名な超強力の毛生え薬!」
「おうよ。心優しい八咫のカラス神が、万年失恋のあわれな薄毛ウサギ男にプレゼントしたる。それこそ見事なフサフサ髪のモテ男に再生したるわい……」
 じたばたする男川の頭を押さえつけ、三本足ならぬ十本の手を持った魔鳥は、ジャバジャバとボトルの中身の液体を降りかけた。
「ひいいいい……」
「そうれ、それそれ。生えろ生えろ。豊穣黒髪、脳天満作。導きの神よ、髪のお恵みをってか。がはは、わははははは……!」

 対面で呆れ顔の酔いどれ店長と、水戸黄門ヒゲの老人。
「あちゃー。お二人さん、相も変わらず仲良くドツき愛してまんな。こんなじゃ、お江戸から来はった薄毛の名探偵の旦那には、嫁はんなんか必要ありまへんで」
「そうどすな。見てて気恥ずかしゅうなるわ。こないアホなBLカップルは放っといて、私らは座席を前に向けて、知らん顔して呑み直そかいの」 
「ぐわっははははは。それでいいのだ。わっはっははははは」
 永遠のガキ大将、真っ黒カラスのおっちゃん高野山次郎先生の高笑いをBGMに、振り子式DC特急「スーパーはくと」は、右に左にステップを踏みながら、星降る夜の鉄路を痛快に突き進むのであった。
                              ――了


(この小説はフィクションです。登場する人物や事件、警察官や警察官の言動、毒物や毒物による禍事等は架空のものです)

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