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生きがい、働きがいなどというものについて

人間とはつくづく不思議なもので、生きるということについても「○○○し甲斐がある」などと理由を求めてくるのであります。
放っておいても生きていられるのに、いちいちそんな理由を求めることも人間らしさという愛しさや可愛さとして受け入れてしまう自分たちがいるのです。

生きがいなどというものはさしづめ、馬の前にぶら下げる人参のようなものなのです。
そんなに大層なものではありません。
ですから、仕事で働き甲斐のある素晴らしい職場ですといっても、働くことの結果の最大化が働き甲斐のあるということになるのです。
この場合の仕事というものの働き甲斐というのは働いたという労働の対価への賃金というものにすべてが回帰するのではないでしょうか

つまりはどんなに綺麗なお題目を並べたところで求める対価の最大化が実現されていなければ「働き甲斐」などというものは満たされないわけであります。
これをケチケチして賃金を出し渋り、他のことへすり替えて「仕事のやり甲斐」などと言い出すからタチが悪いわけです。

詰まるところ○○○し甲斐があるというものは、その対象の先にある理由であったりそのさきの最大化のものをさすわけであります。
では、生きがいというものは何を指すのかというより良い生きたという結果、それはよりよき死というものであります。

三島由紀夫の葉隠のようなものを言い出すわけではありませんが、昨今のご時世においては人の死に場所というものは昔のように自分で選べないようになってきているのではないかと思います。
現代においては多くの人が病院や自宅においてその生をまっとうするのではないでしょうか
生きがいというものを結果の理由として最大化とするときにそのより良い死とは現代においてはどのようなものになるのか
生きがいというものはそういう風に考えていかなければならないのかもしれません、一例として……

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