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「期待されている人間像」を失った日本人

令和という時代になってから6年が経過をしてこの文章を書いております。

時代の流れというものは速いように感じるということはいつの時代も言われてきていましたが、テクノロジーを台頭にその変化は加速度的にその変化を極めていると肌で肌で感じえざるえないというのが今の状況であります。
何も悪いことではないのですがここまで色々なことが起きていくと、何かを知っている人間と何もしていない人間というこの差は大きなものになってきているなぁと感じています。

この何もしない人間が悪いのかといいますと、そういうわけでもありませんし、この何もしない人間とはどういう人のことを言っているのだと申す方々もいるかと思います。
まずはこの何もしない人間というのはどういう人かというと一様にして変化をあまり求めない人といって差し支えないでしょう
戦後でいう同じ制服を着させられても何も疑問を持たない人たちのことです。
もう少し説明がいるかと思います。

昔は同じく一様に豊かさというものの基準が決まっていました。
それはサザエさんのような家族を見てもらい、想像をしていただければ大きくはずれてはいないかなと思います。
少し皮肉めいたことを言いますと、自然的に人間的に大学に出てひとつの会社に入って何をするわけでもなく(いえ、これは誤解が含みますね、働いていれば何かあるのは世の常でなんでも大変なはずですから)出世していき、結婚をして子供を持って、マイホームを買うという幸せというかたちが決まっていた時代を引きづっている人は少なからずいるように思えます。
このように少し前までは「期待されている人間像」というものが決められていて、その決められた何か沿うことが立派な人間とされてきたのです。

しかし、今となってはこの価値観は崩壊してしまい経済や社会の仕組み的なものも考慮してもそれを目指すことが難しくなってきました。
日本は貧しくなってきているからです。
すると、最近の若者の中から出てくる言葉は「何者かになりたい」です
少し前までは昭和価値観においてその昭和すごろくを気ままに何も疑いもせずに生きていればよかったため「何者かになる」ということを考えなくてもよかったのが、情報の拡散つまりはYouTubeなどでの動画で誰かの生活や姿に憧れを抱いてしまい、自分も何かできるのではないかと考える人も多くなってきました。

このように個人としての自己を確立するという人間が出現してきたことによって、今までの期待されるかたちというものは過去の遺物へとなっていったのです。
しかし、この長くぬるま湯につかり、昭和的な価値観を崇拝してきた人間とってはこの異端者の考えや振る舞いというものは当然合うわけもなく「さまよう」人間になっていくのです。
昭和の価値観という制服を脱ぎ捨てた人たちは、いま一度その制服に袖を通すこともできません。それは社会の流れや自分の変容した価値観を受け入れてしまったがため自分で作り上げたものではなく誰かの容易した制服を着直しただけですから当然の帰結というわけであります。

この帰結というのは現在のさらなる閉塞感と先の未来に希望を持つという生き方が難しくなった昨今の時代と言っていいでしょう。
これを成熟といっていいのか衰退といっていいのかは言葉を選ぶのは難しくまたその判断は先の歴史が決めてくれるのでしょう

さて、この「期待されている人間像」がないこの時代にどのように自分でその像を作るのかが大事になってくるのではないでしょうか
1つの価値観にとらわれることなくと考え、さまよう人間に次はAIというものが道をつくっていくのかもしれません。
ビッグデータから自分と似たようなパーソナルデータとの相関性の良いパターンを探し出し、その生きる人間像を作ってもらい提示してもらう
その像を描くことは容易く、人間はそれで満たされていくのかもしれません
しかし、それはより良い人生なのか
いえ、なら昭和の価値観は何だったんだ?いいじゃないかと考えてもその通りでございまして

モデルロールをAIが創るにしろ、迷いながらも苦しみながらでも「自然」に自分の生きるということをまっとうするのか
それはこれから考えていく大切なことなのではないでしょうか
人間の生きる意味とは、
死ぬまでの暇つぶしと言われてしまえばそれまでですが……

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