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オタク女子の痛バはオタク界隈のポリコレ御作法である
池袋を歩いているとオタクに勤しんでいる女子がたくさん歩いていたりします
そんな中に混じっているのは透明のカバンにたくさんの同じキャラクターの缶バッジをつけた「痛バック」と言われるもの、通称「痛バ」
この痛バは作るのも大変ですし、メルカリなどでも買おうとするこれがすごい高額商品になっているのはご存知でしょうか?
一度、「痛バ」で検索してみてください、その値段に度肝を抜かれることでしょう
今回のテーマはこの痛バを持っている女子の心理とそのオタク社会の構造を考察してみようと思います。
きっかけは池袋のアニメイトの前を歩いているといつも見る機会があり、これをなぜ持っているのだろうという疑問から考えてみました。
正解はありませんし、これが合っているとは思いませんが書いてみようと思います。
ちなみに取材にと何人かに持っている人に聞いてみたところ、そんな深い意味はなくて好きだし、推しだからという一言で終わってしまいました。
こんなんで終われるわけありませんから……
痛バはオタク界隈のポリコレ御作法である
『僕』の考察として痛バを持つ女子はポリコレを意識してオタクであるお作法として持っているのではないかという仮説を立てました。
ポリティカル・コネクトネス(ポリコレ)とは特定の人々に不快感を与えないようにと公正を期す態度のことです。
人種、宗教、性的指向なぢにまつわる偏見に焦点をあてて1970年代の左派運動で生まれたムーブメントです。
日本で知名度が高まったのは2010年辺りからで、2022年の最近ですとトランプ元大統領の発言やアメリカのセレブの発言でなどでもこの言葉は使用され聞いたことがある人もいるのではないでしょうか?
つまり、痛バを持つオタクの女子は同じ作品やキャラクターを愛する人を不快にさせないために持っているのではないかと考えています。
自分が何が好きかということは声を大きくして、今の若い人たちは言うことはできません。
なぜならば、同じ相手も好きでなかった場合それを理由に疎外されてしまう可能性があるからです。
人を目の前にしてはもちろんのこと、SNSでも言うことができません。
ゆえに、好きなことの発言は裏垢を使って発信をするのが今の「若者」の特性です。
ゆえに痛バで自分はこれが好きですということを気づいてもらい相手に気づいてもらうためのツールになっているのではないでしょうか
痛バという形で前提条件を作っておくことで相手に自分の好きなものが伝わり、それに共感してくれる人だけが自分とのコミュニケーションをとるということができるためです。
また、この痛バというカバンを持つことで自分の作品やキャラクターへの愛を表していると同時にそれを表明する機会を作っているのにも一役買っています。
痛バというカバンはいわば、同じものを何個もつけて作っているカバンで目立つものであることは一目瞭然です。
この痛バに対して、オタク女子は普通の人などが「すごいカバンだね」とか「なんで同じキャラクターのものがいっぱい付いてるの?」などのツッコミ待ちをしています。
そして、言われたときそれに反発する自分の感情を確認し相手に「説明」をしていきます。
この心理アクタンスは彼女らの作品への愛の証明にもなっているということです。
帰属意識の再認識
痛バという「モノ消費」行動が彼女らのアイデンティティの形成になっています。
というのも、共同体を失っている現代の人たちは自分を認識したり、アイデンティティの形成が困難になっているため痛バというモノを消費することで自分の存在を相手にわかってほしいという承認欲求を痛バというシンボリックなモノを消費することで満たします。
彼女らはアイデンティティの形成に自分の経験やつながりの愛を感じてはいないため、その価値観を持ち物での表現へと変えているのです。
自分の忠誠心や貢献度の可視化
痛バにより持っている人間がどれだけそのキャラクターへの愛があるかということをモノで可視化することで他者への自慢のようなものをして自己の心を満たしてもいるのではないでしょうか。
いうならば、ホストクラブで自分が好きなホストをナンバー1にしたいから、お金を使う。
お金を使っているから愛しているというような感覚へとなっていきます。
ここまでモノを消費しているから自分は作品やキャラクターを愛しているのだという後付けの理由のために痛バというモノが彼女らには必要なのかもしれません。
結語
作品やキャラクターの愛というものはモノの消費で計れるモノではないのですが、どうやら最近はあまりそいう風潮ではないようです。
「推しへの課金は惜しまない」など「課金」という消費行動が人々の会話の中に交換されるようになりその消費行動があたかも正当化されているように思えます。
一昔前になればそんなものは愛というものに置き換えなどできないように思えるのですが時代がそうさせているのかもしれません。
モノの消費による共同体の形成は所詮、資本主義の中の計算可能性を孕んでいます。
ゆえにその特性から今の時代にはそぐわないようにも思えるのですがその方法しかわからない人がいて、そのような方々が「痛バ」を持つ女子なのかもしれません。
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