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見えすぎる世界の代償 ~SNSが醸成する加虐心の芽生え~

現代における日本人の在り方というものは些か目に余るものがあるかと思います。

その日本人の目に余るというものに関していうのであれば、本質の問題はいまに起こったことではないのですが、それが目につきやすくなり問題化しやすくなった・してもいいという空気を帯びたことだと思います。
日本人の特性というものは社会を持ち合わせず、世間しかないというものです。

このことは問題として取り上げられるもので、このnoteでも散々書いてきたものでありますため、これを機にそちらに少し目を通してもらえればと思います。

いうならば、見えすぎるようになった。

この一点に尽きるのではないかということであります。

日本人の特性とSNSというものの相性は正のベクトルを持って伸びるものではなく、負のベクトルへ向き"よくない方向"と伸びることを加速させたように思えてなりません。

本来、人間と人間のあいだの関係性などというものは見えないものがあって当たり前というものでした。それゆえの想像力で補う余白や知ることで自分の印象を持ってまるでパズルのピースをはめていくように象る作業を要していたはずなのです。

しかし、現代においてはSNSなどというもので、意識して見えすぎることが過分にあると前述したものが失われていくのです。

すると、すべてを知ったわけではないが知った、知っているという我が出るようになり今度はその事実が自分の想像を強固にするものへと変化していきます。

これにより、もし何か自分にとっての不愉快が生じた場合、それを強固にされた自分の想像で相手を知った気になりコーティングしてしまうのです。

これが現代におけるSNSでの、いえ社会における閉塞感の中の不安を醸造し他人への加虐心へとなっているのではないかと考えて仮説を立ててみました。

見えすぎては不都合なもの。

これは人間にとってはあって当たり前のものであり、他人においてすべてが肯定されるような人間というものは在るはずがありません。

期待しては裏切られる、この行為における責任の所存を自分に包摂するのではなく、他人へと押し付けるという所作
これらが問題であるという自覚がなくSNSでの大衆という数で自己の正当化をはかり自己肯定感などというものを持ち出してはそれを満たすのです。

見えすぎては不都合であり、意識のうえでの見えすぎるということは自身の見せられすぎることに他ならないのです。

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